9月26日(火)〜27日(水) 同朋会館工事中の奉仕団
 /  9月28日(木)〜29日(金) 鹿児島の施設で櫟先生夫妻と再会、そして先生の講義

  • 和敬堂入口
  • 和敬堂食堂
  • 和敬堂風呂場
  • 奉仕団結成式
  • 講義の様子

9月26日(火)〜27日(水)の1泊2日で山形教区第5組門徒会奉仕団12名の教導を担当した。5組の称善寺さん(山形県東根市)には、ここ7年、報恩講に出講し、法話をしているが、たまたまではあるが、称善寺さんの5組の門徒会奉仕団の担当教導であったことはご縁としか言いようがない。称善寺さんからもご門徒2名が参加されていた。

さて、同朋会館は今年7月から1年間をかけて改装工事を行っている。その間、7月に完成した「和敬堂」で食事、入浴はできる(今後、同朋会館と研修道場の共同施設として食堂、風呂を備えた施設として完成した)。ただ、研修道場で、住職修習や教師修練等で使用としている場合、研修道場に泊まれず、講義の場所もその都度考えなければならない。今回は住職修習にあたっていることから、奉仕団は詰め所に泊まることになり、小生も5組門徒会とともに東浅井詰め所に泊まることとなった。講義はなんと視聴覚ホールの地下3階の応接室3であった。和敬堂から靴を履いて参拝接待所経由で行かねばならず、部屋は鉄筋の小部屋で何か監禁されているような感覚(笑)もあったが、車座になって、むしろ親近感を持てた。門徒会の人たちもいやな顔ひとつせず、聞法することをひたすら喜ばれていた。小生も尺一補導も、今までにない感覚に、こういう奉仕団もなかなかいい経験で、むしろ新鮮であったし、とにかく何よりも門徒会の人たちの姿勢がすばらしかった。どんな不便でも、阿弥陀さんと親鸞さんに会いに来ているという基本的姿勢がしっかりしていれば移動の不便さなど問題ではない。やはり東本願寺の土徳は人間の思慮分別を超えたものであった。

皆、自分の問題として講義を聞き入ってくれた。どこで本当に生きたといえるのか? 誰もが共通に持つ課題を教えに訪ねていく門徒会の皆さんのすがたに励まされたのはこちらのほうだった。このところつらいこと、悲しいことばかりに出くわしてきたので、仏法の世界に、ともに学び、共に語り、共に笑う、まったく利害関係のない世界に身を置いて、「生きているな」と実感したのだった。

11月10日(金)〜11日(土)は称善寺さんの報恩講である。今回、参加された門徒会のみなさんも、報恩講を楽しみにしてくださり、聞法にきてくださりそうだ。寺の垣根を越えて、他寺のご門徒が集まるというご縁が生まれたこともうれしいことだった。

日程終了後、再会を誓って、ワゴンタクシー2台に乗り込んだ門徒会の方々を見送った。門徒あっての宗門、そして住職も門徒の一人。高桑研修部長は、門徒について、「源空光明はなたしめ 門徒につねにみせしめき 賢哲愚夫もえらばれず 豪貴鄙賎(ひせん)もへだてなし」という源空和讃を引かれて、親鸞聖人は「門徒」に左訓をつけ「ともがら」(ともだち)と表記していることを開会と閉会の挨拶を通じて強調されていた。部長のお寺では、酒を飲みながら門徒と仏法談義で、時には胸をつかむほどのけんかをするそうだ。それは門徒同士だからである。人間の根本的課題を共有しているともだちだからである。まさに仏法を聞いて喜びあっているからできるけんか、利害関係を超えている。これこそ門徒だということだ。ちょっとけんかをしたら、関係が崩れてしまう、崩れるだけでなく相手を徹底的に批判していく、そういうことが世の中に頻繁におこっている。被害者意識とクレーマー。自分を見ることがない社会。そのなかにあって、教えを聞く仲間だからこそ本当のけんかができ、和解もできる。これを門徒というのであろう。釈尊は他力の信心を喜ぶ人を親友(しんぬ)と言われる。僧侶は門徒をお客さんにしていないか、門徒を自分とちがう人間として見ていないか。山形教区第5組の門徒会の人たちの交わりを通して、仏法を喜び合う場に身を置くことができ、お互いが門徒として、今ここに生きている自分がうれしかった。

  • 語らいの時間
  • 全員で記念写真

翌日、伊丹空港から鹿児島に向かった。羽田から来る教化研究室2期の面々と鹿児島空港で落ち合い、レンタカーで日置市にある櫟先生夫妻が住まわれている施設に向かった。先生とご縁のある山下春美さんもいらしていた。谷子前坊守さんはきれいにお化粧をして、今か今かと待っていてくださった。今年92歳である。小生たちが来ることを本当に心待ちしていた。谷子前坊守さんの部屋でしばらく話をした後、櫟先生の部屋で話をしている山下さん連絡をとって、櫟先生の部屋の前の応接室で先生夫妻と山下さん、我々7名で2時間ほど語らいの時間をもった。櫟先生は、かなり耳が遠くなり、我々の会話はほとんど山下さんが大きな声で先生に通訳するような形で伝えてくださった。認知症にもなられていて、よく冗談を言うようになった。94歳になられたが、ご自分では何度も91歳と言われていた。しかし、曽我量深先生の話になると、目を大きく開けて「曽我先生がいらっしゃらなかったら、今の私はいない。」と強調された。その背景には「南無阿弥陀仏がなかったならば、この私はどうなっていたかわからない」という念仏の教えに対しての深いご恩、それはそのまま曽我先生へのご恩であった。二河白道の比喩の講義を聞いていると、東京での櫟先生の講義を聞いているようであった。二河白道の比喩を通して「本願の大道に生きる」ということ一つだと強調されていた。谷子前坊守さんも補聴器をつけて、先生の話を静かに聞いていた。部屋のなかは、老いの空間、一人ひとりの苦脳の歴史の空間であったが、それが同時に浄土の空間でもあった。なぜなら、みな、その空間を喜んでいたからだ。苦悩に喜びが伴ってくる。不思議なことだ。人間の利害、損得を超えた空間が広がっていた。別れ際はお互い、寂しい。もうこれが最後と思ったり、いやまた会えるだろうと思ったり。今生の別れはそう遠くなくやってくるだろう。しかし、念仏の世界では必ず出遇える。そううなずきながら施設をあとにしたのであった。それから熊本に向かい、教研仲間と一杯飲みながら夜をすごし、翌日、教化研究室の学びについて語り合いながら、帰京したのであった。

この4日間は力みのとれた自分にひさびさ会うことができた。人間、忙しすぎると我を見失う。何も足さない、何も引かない、そのままの自分を回復することが人間にとっての深い願いである。それは念仏がなければ成り立たない。そんなことを痛感した4日間であった。

〔2017年10月3日公開〕