同朋新聞「人間といういのちの相」インタビュー 2015年1〜3月号

同朋新聞で「人間といういのちの相」の連載が始まったのは2006年8月号からであった。その時からずっとインタビュアを勤めてきて早8年目を迎えている。

先々月に、NHK「こころの時代」を30年以上にわたって担当されている金光寿郎さんと、本願寺派の僧侶でシンガーソングライターのやなせななさんのインタビューをさせていただいた。現在、金光さんの校正が終わり、まもなくやなせさんの校正にとりかかる。

金光さんとは面識はあったが、今年の6月、作家の青木新門さんが語り手となって蓮光寺で「こころの時代」の収録が行われたことが縁となって、金光さんとゆっくりお話をすることができた。収録現場の様子をずっと拝見させていただいたが、こまかい打ち合わせを一切せず、お互いの言葉の交わし合いから自然と出てくる感性を大切にした対談であったので、会話が生きていて、言葉一つひとつがとても新鮮に受け取れたのは感動ものであった。金光さんは、語り手の青木新門さんが語ること一つひとつを深く受け止めて、そこからまた質問を投げかける姿勢に脱帽であった。小生も8年以上「人間といういのちの相」でインタビューを勤めていたとはいえ、ラジオ時代を含めば、それこそ60年もインタビュアを勤めている金光さんから見れば、ただの駆け出しにすぎない。いつまで小生が同朋新聞に関わるかわからないが、金光さんの姿勢から多くのことを教えられた。さらに、戦後、高度経済成長、バブル、そして現在に至る激動の時代を通して、これだけ多くの宗教者、識者と対話されてきた金光さんにとって、宗教とは何か、さらには宗教心とか菩提心、信心をどう受け止められているか、ぜひお聞きしたくなり、東本願寺出版部の会議に諮って、同朋新聞の取材が実現した。

質問内容はあらかじめ用意はしたが、ほとんどペーパーを見ることなく、金光さんと語り合えた。金光さんは宗教に関心があったから、宗教番組を担当したのではなく、一言ご縁だと言われた。人間は縁に遇う存在なのだとつくづく思った。縁のなかで、宗教とは何かを考えるようになり、そのなかから金光さんは宗教心とはどういうものかを語ってくださった。一言で言えば、人間の思いが一切交わらないものが宗教心であるという。御意!ここが一番書きたいところであるが、新聞がまだ発行されていないので書くことはできない。詳しくは同朋新聞1月号、2月号を楽しみに待っていてほしい。

それから、やなせななさん。普段は梁瀬奈々と漢字表記だが、歌を歌う関係でわかりやすい平仮名表記にしている。彼女には、過去2回、蓮光寺の行事に出向していただいた。2011年の蓮光寺の宗祖御遠忌と2010年の春のコンサートで歌を聞かせていただいた。子宮体がんをはじめ、様々な苦悩を経験している彼女の歌には重みがある。被災地で歌を歌い続けている彼女は「まけないタオル」運動にも関わり、復興支援をされていた。そして被災地に思いを馳せた歌も御遠忌のコンサートで披露してくださった。コンサート終了後、彼女と語り合ったことが忘れられない。彼女自身、震災と原発事故から8カ月の間に、まだまだ問われ続けていることがあり、被災地への歌も十分表現されていないことをうすうす感じていたし、小生も被災地の歌に感動しながらも、もう一歩、なんと言うか、どんな状況においても存在の尊さを失わないような、そんなメッセージがほしかった。二人の問いは一致していた。そんなことを語り合った後、彼女は被災地での支援コンサートを続けながら、昨年「春の雪」という歌を作り上げた。それは、大きな悲しみとともに人間存在を問い続ける深い願いが感じられる歌であった。それを生で聞いたのは、1月に東京教区の報恩講でのコンサートであった。彼女は涙をこらえながら熱唱した。何も間に合わないところから語られる人間の根本的願いに小生も感動した。そんなことがあって、彼女にも「人間といういのちの相」のインタビューを依頼したのであった。来年の蓮光寺報恩講にまた彼女が歌を交えて語る言一つひとつに耳をすまして聞きたい。

金光さんもやなせさんも、深い関係性のなかから自身が教えられ、それが今の自分になっているという点は共通している。関係性が崩壊し、スマホ・コンビニ・サイフがあれば、誰とも関わらなくても生きていける観念的社会のなかにあって、あらゆるものは関係性(縁)によって成り立っているという仏教の根本的視座が、現代を生きる私たちに「今をほんとうに生きているのか」と問い続けている。我々は縁に遇う存在。換言すれば、私たちがまずあって、そのなかで縁に遇うのではない。私自身が縁起的存在である。私自身も出遇っていくものである。関係性を通して、今の自分について語られるお二人に乞うご期待あれ!

〔2014年12月5日公開〕