4月10日(火)〜11日(水) 北海道教区若坊守一泊研修会

  • 宮本春美坊守会長の挨拶
  • 小生の講義(初日)
  • 1班の座談(初日)
  • 2班の座談(初日)
  • 3班の座談(2日目)
  • 4班の座談(2日目)
  • 小生の最終講義(2日目)

今年も北海道遠征がスタートした。2005年に初めて札幌で法話をしたのがきっかけとなり、年を追うごとにその数が増え、北海道各地で呼ばれるようになった。特に昨年、一昨年は、年間約1カ月間北海道に滞在したわけで、皆から蓮光寺北海道支院でも作ったらどうだと言われるぐらいになった。今年は年間1カ月には及ばないが、それでもかなりの依頼が舞い込んでいることも事実で、やはりここ数年、北海道遠征は自分にとっても大切なライフワークになっている。

今回は、札幌の藻岩山の東本願寺青少年研修センターを会場に、道内の若坊守が集う研修会への出講であった。テーマは「現在いま、私がここにいる意味 ─人間として生まれた悲しみの共有─」。1泊2日の日程で、午後から翌日の11時までの間、講義が4時間、座談会が2時間30分、そして勤行と、かなりハードな日程であったが、託児室も完備した万全の体制がとられていた。それでも30代の若坊守さんがわざわざ一泊して子どもを託児室へあずけてまで研修に参加するということになると、そう簡単にできるものではない。それだけに参加された若坊守さんは問題を抱えている方々が多く、また後押ししてくださる先輩坊守や僧侶の方々がいて重い腰をあげて参加された方もいた。

この研修会は昨年に続いて2度目であるが、まず何に感激したかというと、研修会の経費は教区の予算からのものではなく、坊守会が作り出したお金によるものであったことだ。2008年に札幌パークホテルで開かれた北海道教区坊守会連盟主催「北海道教区宗祖親鸞聖人750回御遠忌お待ち受け大会 ─婦人のつどい─」での小生の法話が書籍化され、その売り上げを資金源にして若坊守研修会が成り立っているということだった。教区予算は様々なことで使われるわけで、坊守会の予算配分も決まっている。しかし、これからの真宗寺院を考え、法統が継承されることを願うとき、若坊守が教えにふれ、語り合う機会を持つことは大切な視点である。しかし、教区の予算には限界があり、新しい事業まで手が回らないのが現実である。そこで、自分たちの活動によって得た資金を還元することによって、この願いを具体化したのであった。そのことを宮本坊守会長から聞いた時、えらく感動したのであった。宮本会長は開会挨拶でこのことにふれて、若坊守研修会への願いを語りながら、「婦人のつどい」で採択された大会宣言を読みあげ、この宣言を大切に歩もうと力説された。

こんなことを書くとまた批判されてしまうが、そもそも僧侶社会(わが宗門だけではないと思うが)は責任者の顔がわかりにくいというか、責任の所在がはっきりしないことが多すぎる。なんというか、宗門のトップから一末寺住職、若手僧侶まで口先ですばらしいことを言う人たちはいやなほど見てきたが、リスクを負って願いを具体化する人はやはり少数といっていいだろう。もちろん尊敬する僧侶もいるのですべてが信用できないとは言っているわけではないが、やはりリスクを負ったり悪役を買って出ても願いを捨てないという人間はそうはいないのが現実だ。実に善人根性を持った人が多いのである。そんななかにあって、これからの真宗寺院を担う若坊守に伝え残していきたい、大切な法統をなんとか伝えたいと、まず自ら動き実践し、それによってはじめて教区に予算をつけてもらう働きかけをするのである。このことは言うはやすしで、自分のお寺を抱え、様々な活動をされながら、大切な願いを具体化していくということは並大抵のことではないのだ。研修の雰囲気もよく、坊守会の役員の方々が若坊守に対して上から目線ではなく、同じ悩みを持ち、いっしょに悩み語り合っていこうという姿勢にもその願いが表れていた。北海道教区の坊守会はさすがだと脱帽した。

