1月17日(金) 一生忘れられない法話の思い出

昨年は、一度しか「住職の安心して迷える道」を書くことができなかった。多忙はあいかわらずだが、今年2月に還暦を迎える小生にとって、ハードスケジュールを少し緩和しないことには、どこかにしわ寄せがきてしまうことは感じざるを得ない。去年あたりから少しずつ緩和していっているのだが、それでもまだ足りないのであろう。

  • 正覚様の掲示板

さて、本来なら昨年の終わりに書く予定であったが、昨年、一生忘れられない法話の思い出となる出来事があった。それは、10月9日(水)から11日(金)まで、北海道小樽の正覚寺様の「正覚寺創立50年・宗祖親鸞聖人750回御遠忌」と名付けられた「報恩講」での法話であった。

法話そのものというより、法話をする前日に事件がおこったのであった。北海道に前日入りし、夕刻に札幌で友人と寿司を食べながら飲む約束をしていた。小生は大きなキャスターバッグを持って来道したのであったが、いつもキャスターバッグを間違えないよう、飛行機に乗り荷物を預けた際は、荷物が流れてくるベルトコンベアの先頭に立っており、空港から札幌に向かうエアポート号の列車の荷物置き場もたびたび目を光らせてチェックをするというふうに慎重に慎重を重ねてきた。なぜなら、まず真宗聖典が入っているからである。真宗聖典は買えばいいだろうと思う人がいるかもしれないが、使い慣れた聖典は、たくさんのアンダーラインやメモがあり、自分の手あかがついた足跡があるから、自然とページが引けるのであって、他人の聖典や新品の聖典ではけっして成り立たないのであり、小生にとって、いのちの次に大切なものと言っても過言ではない。そしてパソコンや法衣、法話資料など、出講の際に大切なものがたくさんあるわけで、慎重にならざるを得ない。

さて、小生は新千歳空港を使う場合、必ず寄る空港内の立ち食い寿司屋がある。バフンウニ、生ほっけ、にしん、はっかくなどの北海道のねたや、定番のづけまぐろが実においしいのである。ネタによって、シャリも赤酢と白酢に使い分けるこだわりも素敵である。シャリも小さめにしてくれるし、サッポロクラシックや、冷酒を飲みながら寿司を食べる時も、キャスターをちらちら見ながら食べるのであった。

今回もそこで食べて、エアポート号に乗った。荷物置き場が見えやすい席は埋まっており、小生の席の後方に荷物置き場があり、ときどきふり返りながら札幌に向かったのであった。札幌に着いて、荷物置き場に行ったとき、小生のキャスターがあったのでほっとしながら、キャスターに手を掛けたら、小生のキャスターそっくりの別物であった。頭が真っ白になった。そして札幌駅の交通警察に一目散に向かったのであった。「キャスターがまちがって持っていかれました。そのキャスターを開けて、相手方に連絡してください。明日から大切な仕事があり、キャスターがもどらないと大変なことになるのです」と警察官に訴えた。警察官の方々は「おそらくバッグがひとつ残っていますから、まちがえたのだと思いますが、100%確信がなければ、人様のバッグを開けることはできません」と言われた。小生は納得いかず「被害を受けた者が我慢するのはおかしい。まちがって持っていかれたのはほぼ確実ですから開けてください」と繰り返した。「それはできないことになっています。万が一盗難ということも考えられますし、断定には至っていません。まちがいに気づけば動きがあると思いますので、お客さんの気持ちはよくわかりますが、おちついて今後の状況を見ていきましょう」となだめられた。

真宗聖典も法衣もない。法話の資料は送ってあるが、数回の法話をどう展開するか、その時によってちがうわけで、キャスターには法話メモがあるが、それも見ることはない。ショルダーバッグしかない今の状況に愕然としながら、友人と会い、寿司屋で愚痴をこぼした。友人たちやマスターも心配してくれたが、やはり法的にキャスターを開けることができない以上、出てくるのを待つしかなかった。正覚寺のご住職にも電話をしたら、かなり心配をしてくださり、ご住職の親戚の寺院の坊守さん(姉)までメールをくださった。大変なことになった。しかし、ないものはないと観念し、しっかり飲んで食べたが、ホテルに帰り一人になると、不安が押し寄せてきた。

