*二人の演奏やダンスに見とれて、写真を撮り忘れました…
5月11日(月)、小生が報恩講などで何度か法話をしている北海道滝川市の願成寺さんで仏前国際結婚式が行われ、小生が式辞を勤めた。新婦は願成寺さんの娘さんである泉真理子さん、新郎はアメリカ国籍のデイビッド・バーシュさんであった。なぜ小生が式辞なのかはこれから語るとして、小生にとって、仏前結婚式で英語を使いながら式辞を勤めるという経験はおそらく最初で最後ではないだろうか。それだけ貴重な経験をすることができたことは小生の人生においても忘れられない日となった。
10日(日)、7時30発のJALに乗り、新千歳空港着。しばらく電車待ちしてL特急スーパーカムイに乗車し1時間40分あまりで滝川駅に到着、願成寺さんに入ったのが12時であった。すかさず、明日の仏具チェックを開始し、1時過ぎに法務からもどった法務員さん2人といっしょに、式進行の細かい確認を一つ一つ丁寧にしていった。3時前にデイビッドと真理子さんを交え練習、4時過ぎは司婚と介添えをされる信光寺の竹内住職夫婦が到着。習礼を行い、終わったのが5時過ぎであった。4時間にわたる入念な準備をしただけに心地よい充実感であった。夜は近くのお寿司屋さんで御馳走になり、明日に向かって鋭気を養った。
滝川市というと、国際交流に積極的に取り組んでいる市であり、願成寺さんもホームステイとして外国人を何人も受け入れてきた。そういう環境のなかにある真理子さんの家族はみな英語が達者であった。真理子さんがANA新千歳空港株式会社で英語が堪能という評価を受けているのもうなずける。デイビッドが滝川で英語の講師を勤めていた時、英語仲間を通して二人は出遇った。昨年3月、デイビッドはアメリカに帰り、ワシントンDCで在米日本大使館に勤めはじめ(今回の安倍総理の英語のスピーチもデイビッドが行った)、遠距離交際を続けてきた。その間、様々なことがあり、様々な人々に支えもあって、結婚式を迎えたのだった。
小生がはっきり言えることは、これからの二人の人生にとって1月に浄土に還られた真理子さんの父親である願成寺住職(現在は前住職)の存在が大きかったことだ。
昨年の『住職の安心して迷える道』の「報恩講教団─門徒主体のお寺の魅力─ 12月27日(土)筆」に願成寺さんの報恩講のことが記されているので抜粋すると、「今回、泉住職さんが体調を崩しておられたが、すべての法要に出仕された。出仕する住職を気遣う門徒衆が印象的だった。どちらかと言うと地味な住職さんという印象を持っていたが、ここぞという時の姿勢に小生も震える感動を覚えた。報恩講を勤めるのは住職の責務というが、体調を崩している中で計7座の法要を出仕するのは並大抵のことではない。報恩講がいかに大切で尊い場であるかが身に沁みていないとできない。父親である住職を見ながら、旭川別院で列座を勤めている副住職が、報恩講のご満座の後の挨拶で、お寺を背負っていく決意を述べられると、多くの門徒が涙した。皆、苦悩を背負ってお寺に集っている。だからこそ、住職の姿や副住職の決心に感動するのであろう。そこにもお寺を支える坊守さんや門徒さんたちの姿があった。町がどんなに人が減ろうとも、念仏相続の灯火は消えない。ここにも帰ってくる場としてのお寺があった。」
3日間厳修された報恩講の夜に、真理子さんと話す縁を持った。お母さんの信子坊守と三人で仏前結婚をする大切な意味や人生について語り合ったりした。一番最初に国際結婚を認めてくれたのが真理子さんの父親だということを聞いた。その父親が、どんなに体が衰えていっても、衰えたままに尊い自分を見失わず生きていく姿を報恩講に出仕するかたちで示してくれたのだ。人生は自分の思い描いた通りにはならない。ならなくてもならないままに何を大切に生きるかを示してくださった。デイビッドと真理子さんは、死が近づきつつあった泉住職から「生きる」という深いすがたを教わったのだと思う。「死」ということがあるからこそ「生」が輝くのであろう。「生死一如」である。そしてその父親である住職を支え続けてきたのが信子坊守さんであった。その坊守さんのすがたから、夫婦とはどういうものかを真理子さんはしっかり感じられたと思う。息子さんの敬之さんも報恩講での言葉通り、3月に住職になり、父親の遺志をしっかり受け継いでいる(彼も今月末に結婚。お嫁さんの亜子さんもしっかりして素敵な女性)。
自分の結婚式を迎えるまでに父親は生きていてくれるだろうか。そんな不安を抱えながら「死」に向かい合う一つ一つの時間が大切な「時」として、家族一人ひとりのなかに、人間の深さと生きる尊さを与えていったのではないかと感じずにはおられない。
