4月5日(木) 95歳の被爆医師・肥田舜太郎さんと対談

同朋新聞「人間といういのちの相」の企画で肥田舜太郎さんと対談した。対談の場所は肥田さんのご自宅であった。

肥田さんは、1945年8月6日、広島に投下された原子爆弾によって被爆し、生存している最後の被爆医師である。今回の3.11における福島第一原子力発電所の事故において、その被爆経験を生かし、特に隠蔽されてきた「内部被曝」の深刻な問題に言及され,「反原発」について積極的に発言されている。そのことも色々お聞きしたいところであったが、被曝された患者さんとともに生きた肥田さんが最後に行きついたのは、事実を受け入れて、どこまでも誰にもかわることのできない尊いいのちを生き切ることにあった。つまり、「被爆者という状態から人間に返す道」を歩んでこられた、その生きざまを通して「人間とは何か」「生きるとは何か」と言ったより根源的な宗教的課題について語り合うことを主とした。「授けられた寿命いっぱい生きるのが被爆者の任務と悟らせ、勇気を持って生きさせるのが正しい援助です。お金やものをあげるのは邪道です。本人の生き方を変えることです」という肥田さんの言葉は、まさしく「自体満足」こそが救いであり、人間の究極の願いだと語っているに相違ないからである。

肥田さんは、国政によって被害者が見捨てられていく状況,また被害者同士の衝突も目の当たりに体験しながら、被害者の方々の地獄のような苦しみの生活に寄り添ってきた。まさしく人間の罪業性や矛盾が渦巻く不条理を生き続けただけに、肥田さんの言葉一つひとつが実に重かった。しかし、それでもなお、人間を信頼し、人間存在の尊さを訴え続ける肥田さんの核心はどこから生まれてきたのだろうか。それはまさしく被害者に教えられ、また「死者」にも教えられてきた人生だったからではないか。

肥田さんは「自分の身体なんだから、医者が言ったから生きる死ぬではなくて“あなたは本当に生きる気があるのか、生きる気があるのだったら悪いことはやめなさい”と、被爆者に言い続けてきました。地球のなかのたった一人の大事ないのちなんだということに気づいてほしい。そういうことは被害者を見てきて教えられたことです」と言われ、また「被爆者がどんどん死んでいきました。そんな中で一人、目を逸らせ損なった兵隊がいました。私を必死に見つめるその人と目を合わせてしまい、思わずその人の傍らに膝をつきました。地べたにじかに倒れていました。ボロボロに破れた軍服のズボン、上は裸です。焼け爛れて呼吸も苦しそうでした。何もしようがない。顔を見ると左の頬だけが白く焼け残っていました。何となくそこへ私の手をもっていって、そっと触れたんです。そうしたら、カーッと目を光らせて見ていたのが、目の光がスーッと柔らかくなって。優しい人間の目になったんです。そしてカクンと頭が落ちて息が絶えました。私が手を触れたのが慰めになったのか、とにかく人間らしく死んだ、私にはそう思えた。今でもその時の夢を見ます」という発言からもわかるように、肥田さんは、どんな状況においても人間としての尊さを失いたくないという人間の根源的願いを被爆者から受け取ってきたのであった。

そういう人間の尊さを一人ひとりが見失ってはならないという肥田さんの強い意志はけっして個人的なことではなかった。「私が変わることで相手も変わり、生きる勇気を持っていられます。こうした喜びは、自分ひとりでは感じることができないでしょうね。被ばく者と一緒に生きることのできたこの運動は私をも長生きさせてくれたと思っています」という言葉には、「われとわれら」の関係が矛盾なく同居している。また、4月2日の東本願寺の「春の法要」での講演で「あなた方の孫や曾孫、さらにそのあとの世代にまで放射能の苦しみを与えていいのか」と力説されたのも、我一人の真の願いはあらゆる人の願いであることを感得されていたからであろう。それは「願もって力を成ず、力もって願につく」(『教行信証』行巻)という言葉を想起させる。根源的願い(本願)に生きることに燃えている人によって、その願いは次々と人の上にはたらく力となっていく、このことを本願成就の展開というのではないだろうか。

苦悩、挫折、人間不信、矛盾、様々な人間模様を見ながら行きついた「われとわれら」の世界には、苦悩とともにある肥田さんの「信に死し、願に生きる」すがたがあった。状況の改良のみでは、対策、政策に陥ってしまう。どこまでも人間を見つめていく、ここが根源だろうと改めて感じた。

肥田さんの歩みは本人が意識していようといまいとまさしく仏道であり、親鸞の生きざまに類似していると言っても過言ではなかった。苦悩があるからこそ、同時に心の奥底から何かに突き動かされて無条件に立ち上がろうとする。まさしく肥田さんの菩提心が状況を超え人間存在の尊さを苦悩の現実に開いていくことになったのである。

小生が仏道のまな板に乗せようと仏教的な話を始めると、肥田さんは、自分の分限にあらずとしながらも、まず小生の言わんとしていることを静かに受け取り消化しはじめる。その消化する間の「沈黙」が実に深い。そしてその「沈黙」を通して、自分の言葉で語りだす。そして結局は仏道の話のレール上に肥田さんと小生の会話が成り立っていったのである。そうなったのは、肥田さんの謙虚さもさることながら、「人間とは何か」「生きるとは何か」という仏教的課題を大事にして生き抜かれたからであろう。

肥田さんは「崇高な理想はいくらでも言えるが、本当は様々な矛盾やら苦悩を引きづり、平凡ななんでもないところに真実があるのではないか」とおっしゃっていた。「苦悩のなかに理想が顔を出すのであって、それ以外理想などありませんね」と小生が言うと、深くうなずかれているのが印象的だった。

最後に肥田さんは「親鸞が生きていたら、きっと私と同じことをおっしゃっただろうと畏れ多いことを言ってしまいましたが、何でもない平凡な私の言葉でもそれなりの重さがあると思っています」とおっしゃった。自分の言葉で真実を語っているからこそである。我々僧侶は仏教用語が生み出された背景をいただき直し、現代に即した言葉を生み出さねばならない。我々仏教者は肥田さんに遠く及ばないのではないか。苦悩から生まれた真実のあり方を今の言葉でどう表現するか、「ぜひそういう言葉で語ってください」という肥田さんの願いに少しでも応えてゆきたい。

〔2012年4月14日公開〕