翌日、コンビニで歯磨きや下着類を買った。コンビニでは揃わないものは駅前のユニクロ(極寒用ヒートテック)やビックカメラ(充電器)で買い込んだ。大丸で一番小さいキャスターバッグを買って小樽に向かった。キャスターのなかには下着、洗面用具だけである。こんな形で記念報恩講に行くことになろうとは夢にも思わなかった。

  • ご住職にお借りした法衣、勤行本、真宗聖典

正覚寺様に到着し、肩身のせまい思いで講師室に入った。いきなり、目にしたものは、すべてのきれいな法衣が用意されている様子だった。その法衣をお借りするしかないが、そのおもてなしに頭が下がる思いであった。「お香」もキャスターのなかなので、ホテルの封筒に「御香資」と書いて、住職にお渡しするのは本当に恥じるべきことであったが、ご住職や坊守さんは終始にこやかであった。親戚の御寺院もにこやかに迎えてくださった。

そして、法話が始まった。ご門徒の皆さんに正直に話した。皆さんとても心配してくださった。「現実は変わらない。だからとらわれから開放されて、今あるままで、精いっぱい生きていくことが真の救いだと感じた」というところから法話が始まり、まったく予定していなかった法話が却ってご門徒にも響かれたようだった。不思議なことである。この日、2回の法話を無事終えた。ご門徒は「早く出てくればいいですね」と親身になって心配してくださったので、そのままの自分を受け止められたのではないだろうか。

翌日の朝、妻から連絡があり、キャスターが出てきたとのことだった。しかし──どこにあったかというと、なんと新千歳空港の立ち食い寿司屋さんであった。誰かがまちがえて持っていってしまったのではなく、自分が間違えていたのだ。お寿司屋さんに問い合わせると、丁寧に応対してくれた。なぜ、キャスターは開けられていないのに、自分のだとわかったかというと、キャスターのJALの千歳という半券が貼ってあったからだ。お店の人はJALに問い合わせたが、個人情報なので教えられないとの回答だったので、警察に連絡して、JALからの情報提供をしてもらい、判明したのであった。そして連絡が入ったということであった。

  • 法要の様子(御満座)

寿司を食べながら、キャスターを時折見ていたが、小生が置いた場所に、瓜二つのキャスターがあったのだ。なぜ間違えたか、ふり返ってみた。寿司をあと2貫食べようと思っていたが、札幌で温泉に入ってリフレッシュしたかったので、次のエアポート号に乗るため、急ぎ会計をしてキャスターを持って出たのであった。急いだために起きてしまったミスであった。愕然とし、目の前が真っ暗になった。あと寿司2貫を食べて、あわてず出ていれば起こらなかった事件である。いつも慎重な自分がキャスターを間違える可能性があるなど考えず、他人の仕業と思い込んでいた小生に、阿弥陀さんは薄笑いを浮かべていた。自分は正しいという人間の根性は、こういう形で出てくるのだと教えられた。

