9月下旬 台風のような生活 ─秋の行脚の始まり─

9月下旬〜12月上旬は大谷派では報恩講をはじめ多くの法要が勤まる。9月後半からいよいよ秋の行脚が始まった。その始まりはまさに台風のようにめまぐるしく飛び回る生活であった。北海道の瑞光寺(滝川市)と彰信寺(上砂川町)の計6日間連続での報恩講法話に始まり、彼岸に入って、彼岸参りや法事等をきちんと勤めながら、合間をぬって、台風のなかを夜に岐阜別院で法話、徳泉寺秋彼岸会・永代経法要(愛知県小牧市)で法話、いずれもとんぼ帰り。そして最後は、東日本大震災で延期となったシンポジウム「人間といういのちの相 ─生老病死─」(老)にスタッフとして出向。拙寺の報恩講(宗祖御遠忌法要)のパンフ作り、タイムスケジュール作成やら、出版する本の初稿校正などディスクワークもたんまりであった。さすがに疲れた。


瑞光寺(滝川市)

彰信寺(上砂川町)

彰信寺(上砂川町)

北海道の瑞光寺と彰信寺の報恩講は、願成寺(滝川市)と樹教寺(新十津川村)の4カ寺で一つのグループを形成しており、布教使は4カ寺を連続で回る(11日間、2カ寺目が午後1時ごろに終了すると、同日の1時30分に3カ寺目に移動するというハードさである)のが基本であるが、小生はそんな長期間は寺を開けられないことから、法友の百々海君(了善寺)を布教使に推薦し、二人で半分ずつ2年間かけて法話する形で回ることにさせていただくことで了解していただき、今年は後半の2カ寺での法話であった。今年は東日本大震災と原発事故から問われていることを手掛かりに本当の救いとか、本当に生きるということについて法話した。カメラの電池が切れてしまって携帯で撮った写真が1、2枚程度しかないので雰囲気は伝わりにくいのだが、3日に渡る報恩講で法座は8席用意されていたので2カ寺で6日間16席の法話をしたことになる。

婦人会や総代、世話人の方々が実によく動き、それが報恩講を支えているのは2カ寺とも共通している。過疎という問題を抱えながら、報恩講をきちんと厳修していこうという姿勢は、我々東京の寺院はよくよく学ばなければならないと思う。瑞光寺さんのご住職は病気療養中でありながらなんとか出仕をされていたが、それをカバーするかのように若住職夫婦が積極的に動いていた。この若夫婦が過疎の進む地域でどう真宗の法統を守っていくか大きな課題を背負っていると感じた。過疎問題が最も深刻な彰信寺さんは、この地域ではめずらしく山に囲まれたお寺さんで、ご住職は教学をしっかり学んでいる方でもあった。炭鉱が廃鉱となってから人口は減り続け、最高3万5千人ほどあった町が今や3900人あまりになってしまった上砂川で必死にお念仏の伝統を守ろうと様々な試みをされていることに感動した。また彰信寺さんでは、昨年聞いてくださった砂川市近郊の坊守さんや、なんと小樽からもご住職夫婦がわざわざ聴聞しに来てくださったことは素直にうれしかった。お寺に出仕されるご僧侶との会話も楽しく、やはりさまざまな人たちの現場で生きている姿に接することが何よりの勉強になる。だから法話の旅をやめられないのだ。ただやはり時代の流れか、真宗の相続の問題はいよいよ深刻化してきている。東京は逆に経済優先の波に寺院が飲まれていくのだろうか。3.11で問われた「人知の闇」と「生きる場」の問題に的確に応えられるのは親鸞の教えしかないと確信している。時代は親鸞を求めている。なんとか真宗の伝統を各地で守ってほしいと祈るような気持ちである。

彰信寺さんの責任役員さんは90歳を楽に越えていたが、夫婦そろって全法座に参詣されていた。昨年、二男が亡くなったと聞いた。法要の合間に「高齢のため埼玉の東松山まで行けないのですが、二男がお世話になっているお寺はいいお寺だと聞いていますが、本多先生、ご存じですか」とご夫婦で聞かれた。そのお寺は親鸞仏教センターの嘱託研究員である大谷君のお寺(遊了寺)だった。「ご住職も大変すばらしい方ですし、副住職さんはよく存じあげています。親鸞仏教センターでも活躍しているし、なんなら電話をしてみましょう」と応えた。小生は酒に酔っていなくても、こうして電話をするんだなあと自分に感心しながら、大谷君に電話した。ご夫婦は遠慮がちだったが、いざ大谷君と話をしたら、心からおちついて「よかった、よかった」と喜んでくれた。息子のところへは行けなくてもいいお寺さんにお世話になって安心だと、お念仏でつながっているから安心だと、本当に安んじた笑顔を見せてくださった。どうも最近、小生は涙腺が弱くなってしまって、涙が出そうになってしまった。大谷君に電話しただけで北海道に来た意味があるというものである。帰る時、ご寺院とご門徒の方々が手をふって見送ってくださったが、その中央にいらっしゃって、やはり笑顔で見送ってくださった。もう会うことはないかもしれないという思いがやはり涙を誘う。こういうご門徒に支えられてなんとか僧侶をさせてもらっているのだなという実感が込み上げてくるのだった。この責役さんの珠玉の言葉、「お寺は私の家のようなものです」・・・忘れられない言葉になった。

