10月19日(月) 関西学院大学で藤井美和教授と対談

「同朋新聞」1、2月号の取材で、関西学院大学人間福祉学部の藤井美和先生と対談した。現代は自分を徹底的問わない時代であり、人称で言えば三人称の世界一色になってしまった。三人称の立場というのは、自分が問題にならない論理だけの世界であり、その世界にいるかぎり、人間の根源的課題を見つめるということがない。つまり、本当に生きるという世界を見失っている時代と言っていい。特に問題なのは「死」ということも三人称でしかとらえられなくなってきてしまったことだ。三人称世界が幅を利かせている現代において、最近の葬儀事情もその流れにあり、ほぼ三人称世界になりつつあるし、「終活」も終活カウンセラーという言葉に象徴されるように、やはり三人称世界が強いことはまちがいない。死を自分の問題として受け止めていくことで生きることも見えてくるという仏教の視座が失われてしまっていることの危機感を感じながら、クリスチャンであるが仏教の課題と同じ課題を共有している死生学の藤井先生と語り合いたかったのだ。藤井先生との対談はずっと以前から待望していたが、しばらく体調を崩されていたこともあってなかなか実現しなかったが、ついに念願が適ったのであった。

  • 関西学院大学

関西学院大学は、とてもおちついていて、本物の空気が流れていて、佐治さんに代わって担当となった三池君と思わず見とれてしまった。大学関係者の方もとても礼儀正しく親切であった。藤井先生の研究室をノックすると、藤井先生が明るく迎えてくださり、2時間40分にわたる対談が始まったのであった。

死生学とは、死を含めてどう生きるかを問う学問である。人間の存在を支える領域である「スピリチュアリティ」に焦点を当て、いかに生きるか問いかける。従来の医療では重視されにくかった終末期患者の支援や「生命の質」を向上させる視点からも注目を集めている。あらゆる角度から死を考え、いのちと向き合い生きる力を身に付ける学問である。そのアプローチには、死を迎える人(ミクロ)、死に往く人を取り囲む人たち(メゾ)、社会や文化が死をどうとらえるか、脳死、脳死臓器移植、出生前診断(マクロ)など、幅が広い。

藤井先生との対談については同朋新聞を読んでいただきたいのでここでは少しだけ紹介したい。死を受け止めるということは、一人称や二人称の視点が大切で、自分が問題にならない限りは、やはり死ぬことも生きることも客観的な議論になって終わってしまうことをまず言われた。死ぬということが自分の問題になったときには、生きるということは今までよりずっと重たく、もっと具体的に迫ってくる問題になるということにおいて、生と死は別々のものではないし、死ぬということを見たときに、生きるというのが、ものすごくクローズアップくると。そして、自分の死に向き合うというのは、まったく違う世界観を生み出すと言われる。つまり、本当に大切なものが見えてくる。死を意識しない生活では、お金や地位や名誉など、自分によろいをつけてそれを自分だと思って生きている。よろいを失うことが自分を失うことのように思い込んでしまう。しかし、死の前によろいは本当に大切なものではないと気が付いてくる。よろいを手放し、あるがままの自分に立ち戻ったときに、信頼関係とか愛とか感謝とか、そういう目に見えないものが本当は自分を支えてくれるものだとわかってくる。死の疑似体験のワークショップを行っていると、学生がこの方向に変化していくことがよくわかるそうだ。つまり自分をまるごと包むような精神的支えが人間にはほしいのである。仏教的に言えば、自分の思いが間に合わなくなった時に、本願の呼び声がはじめて聞こえてくると言うことがおこる。そのままの私を受け止めてくれる世界に出遇うということが、人間の根本的願いなのであろう。藤井先生はそれをスピリチュアリティ(存在領域)という言葉で押えられた。人間は本来、スピリチュアペイン(自己存在全体に対する苦しみ)をもって生きているのである。それが「死」を受け止めるかたちで露わになっていくのであろう。

