4月〜6月 東京教区伝道講習会〈本講〉

  • 事前学習会 道場長講義(真宗会館)
  • 本講の会場の沢渡温泉「宮田屋旅館」
  • 沢渡の大自然のなかでの1週間です
  • 開講式 禿教化委員長の挨拶
  • 道場長「基調講義」
  • 松井先生講義
  • 全体座談
  • 昼食「よしのや」
  • 散歩タイム
  • 宮田屋旅館での夕食
  • 法話実習(顕真寺) 道場長挨拶
  • 法話実習の様子
  • 法話実習合評
事前学習会 4月30日(水)
於:真宗会館
本講 5月26日(月)〜31日(土)
於:沢渡温泉「宮田屋旅館」
法話実習 6月2日(月)
於:顕真寺

京都教区の伝道研修会〈前期〉が終了するや否や、今度は小生が道場長を勤める東京教区の伝道講習会本講が始まった。

本講は、事前学習会、本講、事前学習会に分けられる。伝道講習会は、教えを鏡として自分を深く問い、自分を取りまく問題にあらためて真向かい合っていくことを大切にしている。そして、教えを通した自覚内容を自分の言葉で語ることができるかどうかが課題である。知的理解にとどまるならばけっして語ることはできない。つまり、どこまでも自分のあり方が教えによって翻るということが起こらなければ語りようもないのである。

人間の自我意識、意識構造が人間を苦しめているというのが仏教の人間観である。現代は自我が絶対化され、それを省みようとしないところに様々な問題が起こっている。人間の知恵(自我)の絶対化は、人間の力で何でも獲得できるという傲慢性を生み続けている。そして、都合の悪いものを排除し、都合のいいものだけを選んでいく方向により邁進し、そのことによって幸福が実現できるという迷いの構造に益々はまってしまっているのである。

今回の伝道講習会では、自我絶対の表れの一つである〈「死」の排除〉をキーワードとして学んでいくこととした。「死」を生の埒外に追いやって「生」のみを見るのが現代の視座である。人間の知恵(自我)は常に自己中心性をもって分別し対象化していくが、分別心が人間を苦しめるのである。現代は、確かに「死」が見えなくなったことで「生」の実感を失ってしまったようである。生きてあることそのものの喜びが感じられず、自分が自分として生きている感覚も奪われ、存在の尊さが失われてしまったのが現代に生きる我々の姿ではないか。分別することで、事実を事実として受け入れられないで、自分の思いに沈んでいるのである。

仏教は「生死一如」と教え、生と死を分けることはない。講師の松井憲一先生には「死んでいけるということは、たとえどんなところであっても生きていけるということ、それを“生死を超える”というのです」と教えていただいている。仏教のいう「智」は、対象知ではなく、主客を超えてものそのものになることだを言っている。換言すれば自我を破るのが仏の智慧である。自我を破っていくようなものを智慧とか光と呼ぶのである。その完全なる究極の世界を涅槃とか無為と呼ぶ。そこに帰らしめるはたらきを本願といただいてきた。つまり涅槃とは本願がはたらく世界を表している。事実を事実として受け入れていく意欲が仏の智慧であり、本願である。

念仏は本願が言葉となった呼び声である。金子大栄は「念仏は自我崩壊の響きであり、自己誕生の産声である」と言っている。そうすると、『歎異抄』の歎異とは真実信心と異なるあり方を歎くのであるが、真実信心と異なるということは、自分が自分になれないことを歎くと了解することができる。

伝道講習会は、毎回『歎異抄』をテキストにしているが、今回の副読本は『いのちの言葉』とした。我々僧侶同様、死の現場に身を置き、死について真向かいになっている人たちからも学び、「死」をキーワードとして、本当に生きるとはどこで成り立つのかという課題をともに学び語り合うこととした。

事前学習会では、道場長の基調講義が中心となるが、自分が何を問題としているかがはっきりしないと、世間の学校のように一方的伝達による受け身教育に成りかねない。そこで講義前に「死の隠蔽に象徴される現代が抱える問題点とは何か」「現代状況における宗教的課題とは何か」ということを15分ほどで一人ひとりに書いてもらい、その内容から講義を展開した。これは自分を問題にすることが学びの基本であり、さらに、書いてもらうということにより、本当に自分の感じていることなのか、それともかっこいいことを書いて評価を得たいと考えてしまっているのか、そこまで見つめてもらった。現代は答えが独り歩きしている社会ということを小生は何度も言ってきた。答えに自分を当てはめていく社会。だから自分が不在なのである。真宗の教えを聞くときも何か答えがほしくなるのもこのライン上にあるのである。まず、そこの打破から伝講は始まり、そこに事前学習会の意義がある。伝講生は、本講までの1カ月の間、今回の課題を持ち帰り聞思する生活を通して、その了解をレポートにまとめ提出し、本講に臨むのである。

本講では、松井先生の『歎異抄』講義、道場長講義、攻究、『いのちの言葉』輪読座談、全体座談、法話原稿作成、講師および道場長面接指導、朝夕の勤行、感話、聖典素読など盛りだくさんである。特に木曜日の午後からの法話原稿作成は、徹夜組も出るほど。自分の課題と学んだことを通しての自覚内容を自分の言葉で語る難しさがある。聖典引用は法話では当然だが、いかにもとってつけたような聖典引用は無意味まで言われてしまっているから、本当に大変な作業だ。翌日金曜日の午前中は予定通り『歎異抄』講義があり、午後は面接指導を受け、また原稿を訂正する。法話の技術を学ぶのではなく、今後の方向性をきちんと身につけるためのごまかしがきかない自分の了解を述べるのであるから、本当に苦しい作業なのだ。その苦しみだけが、後のち伝講生の大きな力になっていくのである。法話原稿が完成すると伝講生の顔は書き終えた満足感と安堵感に満ち満ちている。いっしょに苦しむ仲間がいて、また励ますスタッフ陣がいるということが原稿を書き抜く力となり、真の法友を得る機縁にもなっていく。そういう関係性(縁)が大切である。そしてもう一つ、伝道講習会を受け入れてくれる沢渡の大自然、そして会場の宮田屋旅館さん、昼食でお世話になる蕎麦のよしのやさん・・・沢渡の自然と人々が我々の伝講を支えてくれている。そういうなかで伝講本講が行われていることに感謝したい。

6月2日(月)は顕真寺での法話実習。松井先生、道場長に加え、近田昭夫先生も法座に座られたので、伝講生は緊張いっぱいであっただろうが、そういう場を通して大きな力になっていくのである。自分の抱えている問題が大きすぎて、法話をしながら涙があふれ出し止まらなくなった伝講生もいた。伝講生一人ひとりが、名聞や利養、勝他のために法話したのではない。あくまでも自分と向かい合う一点である。一人ひとりの苦悩は全人類的課題を持っており、けっして個人的なものでは終わらない。私たちに先駆けて、釈尊も親鸞聖人も、それに続く先達の方々も同じ課題をもって歩まれたところに大きな励ましと生きる勇気が与えられてくる。一人ひとりが歴史的存在として見いだされてくる。法話実習の現場には「みな共に」という世界が開かれていた。

道場長として伝道講習会に関われることは本当にありがたいことである。教化事業を義務感で関わったり、なあなあでやったら何も得ることはできない。やはりこちらが学ぶ姿勢を持つことと、楽しみというか、喜びをもって関われるかどうかの一点である。伝道講習会は小生に無上の喜びを与えてくれる。

〔2014年6月20日公開〕