8月15日(水) 田口弘君(釋弘願)の命日

今日は田口弘君(釋弘願)の命日であった。あっという間の一年であった。肥大性心筋症(推定)で午後9時21分に急死した。彼は、目が見えなくても、4年前、母が亡くなり、一人になっても、お念仏に支えられて、見事に人生を全うした。それは、けっして、お念仏によって平気で生きられるようになったのではない。目が見えない不安が聞法の場に足を運ばせ、不安を抱えながら、自我をよりどころとせず、お念仏の世界をよりどころとして生き抜いた。まさに「安心して迷うことができる生活」を続けてきたのである。彼の生活はすべてお念仏の中の出来事であった。言い換えれば、お念仏の呼びかけにうなずいてあたえられた信心の世界のなかで生きてきたのであった。

  • 田口君(左)と小生
  • お盆&平和を願う法要
  • お斎での一言コーナー(田口君の叔父さん)
  • すいとん

今日は、「お盆&平和を願う集い」、この行事は宣伝をせず(『ふれあい』の予定表に掲示するのみ)、気が付いたご門徒が集まってくる形をとっているが、毎年30名ほどが参詣にいらっしゃる。宣伝しない法要に足が向くご門徒が増えることを願っているのであり、こういう法要があっていいと思う。今年は、田口君の命日だと知って参加する方々もいた。

彼の法名をご本尊前の前卓に安置して、勤行をしてから、法話、そして黙とう、それからお斎として、すいとんをいただいて歓談をしたことであった。

法話は、昨年8月15日に、田口君が障がい者9条の会で講話し、その帰りに倒れたところからはじまった。そして、平和を願う人間が戦争をし続けてきた事実をどう受け止めるのかという問題を提起した。

ヒューマニズムの精神から言えば、平和を願うだろうが、ヒューマニズムでは超えられないものがある。平和を願っているのは私たちだろうか。平和を願っているのは如来であることに気づくかどうか。聞法するということは、平和を願う人になるのではなく、縁次第では戦争をしかねない愚かな凡夫という、迷いの深さに気づかされていくこと一点ではないか。その自覚を通して平和を願う心が与えられ、はじめて平和と向かい合う視座をいただくのだということをいくつか例をあげながら話をした。つまるところ分別する差別世界に生きる私たちには真実などはなく、無分別の世界にふれることだけが、真に平和と向かい合う出発点になるのではなかろうか。宗教は一つのジャンルではない。あらゆる分野の根底に横たわっているのが、「人間とは何か」「生きるとは何か」といった宗教課題ではないだろうか。

お斎では、一言コーナーがあり、田口君の話題もずいぶん出た。8月15日はお盆中で、医者が少ないことから、救急を受け入れられない病院が多く、少し離れた病院でやっと彼は受け入れられた。お盆でなかったらと悔やまれてならないが、これも縁である。8月15日というお盆、終戦の日、そして彼の命日…。そういう意味では、彼を思い出す人は多いであろう。そう考えると田口君らしいと思う。ちなみに彼の母親の命日は1月1日である。縁とはいえ、なかなかの親子である。

彼の通夜葬儀は昨年の8月24、25日に拙寺で厳修された。その間、小生は、亡くなった翌日の17日には浦和の一心寺さんの「盂蘭盆会・初盆合同法要」、18日は茨城・西念寺さんの「夏季永代経法要」、通夜の前日には岡崎教区第24、25、26組の合同夏季講習の法話に出講していた。田口君の遺体を拙寺に残して出かけるのが気になったが、妻たちにまかせて、法話に専念した。なんと田口君の「本多さん、念仏申してくれ」という強烈な還相回向に後押しされるように法話したのであった。自然と田口君の生きざまの話が法話の核になっていた。それから年明けまでは、法話のメインは田口君の話であった。それほど強烈に彼が小生に寄り添っていたという証だと思っている。12月の大谷婦人会主催の「お内仏報恩講」(京都・親鸞交流館)の法話は『花すみれ』3~6月号まで連載記事となり、1月の教学研究所主催の「日曜講演」(京都・親鸞交流館)の法話は『ともしび』6月号に連載されたので、全国のご門徒に田口君の生きざまが伝わったのだと思うと、いろいろなところで、諸仏たる田口君に励まされて生きている人たちがいることに深い感銘を覚える。

彼が亡くなって半年たったころから、彼の話ばかりではいけないと思い、彼を法話のメインにしない方向にしたが、それは小生のはからいであった。メインに添えなくても、自然と彼の話が出てきてしまうのであった。法話は生き物だとつくづく思ったし、むしろ自然に出てくることが本物だとさえ思える。蓮光寺のご門徒は、何度も田口君の話を聞いているが、まるで初めて聞くように、そして自分の生きざまを確かめるかのように聞かれている。何度も何度もくりかえし聞くことで、本当に聞こえてくる世界があることを、田口君やご門徒から教えられたことであった。

田口君が亡くなって1年。蓮光寺での法話は除いて、外で法話をした回数は約70回。ほんの少しであっても、すべてに田口君のことが自ずから口に出るのであった。

明日は、一心寺さんの法要。心新たに、そして自然にまかせて、法話をさせていただこうと思う。今も諸仏となった田口君が小生の中に生きている。

田口君の一周忌(弘願忌)は、今月下旬に厳修される。

  • 岡崎教区24、25、26組合同夏季講習会 ('17/8/23)
  • 北海道法願寺報恩講 ('17/9/7〜8)
  • 山形5組真宗本廟奉仕団 ('17/9/26〜27)
  • 明治大学リバティーアカデミー ('17/10/25)
  • 京都教区若狭2組「報恩講」 ('17/10/28~29)
  • 三条20組専念寺「報恩講」 ('17/11/15~16)
  • 大谷婦人会お内仏報恩講 ('17/12/10)
  • 親鸞交流館日曜講演 ('18/1/21)
  • 静岡別院公開講座 ('18/2/13)
  • 三条教区推進員・育成員共学研修会 ('18/3/12)
  • 能登教区第8組同朋大会「真宗門徒の集い」 ('18/4/1)
  • 岡崎教区殉教記念法要 ('18/6/5)
  • 奥羽教区青森第3組「寺院役職者・ご門徒研修会」
  • 東京8組聞法会〈年5回〉 ('18/6/16)
  • 伝道講習会本講 ('18/6/18~23)
  • 名古屋教区第23組徳泉寺「盂蘭盆会法要」 ('18/8/12)

〔2018年8月17日公開〕