1月 
年明けの法話を貫いたテーマ

  • 金沢教区「公開講座」(1.22)
  • 東京教区「宗祖御遠忌」(1.26)
  • 岡崎教区「坊守一日研修会」(1.31)
  • 名古屋別院報恩講「讃仰講演会」(12.16)
  • 塚本氏と対談(岡山県精神科医療センター、11.8)

年明けから様々な法話の座をいただいた。特に金沢教区解放推進委員会主催公開講座(1.22)、東京教区宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌法要(1.26)、岡崎教区坊守一日研修会(1.31)においては、講題はちがっていても、そこに貫く課題は、いかなる問題も人間そのものが問われているという一点を見つめ、ことに現代は「答えがひとり歩きしている社会」と位置付け、客観的答えを自分として、自分を保とうとし、それが自己確立だとするならば、「他に映る自分にふりまわされている」姿でしかないこと。そういう自分でない感覚で生きている人間が作り上げた観念的社会が現代の特徴として押え、それを乗り越える視座について語った。「仮面」とか「いい子」とは実に象徴的な言葉であるが、仮面をかぶってかろうじて生きているとも言えるし、仮面をかぶっていたら自分がどこにもないという問題があり、そういう葛藤のなかで生きている。その葛藤状況、どうにもならないところにこそ真実の教えが顔を出し、その教えを通して救われない自分が映し出され自覚化される。救われないと言うことに頷かされることが救いなのは、迷いの身に真実がくるからだと。こういうところに開かれてくるのが親鸞の「信心」だということを語ったのである。昨年末の名古屋別院報恩講「宗祖親鸞聖人讃仰講演会」(12.16)の主催者からの御依頼にも「曽我量深先生は、戦争末期の混乱極まる時節において、その時期をとらえ、帰命の一心を獲得する千載一遇の機縁と受け止められた。それはすなわち濁世の群萌、穢悪の含識の自覚に他ならないと思います。例えば震災に対する復興が単なる対策に終始するのであれば、復興といっても濁世の世の復興であり、浮ついたまま空しく過ぎてしまうと思うからです」とあり、同じ視点で金沢、岡崎でも法話の依頼があったことは、まさに現実から人間が深く問われている証だと言える。

今や、科学、経済学といった学問も、宗教もすべて固定化され閉塞している。特に仏教は、苦悩する人間そのものを見つめ、答えを出して誤魔化すのではなく、「生きるとは何か」「人間とは何か」という根源的問いを大切にし、問いそのものを深めてきたのである。問いに生きることが、人間を解放してきたといってもいいであろう。仏教(宗教)が人間に利用されたり、人間の自我を満足するものに転落しているとするならば、それは宗教的死を意味する。

科学の問題も深刻だと感じる。昨秋に、念願の精神科医の塚本千秋氏と出会い、人間の問題について深く語り合うことができたが、そのエキスが『同朋新聞』2月号の特集「人間といういのちの相」に掲載されている。塚本氏の視点も小生と同様だ。

塚本氏は「“わかる”と思えたら、それはおそらく錯覚なのです。“わかった”ということはとても怖い。レントゲンや検査は、診察しないでわかってしまうので、それは、人間として行うべき作業を飛ばしてしまっていると感じます。科学はしばしば人を無思考にさせてしまう。──というか、論文という、誰かが証明した知識の方が、自分の目で見たものより正しいと判断させてしまっているということを、これから医者になっていく人たちに、伝えたいと思っています。

「医者という立場、学校の先生という立場、お坊さんもそうなのかわかりませんが、“立場”というものに立ってしまうと、『自分』が欠けてしまう、自分を乗っ取られてしまうのではないでしょうか。

「親鸞聖人は迷いや悩みは消えないとおっしゃるんですね。それはすごいことですね。それを伺うと私は安心します。でも、目の前で苦しんでいる患者さんがいるので、何とか悩みとか苦しみを取ってあげたい。本来の自分を取り戻してあげたいと思ってしまう。ただ、それはとても難しいし、そうではなくて、それを抱え続けるのが生きているということなんだろうと思います」と言われている。

自分とは関係性を通じて、出遇うもの、発見するものではないか。答えをにぎって閉じていく方向から、問いに立って開かれていく方向へ。換言すれば、無明性の自覚、愚かさに帰ることが、現代の闇を突破する方途になっていくのではないだろうか。

〔2013年2月6日公開〕