真宗寺院は一つの大きな転機を迎えている。寺離れが進むなか、寺院内部においても伝統が少しずつ崩れだし、マイホーム化しつつある寺も少なくない。在家出身の若坊守さんが急増しているが、寺で生まれ育った若坊守さんを含め、このような寺社会でどう生きたらいいのか、真剣に悩まれる姿には頭が下がる。しかし、3.11以降、親鸞の教えがより注目されているのも事実である。それだけに真宗寺院の社会的存在意義が十分あると言ってよい。そんな寺社会をどこか特別視してしまうが、寺という形、坊守という形で悩んでいるだけであって、広い見地に立てば「人間として生まれた悲しみ」の一つの形体であろう。つまり、状況によっては自分自身を受け止めることができないということが誰もが抱える普遍的問題なのだ。その悲しみが喜びに転換するところに宗教的課題があるといっていい。業縁存在としての私たちという視点はとても大切であり、閉塞していくあり方を開いていくのである。座談をしていて学んだことは、寺に生きることに対して被害者意識を持っている方が多くみられたが、話し合っていくうちに、同じ問題を自分の子どもたちも受けているということに気づきだし、自分の加害性に目覚めていったことだ。加害性を受け止めた時、今までとはちがった生き方に向かい始めていったことは、座談の場に如来の本願力がはたらいていたに相違ない。また「悩んでいていいんですね。本当に楽になりました」と言われる方も実に多かった。現代は悩んではいけないということが刷り込まれているのだと痛感した。生まれてからすぐに何ができるのかという行為を重んじた生き方を強いられているのが現代人ではないか。孤独や不安を受け止める練習とか、「生きるとは」「人間とは」ということを考える時間を与えられておらず、立ち止まるな、ひたすら向上しろと教えられてきたのが戦後の日本のあり方ではなかったか。「悩んでもいいんだ」と発言する人の多くは明るい顔をしていた。悩み、苦悩から生まれた教えが仏教である。悩み、苦悩の入り口を失った宗教は腐敗する。悩みこそ「ほんとう」に出遇う大切な縁であり、だからこそ苦悩することにおいて人間は尊いと言えるのである。真宗寺院は生活(家庭性)と教え(道場性)によって成り立っている。坊守という形をとって、現代人共通の苦悩を受け止め教えにたずねていく一つの方向性を見出すことができた研修会であったと思う。それだけ若坊守さんの一人ひとりの悩みは重かったし、それだけに尊かった。夜はお酒を飲みながら2時すぎまで語り合ったし、その後、部屋にもどると話ができなかったと二人の若坊守さんが部屋の前で待っていて、廊下で1時間ほど話し合ったりもした。それほどこの機会を大切にし、皆さん真剣だったということではないか。こちらが教えられることが多かったし、やはり同じ悩みを持った者同士が語り合える場はとても大切だと感じる。ただし、同じ立場のものだけで固まると安住してしまうことがある。多くの若い僧侶が、孤独や不安を抱えて悶々としながらと研修会に参加するのであるが、よりふさぎ込んでしまう者もいれば、仲間ができると急に問題が解決したかのように、仲間とつるんで堕落する者もいる。それは僧侶ということが特殊であるという考えから出られないからだ。僧侶という形をとって人間として生まれた悲しみを超える世界に出遇いたいということが根源であることをおさえることだ。だから同じ立場の仲間も大切だが、ぜひ門徒さんと友だち、できれば親友になってほしいと若坊守さんに伝えた。立場はちがっても同じ人間としての苦悩を共有することによって、本質を見失わず閉塞していくことからも解放されるからである。門徒教化というが、自分自身の存在の深い罪、悲しみを受け止めることが、あらゆる人の悲しみを受け止めることにつながる。それがそのまま教化である。親鸞が明らかにしたことは業縁を貫く「われら」の世界である。そこに悲しみと痛みを伴う生き方が与えられてくる。今ある悲しみのままに、苦しみのままに、弱いままに開かれてくる世界を誰もが求めているのである。

婦人のつどいで得た資金は底をついたようだ。しかし、来年、3回目の若坊守研修会をなんとか開くことができればと切に願う。今年の北海道遠征は、最初から多くのことを学ぶことができた。やはり北海道は小生にとって学びの宝庫であった。

大会宣言  2008.9.30

一  悲しみをも縁とし、お内仏を真の拠り処として、何ものをも侵すことなく、何ものにも侵されることのない独立者となる。

一  先達の姿をとおして伝えられてきた仏智を、次代を担う人たちに自らの生き方をとおして伝えていく。

一  同朋という自覚のもとに、真の人間として交わりの場を開いていく。

〔2012年4月22日公開〕