5月26日(日) 
仏教と医療、生死と現代を考える会

  • 祐光寺の風景
  • 法話の様子

三条教区柏崎の祐光寺が主催する「仏教と医療、生死と現代を考える会」に出講した。5月15日に胆嚢摘出手術を行い、退院後はじめての遠方への出講であったが、順調に快復しつつあり問題はなかったばかりか、この身がとても喜んでこの日を待っていたのだった。それもそのはず、祐光寺の風巻和人住職とは、この会に出講する前にたびたびメールで意見交換をして共鳴しあって当日を迎えたからである。

風巻住職はけっして背伸びをしないけれど、非常に積極的な視点をお持ちである。門徒を大切にしつつ、視野を門徒外まで広げて、現代と真宗寺院、現代と親鸞について深い問いを持たれて歩まれている。宗門の現在の状況は、社会に目を向けず、古い真宗寺院体質を引きずって保守化している面と、それではいけないとやたらに外に目を向け、不特定多数の人たちとの対話と聞こえのいいことを言いながら、自坊のお預かりしている門徒のことを忘れている状況を生み出している面がある。小生はどちらもまちがっていると思っている。真宗寺院を一旦否定し改めて寺院再生の道を模索しつつ、外にも目を向けるといった視点を持っているのが、まさしく風巻住職である。そのひとつの試みが「仏教と医療、生死と現代を考える会」であり、今回で6回目を迎える。

祐光寺は柏崎市内にあるといっても、長岡市と柏崎市内のほぼ真ん中に位置する山の中のお寺である。中越地震で庫裏が全壊し、本堂も大きな打撃を受けたが、ご門徒の力で庫裏が再建され、本堂も現在修復中であった。そして、ご門徒のお念仏する声が聞こえるお寺であった。全国的に本当にお念仏の声が聞こえなくなりつつある。しかし、この越後の山のお寺で、お念仏の声が聞こえる。そして門徒でない人たちも集まってくる。ここに現代の真宗寺院の姿を見たのだった。

「仏教と医療、生死と現代を考える会」の願いは、まず仏教的死生観の回復がある。現代は死を生の埒外に追いやることで、むしろ生が見えなくなっている。「生死一如」の文化を取り戻したいと風巻住職は言われる。過去5回は医師、患者、妙好人等幅広い分野から講師を招き、門徒にかぎらず、医師や一般の方も聴聞に来られたようだ。今年からは「死生観」「人生観」をキーワードにしたいということで小生が法話することになったわけである。風巻住職は、究極的には、お念仏の縁がこの会から出てくることを深く願っておられたのである。

小生は「仏教と医療の共通課題 ─答えから問いへ─」をテーマに法話したが、仏教も医療も、現代の価値観のなかで、本来的使命を果たしていない面があり、それは仏教の問題とか医療の問題というより、人間そのものが問題であるから、根源的に人間を問うということが何より大切であることを基本にして、特に (1) 現代に生きる人間の問題点、 (2) 宗教とは何か、 (3) 本願による医療の3点について述べた。

(3) 本願による医療とは、小生が名づけたのであるが、そもそも宗教、ことに仏教とは、学問では解決できない問題を取り扱う。つまり、宗教は「生きるとは何か」「人間とは何か」という人間存在の問いを深めていくもので、これこそ人間の根源的問い、究極的課題である。だから、マニュアル的な答えを出して一件落着するのではなく、問いこそを大切にし、苦悩する人間に寄り添ってきたのが仏教であり、本願の歴史である。ということは、医療の問題であろうと、経済、教育、家族の問題であろうと、そこに人間の苦悩があれば、その根源は、みな宗教問題につながっていくのである。医療がデータ主義にならないで、場を共有し共にお育てをいただきながら真の医療を目指している、小生が出遇った医療者を数名あげ、その医療者の視座を「本願による医療」と名付けて、医療を通して、「死生観」を問うたのである。

しかし、答えを与える宗教が氾濫している現代の状況を見ると、実に宗教も危ういと言わねばならない。答えを与える宗教は、むしろ人間を縛っていくにすぎない。また、人間を問うはずの宗教が、人間に利用される宗教に転落していってしまっている現状は枚挙にいとまがない。

仏教が、そして医療が、本来に立ち返るとはどういうことなのか。そのキーワードが「答えから問いへ」ということであり、換言すれば、「愚かさ」の大地に立つということではないだろうか。

〔2013年6月3日公開〕