そもそも、藤井先生が死生学を志したのも、一人称、つまり自分が死に至る危険を伴う急性多発性根神経炎という体がまったく動かなくなる難病を患ったからだ。27歳の時であった。その時に、藤井先生を支えたの「寄り添うこと」と「委ね」ということであった。病気で、全然別人みたいな顔になって、体になっていても、藤井先生の母は、今までの母とまったく変わらず接してきた、また患者さんのなかに、病室の前から見える神戸港に入るサンフラワー号の景色をただだまって鏡を使って見せてくれたり、看護師さんが、そっと聖書の言葉を読んでくれたりしたことが、藤井先生を支えたというのである。「きっと元気になるよ」というのは、健康がいいという価値観の押し付けでこんなつらい言葉はない。

「寄り添うこと」とはどういうことか。「何かそこに価値付けをしないというか。ただ、そこに「ある」ということがすごく大事です。何で寄り添えるかというと、同じ問題を根底に抱えているという共感があるからです。本当に人間が同じ地平に立つことができるとしたら、何かしてあげようなんて思っている、その傲慢さが打ち砕かれて、私はこんな苦しんでいる人に何もできないという苦しみを持っている人と、自分のこの苦しみをどこに預けたらいいのかという苦しみを持っているという意味でしか対等にはなれないのです。寄り添おうと思ったら、どんどん離れていくという。むしろ何もできないという限界を認めないと、寄り添えないと思うんですね」という藤井先生の言葉が響いた。「私たちには凡夫の自覚ということで教えられることです」と言うと、藤井先生は「そうですか」と深く頷かれた。自分の存在をありのままに受け入れていくには、寄り添う人がいることだ。そういう関係性が必須なのである。これに対して、援助職の人にありがちなのは「傲慢か絶望」だと言われる。相手がすごく喜んだり変わったら、ああ、私の技術とか、私は素晴らしい。相手が変わらなかったら、ああ、もう自分は駄目だと。それは三人称の世界の話である。援助職の人たちも藤井先生の授業を受けられて、三人称ではなく、自分の死静観をきちんと持つということに気付かされていく人が多いという。

我々僧侶もよくよく気をつけなければならない。自分が死を受け止めることをしないで、教義をふりまわしているだけなら、門徒さんはたまったものではない。また、僧侶は門徒から学ぶということがなければ本当の関係性は開かれないのである。藤井先生も生徒から常に教えられると言う。人間は、支える側にだけなることも、支えられる側にだけになることもなくて、支えていると思っていても支えられていて、支えられていると思っても支えているというのが、本当の関係性だと言う点においても藤井先生と共感し合えた。

さらに藤井先生は自分の限界を認めて、そこをどこかに「委ねる」先がないと本当の関係性が開かれないということも指摘されていた。確かに人間が人間を完全に救うことなどできない。最終的には自分の思いを捨てて委ねるという。藤井先生の場合も、神さまに委ねるとい言われる。自分のこういう思いは、こうもある、こうもある、こうもあるけれども、最終的には、それこそ、みこころのままにという、委ねるということだと言われていた。我々で言えば、どこまでも罪悪深重の凡夫の自覚があたえられて如来におまかせするということが、人間と人間の本当の関係を開くことになる。

今回の対談はキリスト教徒と仏教の対話としても有意義であった。キリスト教と仏教は同じかちがうかという三人称の議論ではない。藤井先生はクリスチャンとして仏教に共鳴し、小生はキリスト教に本願を見たのである。死を受け止めるとは、本当に何が大切かが問われることである。死を受け止めなければ生が見えてこないのである。この根源的問いを現代は回復していくことである。そのためには関係性を再構築することである。さらには人間を超えた眼差しを持つことが、真に人間を自立させていくことになるということを、自分の問題として受け止めていくことが願われているのであろう。

〔2015年10月29日公開〕