生きてほしいという願いは届かず、父親は亡くなっていった。小生は、報恩講での感動をお悔みとして送った。その後、真理子さんから、「先生には仏前結婚式からご出席いただければうれしいのですが…」というメールをいただいたのだった。その後招待状が届き、出席で返信した。3月に秩父別高徳寺(金倉住職)の永代経で法話した帰りに願成寺にお参りさせていただいた。信子坊守さんは「先生が来て下さることを真理子は大変喜んでいます。できれば何かお役でもやっていただければ…」と言われた。お寺の後継者の結婚式ではないので、では…と受けたのだった。
真理子さんをはじめ家族にとって父親の死は痛恨の極みであったであろう。しかし、ここでまた父親がすばらしいプレゼントをしてくれたことに小生自身も痛感させられたのであった。だれもが老いる身であり、そして病気をする身であり、死んでいかねばならない、そういういのちを生きている。すべてものが移ろいゆく、変わっていってしまうのが道理だと仏教は教えてくれる。しかし、同時に、すべてが移ろいゆく道理のなかで、たったひとつ変わらないもの、たとえ死別してもけっして変わらないものがあると仏教は教えてくれている。そのことを父親が家族に示してくれたのだ。どこかで人間は死んだら終わりということを思っている。しかし、父親の泉住職は、すでに弱り果てていく中に人間が本当に願っている姿を示してくれたではないか。その願いをずっと真理子さんたちにかけてくださっている。「尊いいのちに目覚めて生きてほしい」と呼びかけてくれている。そのよびかけとなった願いのいのちはけっして消えない。
デイビッドと真理子さんもお互いどんなに愛し合い助け合って生きていっても、最後は死別しなければならない。結婚するということはミスミス死別していく約束をするようなものだ。でもそれは絶望ではない。老い病み死んでいく身を共に生きていくならば、その苦悩を受け止めて歩くことができる道を尋ねたいのが人間の根源的要求である。それは、「尊いいのちに目覚めて生きてほしい」という諸仏となった父親の呼びかけを聞くことなのだ。その呼びかけこそが本願が言葉となった南無阿弥陀仏なのだろう。
乳癌が全身に転移して47歳で亡くなった北海道斜里郡の西念寺の坊守であった鈴木章子さんは「私がもし今ここに死んでも、私は父や母と同じように、南無阿弥陀仏になって、子どもたちを育てることができるんだなあ、ということを確かに実感いたしました」と亡くなる前に語られていた。亡くなった泉住職も同じことを言われるにちがいない。人間を目覚まして立ち上がらせる本願念仏の歴史、教えを伝える諸仏を感じれば、天命に安んじて人事を尽くして生きていけることを教えられたのだと思う。真理子さんの父親は、人間が生きる上で一番大切な姿勢、そして死んでもけっして消えないもの、この二つを老病死の身のままに、デイビッドと真理子さんに伝えてくださった。だから結婚式会場には南無阿弥陀仏となった父親がいっしょに祝ってくれるのだ。
そんなことを胸に、仏前結婚式が開かれた。小生だけでなく、司婚の竹内住職も表白、司婚のことばも日本語、英語両方で述べられた。デイビッドと真理子さんの誓いの言葉は感動的だった。国も育ちもちがう二人が出遇えた不思議な縁を心から喜んでいる、その二人の表情がとても素敵であった。法話の代わりに、司婚者から二人へのメッセージに加え、二人の母親がメッセージを送った場面は、今までの親子の関係が一瞬のうちに表現されていた。それが阿弥陀如来の尊前、親鸞聖人のご真影、そして泉住職の法名が掲げられている場で語られていることの重さに感動した。
披露宴は札幌のホテル日航で行われた。二人をよく知るそれぞれの人たちが、様々なエピソードを交えて祝福の言葉を送られていた。また、二人がバイオリンとピアノ演奏をしたり、踊りを披露したり、とても開放的でよかった。しかし、国際結婚は並大抵なことではない。だが、二人にはそれに勝る様々な苦難を乗り越えてきた歩みがある。二人を見つめる信子坊守、デイビッドの母親の涙目がすべてを語っているようにも思えた。信子坊守は諸仏である夫の願いが、子どもたちに継承されていることを何よりも喜んでおられた。
人間は不思議なものだ。苦しみ、悲しみなんてないほうがいい。だけど苦しみや悲しみが深いほど、人間も人生も深まり感動を呼び起こす。苦しみ、悲しみのままに喜んでいける道を共に歩んでいきたい。
〇 仏前結婚式の次第です。英文を添付します。ご参考まで。
〔2015年5月14日公開〕