被害者の方は、富山県から旅行に来た方であった。キャスターのなかには、パソコンもあり、とても不安だったと聞かされた。恐る恐る謝罪をするため電話をした。一応総クレーマー社会と言われる昨今、怒鳴られるのは覚悟していた。「私、本多と申します。このたびは大変ご迷惑をおかけし、言葉もございません。申し訳ございませんでした」と言うと、「お名前は、店の人から聞いていますが、もしかしてとなりで飲んでいた人ですよね。たしか冷酒を飲んでいましたよね」。小生とほぼ同世代の人であった。「○○さんも、サッポロクラシックを飲んでいましたね」と応対するとにこやかな雰囲気になった。小生は「私、寿司をあと2貫食べるのをあきらめて、電車に乗ろうとしたので、まさか同じ位置にそっくりのキャスターがあるとも思わず、まったく疑いもなく持って行ってしまいました」と改めて謝罪をすると、被害者の方は「あれほど似ていると間違えますね。もし私の方が先に食べ終わったら、私がまちがえたかもしれません。とにかくお互い無事もどってきてよかったですね」と笑いながら語られた。その言葉に深い感銘を受けた。この人は『歎異抄』13章の「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」という言葉を自覚的に知っているのではないか、富山だから真宗門徒の可能性があると直感し、訪ねてみた。その方は「私はたまたま門徒ではないですが、まわりは門徒だらけだから、葬儀など行くと法話は聞きます」と言われた。「帰京したら、東京の名産品を送ります」と言って電話を切った。

「自分が間違えていた」と今日の法話でどう話そうかと悩んでいた小生は、その方との会話によって、「ごらんのとおり救われない私です」とありのままの自分をさらけ出す勇気が湧いてきた。「自分が一番見えない」しかし、つながり合い支え合っている世界のなかかせら、その自分があぶり出され、凡夫の自覚を通して、現実を受け止めて生きる本願の意欲があたえられることを、正直に話すことができた。そちろん、それ以外の法話もたくさんしたが、キャスター紛失という出来事が、むしろ用意してきた法話以外の法話を小生から引き出してくれた。法話は生きものである所以である。ご住職をはじめ正覚寺の皆さま、ご門徒、親戚寺院の方々も心から「よかったですね」と言ってくださった。涙を浮かべられた門徒さん目は今でも忘れられない。本当に皆さまの暖かさに頭が下がるばかりであった。皆凡夫ということを知っておられた。凡夫の大地に立つことが、関係性を開いていくことだと教えられた。

  • 旭山動物園園長の坂東元氏の記念講演

この日の夕方が、正覚寺50周年記念として、コンサートと旭山動物園園長の坂東元さんの記念講演があった。その時間しか空港に荷物を取りに行くしかないので、空港に向かった。出仕していた安平町のお寺の住職さんが空港までわざわざ送ってくださった。寿司屋のオーナーさんは留守だったが、みな気持ちよく迎えてくださった。キャスターバッグから「東京バナナ」を取り出して、お詫びを言って、小樽に戻ったのであった。

最終日は、小生の法衣を着て、御満座では袴もはいて、力まず、しかし精一杯法話をした。終わってみると、すがすがしい気持ちに覆われた。

  • ご住職の法衣をお借りしての法話(初日・2日目)
  • 自分の法衣で法話(3日目)

確かにしんどかった。荷物が何もない状態で、お寺に入るみじめさ、大切なものが戻ってくるかわからない不安、でもそれが現実ならば、自分の思いの中だけでは完全に息詰まる。つらい、苦しいというところに、関係性を通して開かれてくる世界に身を置かせていただいたことにとても感動した。

しかし、人間は懲りない。最終日の翌日は、東京で仏前結婚式&披露宴で仲人を勤める。台風が接近し、翌日は飛行機が飛ばないのは決定していた。小生は、記念パーティー後に今晩飛行機に乗る予定であったが、もし今日遅くは飛ばなかったらどうしようかという不安に覆われた。人間は今現在の最大の問題が解決すると、次の現実問題を気にし始める。キャスターがない時は、飛行機の心配はしなかった。キャスターで頭がいっぱいだからである。しかし、その問題が解決すると、現実にせまっている次の問題に悩み始める。私が煩悩そのものであることも痛感した。その煩悩に感謝できるかどうか、煩悩があるから、教えに出遇うことができると、今後も頷いて歩めるか、早速、如来から問われる私であった。

飛行機が無事飛ぶと、明日式場に着けるかどうかということを心配していた。どこまてで救いがたき身を生きているのだ。

〔2020年1月21日公開〕