念仏相続の大切さを痛感した年の瀬
12月10日(木) 三条教区第20組「寺族研修」
12月18日(金)~19日(土) 北海道上川郡淨慶寺「報恩講・納骨堂&庫裡 完成奉告法要」

いつの間にか今年も終わろうとしている。新型コロナウイルスに始まって、新型コロナウイルスに終わる1年であった。コロナ禍において、生活が一変し、多くの苦悩を抱え、特に医療関係者の疲弊、経済破綻による失業者の増大は深刻である。また、コロナ禍によって、人間の自我が持つ傲慢性が改めて問われることになった。

11月半ばごろより、予想されていたコロナ感染が全国に急速に拡散し、報恩講を内勤めにせざるを得ないご寺院もたくさんあった。小生も全国の報恩講での法話は半分キャンセルになった。報恩講を平常通り勤めるか、内勤めにするかは、門徒さんや地域の状況、何より感染拡大の懸念から、どちらになっても仕方がない状況である。

  • 木揚場教会外観
  • 毛綱
  • 親鸞聖人像
  • 講義の様子

12月に入り、中止や延期にならなかった地方の研修会と北海道のお寺の報恩講に出講した。

12月10日(木)、三条教区第20組「寺族研修」に出講した。テーマは「新型コロナウイルスと共存するには」であった。予想より多くの組内の住職、坊守、寺族が集まり、感染には十分に気をつけながらも、「共存」の内容を、真宗の教えを通して確かめたいという熱意がスタッフをはじめとして、参加者からひしひしと感じられた。

会場は「木揚場教会」であった。土徳のある会場で話すことに深い感銘を受けた。木揚場教会は新潟駅から車で5分ほど、信濃川に架かる万代橋のすぐ近くに位置している。

「木揚場」とは、明治期に東本願寺の両堂(御影堂・阿弥陀堂)が再建される際に、用材や様々な物資を集積されるため、各地の港に設けられた施設で、その数は30ヵ所以上であったが、現存するのは新潟の木揚場教会のみである。

木揚場教会に入ると歴史の重さをまず感じた。そしてそれとともに「尾神嶽の殉難」が頭によぎった。東本願寺再建のために越後では度重なる殉難が発生し、その中で最も大規模だったのが「尾神嶽の殉難」であった。大雪の山奥からの巨木運搬の際に大雪崩に遭い、多くの門徒が巻き込まれ、殉難死が27名にのぼったと言われている。そのなかに幼児もいたということから、家族総出で東本願寺再建に尽力した越後門徒の本山へのご崇敬の念の一点に頭が下がる思いであった。尾神嶽での巨木運搬に使用された「大橇」は本山にも展示されている。さらに巨木運搬のために、毛髪と麻を撚り合わせて作られた「毛綱」を使用したのだが、女性が髪を切るということは大変な覚悟だったのである。越後からは15本の毛綱が寄進されていて、すべて本山に展示されている。そこまで念仏に生きた伝統が「越後の精神的風土」となって今も生きていて、それを伝える大切な建造物が「木揚場教会」なのである。御御堂の余間にもうひとつの親鸞聖人像があって、普段拝見させている聖人とはちがって厳しいお顔をしておられたが、それは雪深い越後の厳しい生活が、そのお顔に現れているのかと想像していた。

建物はただの建物に非ず、そこには念仏相続の歴史があり、それを言葉を超えて感じることができる。その木揚場教会が新潟に1ヵ所しか残っていないというのは、様々理由があろうがちょっと悲しい思いがした。また新潟の木揚場教会の老朽化は著しく、ご修復するだけの財源などないそうだ。このままだと木揚場教会は、高倉会館や総会所と同じ道をたどるのだろうか。今のご本山があるのは、多大な全国のご門徒の尽力によるものである。ぜひ、木揚場教会のご修復に向けて、ご本山が越後門徒に恩返しをしていただきたいし、それは同時に全国のご門徒への恩返しである。「木揚場教会」の存在そのものが、越後の念仏の精神風土を相続している。それをずっと伝えていくことが使命だと思う。木揚場教会で講義をさせていただいたことで、あらためて人間の自我が暴走する現代において、この場に集い、仏法聴聞をさせていただく大切さを教えられたことであった。