岐阜別院「仏教公開講座」 岐阜別院「仏教公開講座」 岐阜別院「仏教公開講座」

岐阜別院の仏教公開講座は20日(火)の夜6時30分からであった。1時すぎまで彼岸参りに没頭し、3時過ぎの新幹線に飛び乗った。台風が近づいていることから静岡あたりに来ると時折暴風雨になっていた。さらに名古屋駅に着くと駅構内はパニック状態になっていた。岐阜に向かう中央線も東海道線もすでに全線ストップしていた。これでは明らかに講座は中止になるのではないかと思いつつ、岐阜教務所に電車が止まっているのでどうしたらいいかと電話で尋ねた。台風でもすでに集まってきているので岐阜羽島まで来てほしいとのこと。まるで東京の朝のラッシュアワーのような新幹線に乗り、岐阜羽島へ。通勤客の多くがこの方法をとったため岐阜羽島に到着してもなかなか改札にたどり着けなかった。後から聞いたことだが岐阜羽島駅始まって以来の人であふれたそうだ。教務所の車で走ること約40分、岐阜別院へ到着したのは、始まる7、8分前であった。87回目を数える伝統のある講座が開かれる本堂は15間もある大御堂。100人以上の人たちが集うこの講座でも、さすがに台風だからせいぜい10人ぐらいと思っていたら、なんと50〜60人ぐらいは集まっていたのでとにかく驚いてしまった。聞法に熱心というか、これが伝統というべきか。電車の人は無理としても、車の人や歩きの人は出席していたのだ。法話の途中から暴風雨となってきたが席を立つ人はいなかった。しかし、慌てて本堂に入り、勤行で心を落ち着けようと思ったが、めずらしく落ち着かなかった。落ち着かないまま法話へ。それでも話しているうちに少しずつ落ち着いてきた。ところが、8時30分終了を9時と勝手に勘違いし話し続けていたら、司会者の女性から「時間が過ぎておりまして──」との声。慌ててまとめに入るが落ち着かない。時間を間違えた小生に聴聞している方々は好意的に笑ってくださったのが救いだった。質問も出た。終了後、さらに暴雨風が強くなる中、何とか今日中に東京にもどるため岐阜羽島にタクシーで直行。運転手さんも気を使って安全運転に心がけつつ急いで向かってくださったおかげで、「こだま」に飛び乗り、名古屋で終電一本前の「のぞみ」に乗ることができた。

とにかく、法話もおちつきがなかった感じでなんとなく納得できないし、教務所からも無事新幹線に乗車できたかどうかとお気遣いの電話をいただき、皆さんに迷惑をかけてしまったような気持ちでちょっと落ち込んでいたが、教務所からもらったおにぎりが妙においしくてビールを飲みながら、帰路でやっと落ち着いたのだった。おちつきがなかったことは確かだが、法話がどう伝わったかまではわかるものではない。ただ聴聞した方々が真剣に聞いてくださったことはまぎれもない事実だから、これでよしとしようと思った時、ちょうど東京駅に到着したのだった。

台風によって倒れた杉(蓮光寺) 徳泉寺(愛知県小牧市) 御文を拝読する鈴木隆真君(徳泉寺) 法話の様子(徳泉寺) 法話の様子(徳泉寺)

21日は再びお彼岸参り、夕方に台風上陸で夕方電車が止まり、娘たちを綾瀬、松戸にそれぞれ迎えに行った。川の橋の上の突風は半端ではなく、宅配のバイクが運転不能で何台も列を作って止まっていた。戦後最大級の台風で境内の松や杉が数本倒れた。22日も彼岸参り、夜は念仏者北川政次さんの通夜に参列し、その後、出版社の人と会って初稿についての話し合い。23日は愛知県小牧市の鈴木隆真君のお寺(徳泉寺)で法話。鈴木君からの前々からの願いだったのでなんとか都合をつけた。彼は住職になったばかりだが、等身大の自分そのままに力みもなくこつこつと努力している姿が実にすばらしかった。やはり聞法を積み重ねている門徒さんも多い。しかし、愛知県も確実に真宗の宗風が崩れつつあり、鈴木君もそのことをよく認識していて、何とか様々な試みをしていきたいという熱意を持っていた。

