1月〜4月 京都教区第13回伝道研修会〈前期〉

  • 講義風景
  • 班別攻究
  • 法話実習前の様子
  • 法話実習「合評」
*夕食の写真は残念ながらありません

年明けから5月上旬まで多忙を極め、今年はじめての「住職の安心して迷える道」をやっと書くことができる。すっかりご無沙汰してしまった。

今年も様々なところで法話をさせていただいているが、そのなかで京都教区伝道研修会を取り上げてみたいと思う。京都教区は京都府、滋賀県の半分、福井県の一部、鳥取県、島根県にまたがる広い教区で、大谷派寺院約700カ寺を擁する。

京都教区伝道研修会は2年間にわたって行われ、今年はその前期にあたる。1月から4月の4ケ月連続で一泊二日の研修が京都教区会館で行われた(1/22〜23 2/3〜4 3/24〜25 4/17〜18)。後期は来年の1月から同じサイクルで行われる。「現代に応える伝道の在り方」をテーマに『歎異抄』をテキストとした研修会である。だから間の8ケ月は、前期で学んだことを現場で生かす時期、そしてまた課題や問題をもって後期の研修に臨むということだろうと了解した。

日程はとてもハードだ。1日目は午後1時30分より開会式・オリエンテーション、2時から3時30分すぎまで小生の講義、その後5時15分頃まで班別攻究、終了後すぐにスタッフ打ち合わせ、5時30分に夕事勤行、続いて法話実習(3名の法話)と法話の合評、終了が夜の8時30分頃。7時間連続の研修会が終わり、ようやく夕食を兼ねた懇親会。小生は11時ごろまでお付き合いしてホテルへ。近隣の参加者は帰るが、遠方の参加者は会館かホテルに宿泊する。2日目は、7時から本山に自由参詣、朝食後、8時45分に教区会館お朝事(勤行)、9時〜10時30分すぎまで小生の講義、その後12時20分ごろまで班別攻究、終了後すぐにスタッフ打ち合わせ、12時30分すぎに昼食、1時30分から法話実習(3名の法話)と法話の合評、終了が3時30分となっている。すべての日程を終えると、どっと疲れが出る。しかし、これは充実感のある心地よい疲れである。

『歎異抄』をテキストとした講義といっても、その根本には「現代に応える伝道の在り方」という課題がある。だから必然的に現代の諸問題やそこに生きる人間を取り上げながら『歎異抄』に尋ねていく形の講義になるし、攻究に出された問題も取り上げていく講義でもあるので、特に2日目の講義は予定した講義とはちがったものになっていく。そういう意味では小生自身も大変学ぶべきことが多い。