12月18日(金)~19日(土)は、寒波に覆われた北海道上川郡比布町にある淨慶寺「報恩講・納骨堂&庫裡完成奉告法要」で法話を7席行った。淨慶寺様は従来、報恩講を9月に厳修しているが、完成したのがつい2週間前だったそうだ。そこで完成に合わせて、その感動をすぐ法要の形にしいという願いがあって、報恩講とともに完成奉告法要を勤めたのであった。豪雪地帯なので、雪にはある程度慣れてはいたであろうが、まさか新型コロナウイルスの感染拡大、特に11月以降北海道の感染者が増え、旭川では大病院に次々とクラスターが発生している状況にあった。住職は相当悩んだと思う。役員会も何度も開き対応に追われたようだ。小生は、淨慶様が厳修されるなら必ず行くと電話でご住職には何度も申し上げた。

  • 淨慶寺
  • 法要の様子
  • 住職さん方のご挨拶
  • 法話の様子

最終的には、いつも参勤される近隣のご住職方の出仕を断念し、住職、前住職、住職のご子息さん、住職の弟で法要を勤める形で徹底的に密を避けた。お祝いの法要にご法中の参勤がないのは寂しい限りであるが、またお斎もなしにして、ご門徒中心に勤行と法話を大切にした形を取られた。比布町で感染拡大しているわけではないこともあって、ご門徒も毎回の法座に聴聞された。コロナ禍でなければご門徒ももっと多く聴聞されただろうし、華やかさもあったであろう。しかし、先送りにせず、今すぐ伝えたいことが住職にはあるのだろうと受け止めた。華やかさはなくても厳粛さがあった。本来、小生もお寺に泊まって飲食を共にしたのだが、今回はとても無理ということで、お寺の近くの比布温泉施設に泊まって飲食をした。だが、その施設に泊まることによって、地元の人たちと会話ができたし、働いている若者の中には比布町出身の人たちも何人かいた。今、若者が地元に帰ってきている現象が起こっている。北海道は旭川、小樽という都市も過疎化している中で、よくよく見ると地元に留まる人や戻ってくる人もいるのだと痛感した。住職が過疎化していく町に念仏の灯が消えないよう、そしていつでも帰ってくる場所、お寺があることを皆に知ってもらうことを願い、老朽化した納骨堂と庫裡を修復したのだ。北海道ではお墓という形はほとんどなく納骨堂である。納骨堂は庫裡の中にあるから、ご門徒が住職、坊守と会話する機会も多い。もともと北海道は、内地から、寺族と門徒が、気候の厳しい北海道で、生きる支えとしてのお寺、そして経済生活、これが一体となって、お寺とご門徒が協力し合って町を作ってきた、北海道ならではの念仏の伝統がある。

淨慶寺様は、明治29年に説教所として出発し、多くのご門徒が聴聞さしてきた。そして昭和23年に「淨慶寺」として寺号を名告った。説教所が寺院化していくのは、そこに集っていたご門徒の大きな願いだったことは言うまでもない。表層では真宗の教えが風化しつつあるなかで、深層では真宗こそ時機純熟の教えとして、いよいよ待望されている現在、納骨堂、庫裏の感性は、説教所として出発し、そこで聴聞続けてきたご門徒、そして淨慶寺となってから淨慶寺を支えてきたご門徒の願いが、納骨堂、庫裡完成の内実を語っている。

「生死を超える」という人間の根本的課題は、新型コロナウイルス感染拡大の中にあって、いよいよ本願念仏の教えが、一人一ひとりのうえに呼びかけられている。

新潟の木揚場道場の念仏の歴史、上川の淨慶寺が説教所から出発し、淨慶寺と寺号を名告り、そしてこれからの苦悩する人たちも視野に入れての修復していく願い、そういう念仏相続の大切さを厳しいコロナ禍にあって、身震いするほど感じさせてもらった年の瀬であった。

〔2020年12月29日公開〕