経済至上主義の波に真宗寺院が呑み込まれていく感じがするが、その経済至上主義から脱却して人間が人間に帰ることを示す真宗を絶対守っていきたい。どうも世間一般では仏教がいわゆる御利益宗教としかとらえられていないのではないか。九州では除霊行為によって中学生が亡くなったので逮捕された住職がテレビに映っていた。除霊とか厄除ということについて仏教は何も言っていない。むしろそういうものに解決を求める人間の迷いに光を当てるのが仏教ではないか。この逮捕はこれだけで済まされるものではない。最近、小生の知人が写真に霊のようにものが写っていたので、あるお寺(もちろん真宗ではない)に行ったら、家族構成とかプライバシーに関わることをさんざん聞かれたあげく、霊に関わる説明まで受けてきたそうで、気持ち悪くなったそうだ。仏教は自分を、現実を受け止められない人間の弱さや悲しみに寄り添って、人間を目覚ます教えである。救いとは自覚が伴うのであって、自分の思いを敵えたり、除霊とは無縁である。世の中は本当に混沌としていると感じる。仏教によって人間がより迷っていくのなら本当に悲しい、というかそれは仏教ではない。一カ寺、一カ寺の住職の姿勢は本当に大切だ。

シンポジウム打ち合わせ(東本願寺) 鷲田さんの講演(御影堂) 鷲田さんの講演(御影堂) パネルディスカッション。(右手前から)藤川さん、鷲田さん、小沢さん、浅野さん(御影堂)

そして、25日は東日本大震災で延期となったシンポが本山御影堂で開かれた。前日の土曜日は、枕経、法事2件、彼岸参り5件を勤め、夜に京都入りした。夜は田口弘君と来年の成人の日法話会で法話される川村妙慶さんと楽しく飲んだ。しかし、お彼岸中の日曜日はいくらなんでもしんどかったが、法事を他の日に移すほどしてなんとか出向。鷲田清一さんの講演、成人の日の法話会に講話してくださった詩人の藤川幸之助さん、そして藤川さん同様、同朋新聞でインタビューした小沢牧子さんがパネリストとあってはスタッフの小生は何としても行かざるを得ない。鷲田さんとも大阪大学でお会いしているから、小生にとって3人とも待望の再会であった。またコーディネーターの同朋大学の浅野玄誠先生も実にユニークですばらしいシンポであった。生老病死の「老」がテーマであった。鷲田さんは、老いを問題として語られることに問題があり、老いは課題として取り組むことそれ自体に大きな意味があるとした。そして、老いがマイナスイメージにとられる3つの元凶にふれ、 (1) 老いを自分のこととしてではなく、世話する側から語られ、当事者の位置から見ていくことがない。 (2) 近代化によって成長神話が生まれ、生産性のない「老い」を下り坂に見てしまっている。老いを労働しない人と定義付けられてしまったこと。 (3) すべてサービス業や行政に分業されて、家庭でやることが激減し、いのちの世話がすべて代行になってしまい、だれも何もできなくなってしまったこと。 ──などを挙げられた。そして独立と自立はちがい、人間に独立はありえず、協力がないと生きていけないと。インターディペンデントが大切と語られた。小沢さんは、老いの当事者として、老いていくすばらしさを語ってくださった。「できなくなるということは、人とつながるきっかけ」と言われたことは心に残った。そういう点から御遠忌テーマ「今、いのちがあなたを生きている」を絶賛されていた。遅くなると見えてくるものがあり、ゆっくりと土に近づき死を迎えるのだと、土から生まれ土に帰るのだと、実に説得力があった。また心理学批判を展開し、老いの問題にまで「障害発達学」という形で入り込んでくることに警鐘を鳴らした。藤川さんは、介護する母親から自分が逆に引き出されたことなどを披露しつつ、存在そのものの尊さに言及。また、能力が欠けていると、ちがう能力が出てくるとして、老いがマイナスであるという世間の見方を一蹴した。最後は善悪に惑う人間そのものの問題となり、グレーゾーンを許さない現代の風潮をなんとか翻していくことの大切さが語り合われた。4回にわたるシンポジウムは親鸞聖人の御影が安置されている御影堂で一般公開として行われた意義は大きく、今まで東本願寺に縁のなかった多くの方々が来場されたことで、今後の大谷派宗門の新たな役割が荷われていることがはしっきりしてきた。これは真宗寺院においても暗い話題が多い中でのひとすじの光明である。やはり多くの人は「本物」を求めている。僧侶自身が埋没せずに、この願いに励まされて、自分の上に救いを明らかにしていくことが期待されていると痛感する。

ということで、駆け足で9月の後半15日間をピックアップして見てきた。途中台風にも襲われたが、小生の行動も台風並みであった。でも動ける今、御遠忌の今、こうして動けることに深い頷きを持っている。どこまでも自分のお寺を第一としながら、そして本当に第一とするなら、小生がさまざまな学びが求められるから、こうした活動は必須条件になると思う。お寺を大事にしているからこその活動が、お寺を、そしてお寺以外の人たちとも真につながっていける道だとつくづく思うのである。

〔2011年9月29日公開〕