11月8日(火)〜11日(金) 北海道から山形へ “ぬくもり”にふれる ─北のフレンチと郷土の味─

北海道

高徳寺「永代経法要」法話
小島ご夫婦
皆さんと

山形

稱善寺
御茶請け。青菜が名物
報恩講の法話
さくらんぼ東根駅。名前がよい!

拙寺の「宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌法要」の感動とほどよい疲れをもって、休む暇なく今年最後の地方遠征へ。北海道から山形に入る強行日程であった。8、9日はおなじみの雨竜郡秩父別の金倉さんのお寺である高徳寺へ。一昼夜にわたる「秋季永代経法要」での5席にわたる法話。真宗の法義地である北海道にも真宗の宗風が消えつつある危機感を金倉さんは感じ取られて、ご門徒にお寺に来ていただく機会をあれこれと考えられている姿勢には学ぶべきものがある。2日間、きちんと聞法をするご門徒だけでなく、あまり関心のないご門徒もなんとか仏法にふれてもらいたいと、2日目は参詣してもしなくても永代経の対象門徒全員の名前を読み上げての焼香を行った。正直、焼香も大切であろうが、そうすることで、法話に耳を傾ける縁を作っているわけである。2日目の午後の2席はそういったご門徒も参詣に多く来られたので、法話内容を急きょ変更して、亡き人の問題から発して真宗の救いについて法話した。秩父別は過疎化が進んでいるが、平日にもかかわらず、これだけのご門徒が参詣されるのは金倉さんの姿勢ひとつではないだろうか。よく、参詣数ではないと言う僧侶がいるが、それは、何もしていないあぐらをかいている僧侶が自己正当化に言う場合が実に多く、きちんとやっている僧侶ほど、数ではないことを百も承知で、一人でも多くの人に仏法にふれてもらいたいという願いをもって活動している。そして、それがそのまま数に表れている場合が多い。もちろん、数にとらわれて目の前の門徒が見えない住職には問題があるが、数を問題にしないほど超越した住職なんているのか。多くは自己正当化とやっかみである。数は関係ないと言う住職ほど実は数に敏感である。変な話である。

8日の夜は外で食事会。秩父別にこんなハイカラ(古い言葉だ)な店があるのかとちょっと驚いた「小島」というイタメシ屋さんで、金倉夫婦とご門徒さんで食事をした。小生にこの店でどうしても食べてもらいたいという金倉さんの願いに応えて、なんと定休日なのに小島ご夫婦は店を開けて待っていてくださった。金だけに価値をおかない、人間関係を大切にする土地柄の一旦を見た。ご主人は小生の2つ上の神田正輝似で、奥さんは知的な雰囲気が漂う美人であった。秩父別の飲食店にチェーン店はない。どこの店も二つとして同じ店はない。そのなかにあって「小島」は独特の雰囲気であった。洋風の建物でありながら、秩父別の町にしっかりフィットしている。チーズの種類も多く、ワインがおいしい。そしてご夫婦の気さくな対応と、金倉夫婦とご門徒との何でもない会話が、都会で忘れ去られた何かを思い出させる。「小島」は秩父別にしっかりなじんだ正に「北のイタリアン」であった。

9日の夜は、金倉さんと札幌に出て慰労会と称して飲みまくり、翌日の10日午前にホテルを出て山形に向かった。昨年、新千歳-山形便が廃便となったため、仙台空港経由で山形に入った。50人乗りの小さな飛行機なので、外の様子がよく見えた。仙台空港と言えば3.11に津波が押し寄せた空港。その空港に近づくや、上空から小生が見たものは、津波によって根こそぎもっていかれた痛々しい跡だった。上空から見ていると海岸線からずいぶん奥深くまで何もない埋立地のようになっていて、その奥に仙台の町が見えた。着陸態勢に入ってより近くで見てみると、瓦礫はなかったものの、森林が根こそぎ倒れている光景などが目に入り、津波の恐ろしさをあらためて知らされたのであった。仙台という都市部だから復興が早いのだろうが、それでも傷跡が深く色々と考えさせられた。空港から電車で仙台駅へ。そこから高速バスに乗り、山形東根へ入ったのは4時前であった。昨年も法話した稱善寺さんの新住職が待っていてくださり、夜は居酒屋へ繰り出した。この居酒屋ももちろんチェーン店ではなく、個人営業。こんにゃくを使った山形ならではの郷土料理を食べながら酒を飲んだのであった。11日は報恩講の法話。前住職のご苦労を受け継ぎながら新住職ならではの報恩講作りをめざしていることが感じられ、とにかくこういうことが今の時代大切なのだと思った。個性とか、手作りといったことが今求められているのではないか。山形ではお茶とともに漬物が出る。漬物の青菜は作る人によって味がちがう、家庭ならではの味。ちょっとピリ辛だが実にお茶にぴったりだった。都会で生活していると食べ物ひとつとってみてもすべてインスタント化、マニュアル化していて、郷土ならではの味、家庭ならではの味が消えてしまった。どこへいっても同じ味の画一化した都会生活が果たして人間が生きていく場になっているのか、考えさせられるのであった。「ぬくもり」「ふれあい」「手作り」──人間が人間であるためのキーワードであろう。

〔2011年11月25日公開〕