4月27日(日)〜28日(月) 
三条教区宗祖親鸞聖人750回御遠忌お待ち受け同朋大会&「親鸞となむの大地」

  • 仏教讃歌
  • 小生の記念講演
  • 「親鸞となむの大地」 新潟歴史博物館

三条教区宗祖親鸞聖人750回御遠忌お待ち受け同朋大会に出講した。会場は長岡市立劇場で1000人を越えるご門徒が参集した。三条教区では開催テーマを「親鸞さんにあおう」と決め、来年の教区御遠忌の準備を進め、同朋大会を迎えた。第一部では御遠忌の取り組みとその後の展望について各部門より報告がなされた。きちんとした歩みと今後の展望がはっきりしているなかでの同朋大会は御遠忌に向けての真のお待ち受けの大会であることを了解できた。第二部は、仏教讃歌合唱から始まった。「衆会」、「みほとけは」、「なんまんだぶつの子守歌」などが歌われたが、仏教讃歌は本当に胸にジーンとくる。その感動のなかで、小生の記念講演の時間となった。存在の尊さが失われてしまった現代において、どんな状況においても「かけがえのない私」であるという、存在の尊さを失わないで歩む道が我が身の上に開かれていくことが念仏申す生活の内実であり、それが「親鸞さんにあう」ことだと語った。

三条教区は真宗の伝統の根付いた地域である。蓮光寺の総代3人のうち2人が、そして責任役員の1人が山越村の出身であり、それぞれが聞法精進されている。越後門徒が蓮光寺を支えているといっても過言ではない。だから越後には大変関心があるのだが、ちょうどいいタイミングで26日から新潟県立歴史博物館(長岡市)で「親鸞となむの大地 ─越後と佐渡の精神的風土─」が開催されており、翌日の28日、教務所の車で西山駐在教導が連れて行ってくださった。さらに博物館の主任研究員が解説についてくださるという、三条教区の手厚いおもてなしに頭が下がる思いであった。展示について書くと切りがないが、注目すべきことは、江戸時代の民衆の生活のなかに深く真宗の教えが浸透していたということだ。江戸時代は真宗の教えが形骸化していたというのが一般的見解のようであるが、けっしてそうではないという印象を持った。江戸時代には、北陸や高田から越後平野にかなりの門徒が移住し、沢山の寺院が作られた。経済的に豊かな越後平野で農業等を営みながら、寺院を中心においた新しい生活を打ち立てていった。門徒にとって移住とお寺は切っても切れない関係にある。だから門徒衆はお寺を作ることに労を惜しまなかったのだ。その広がりは、あっという間に新発田や村上まで及んだのだ。

その精神が明治に入ると東本願寺の両堂再建の大きな力になっていく。両堂の再建には大量の用材が必要であり、越後門徒は大きな貢献をした。用材の運搬は事故を伴い、100人以上の死者を出している。一番大きな事故は、明治16年3月越後国中頸城郡尾神嶽で起こった殉難死事故である。欅の巨木を46ヶ村から大動員された2000余の門徒衆が3m余積もった雪を履物(かんじき)で踏みしめながら運搬していたところに大雪崩が起きた。重傷者約50人、27名が殉難死を遂げた。そのなかには2〜4歳の幼児もいたという。その後、その巨木は御影堂上層屋根の隅木4本のうちの1本として使われ、明治28年に両堂の落成となった。本山にある大橇や毛綱(三条別院にもある)はその象徴である。新潟市の真宗大谷派木揚場教会には、明治期に木揚場があった。本山に運搬された用材は1474本にも及ぶ。一番の巨木は、阿賀野川流域小杉村から1ヶ月をかけ約1万人が携わって引き上げられた欅で、長さが14.2m、現在御影堂外陣正面の大虹梁として用いられている。明治23年に木揚場としては閉場をするが、木揚場教会は、その後本山直轄の説教場として賑わいを見せ、存続をしていく。曽我量深、金子大栄といった仏者がここで多くの法話をされた。

越後平野に多くの門徒が移住し、寺院を建立していったその精神が、明治に入って両堂建立の大きな力になっている事実を疑う者はいないだろう。江戸時代に真宗の信仰が根付いていたからこそのことではないか。江戸時代に真宗信仰は堕落していたとか形骸化していたということのほうが根拠がない。教学としての問題はあったかもしれないが、だから民衆への教化もだめだったということにはならない。北海道開拓で「君は新田を耕せ、私は心田を耕さん」を合言葉にして、門徒と僧侶が協力しながら、新しい生活を打ち立てていこうとした大きな力も、北陸、越後の門徒であった。

このたびの三条別院のご修復もその精神の上にある。ただの改築ではない。来年の御遠忌円成を願ってやまない。

東京といっても地方の人たちが集まってできた大都会である。わが蓮光寺も多くの越後門徒を抱えている寺であることはとても誇りに思う。本願展開の歴史に深く参画した三条教区での2日間であった。

〔2014年5月29日公開〕