法話実習は、門徒さんの家での法話を想定しているので、黒板は使わずに15分の法話を行う。その後、合評といって、車座になって全員で、法話についてあれこれと意見やら質問を投げかける。時折、きつい指摘も出されるが、法話をした者にとっては大変勉強になる時間でもあるし、周りがどんな聞き方をしているか、自分の聞き方を確かめる上でも全員が勉強になる。意見が出尽くしたところで、講師の小生がまとめの意見、感想を述べるのである。参加者は受講生と、すでに伝道研修会を受講した聴講生とに分けられるが、そのちがいに関係なくすべての参加者が法話を行う。それどころか、スタッフ、駐在も法話をし、合評に応じるという、まさに立場のちがいを越えた、一文不知の身に帰って法話をするのである。小生は法話がうまくできたとか、そういうことはあまり問題としていない。法話の内容が、本当に自分の課題として語られているのかどうか、また了解した教えの言葉をどう自分の言葉で表現しているのか、そこに注目している。そこが視点としてきちんとある人は、さほど上手に話されていなくても、必ず身になっていく。もちろん門徒さんとも通じ合える。数をこなしていくうちに話し方もよくなっていくものだ。「等身大の自分」であり続けることだ。それに対して、自分が問題とならず、教えの言葉を正解としてきれいに語る人は、一見上手そうに見えても、伝道にはほど遠いと言わねばならない。そういう法話は相手には伝わらないし、そのうち誤魔化していることがわかってしまうものだ。金子大栄という念仏者は「住職は一生涯でたった一人の聞法者を生み出せばよい」と言われた。その一人とは実は住職である自分そのものなのだ。私一人が僧伽であり、同朋である。その視座をもった人が次々と僧伽を広げていく、同朋の輪を広げていくのである。自分を問題としない求道などあり得ない。しかし、それは自分に閉じこもることではなく、この一点を外してはならないということだ。「一宗の繁と申すは、人の多くあつまり、威の大なる事にてはなく候う。人の、信を取るが、一宗の繁盛に候う」と蓮如上人が言われている。その真意は私一人の上に信心がいただけるかどうかの一点である。ところが、自分の寺に人が来ないことについて、蓮如上人の言葉を利用して、人が集まればいいというものではないと、自己正当化する僧侶がいるが、何とも情けない話である。蓮如上人がこの言葉をはかれたのは、数万人の人が蓮如上人のもとに集まり、その時に死者まで出たという背景がある。その時に、数ではない、信一つだと言われているのであって、人が集まらない言い訳に使われては蓮如上人も悲しまれているであろう。我々僧侶は縁作りをしていくことに尽きる。自分が教えに喜んでいるなら、教えに出遇う場を開いていくことを切に願うものである。そこで教えと出遇い、人と出遇い、また自分とも出遇っていく、その一点ではないか。『歎異抄』第2章に「往生極楽の道をといきかんがため」とあるが、これが真宗寺院存立の意義ではないか。少し横道にそれたが、お寺を抱え、生活を抱えながら、一人ひとりが法話をされる法話実習の時間は教えられることが多い。

たまたまであろうが、今回の伝道研修会はスタッフ9名を合わせ参加者が40名以上と今までで最も多いようだ。それ以上に出席率が非常に高いのが注目すべき点とスタッフが指摘していた。法務や他の仕事を抱えながらの参加にもかかわらず出席率が高いのは、ハードな日程をともに乗り越えながら、語り合える同朋を見出しているからなのではないだろうか。参加者を見てみると、20代〜70代と幅広い。東京と大きく違うところは、過疎地域を多く抱えている教区であり、20代〜40代と見られる人たちのなかには、都会で仕事をしてから寺にもどってきている人が多く見られる。つまり、外の世界で生活しているということは、換言すれば自分がまちがっていなくても頭を下げることを知っている人たちである。寺社会は、ある意味、まちがったことをしても謝らないで済んでしまうナアナアなところがあり、その体質は色々と指摘されるところである。外の生活をすればいいというものではないが、彼らを見ていると、外で生活してきた視点をもって、真宗の教えに尋ねようとしているので、東京の寺院よりむしろ現代的感覚を身につけている人が多いなと実感する。グローバル化が進む中で、ブラック企業によって職を追われる若者が、地域にもどってきている。そういう若者を受け止めてぜひお寺に来ていただいて、親鸞の教えをいっしょに聞いていくことにより、真宗寺院の再生の道を開いてくださればと思う。もう一点、女性の参加者も目につき、全体の4分の1を占める。特に65歳前後と思われる女性が6人も参加されていて、熱心に求道されている。東京とはちがった雰囲気のなかで、いつのまにか小生も一参加者として学んでいたのであった。来年の1月までに、参加者一人ひとりがどんな現実に遇い、どんな課題を持ってきてくれるか、今からとても楽しみである。

今月12日には、主査、副主査、駐在2名とで反省会を行い、来年の展望を語り合った。語り合ったということは最初から出来上がったカリキュラムをこなすのではなく、前期を通して問われたことを明らかにしていくことで後期が見えてくる。もっと言えば、来年の1月までの8カ月をどう歩むかに尽きる。これを読んだ参加者の皆さま、日々を大切に歩み、後期で色々と語ってください。待っています!

〔2014年5月20日公開〕