8月31日(水)〜9月1日(木) 飯舘村の人々との対話

福島県飯舘村の人々と対話する御縁をいただいた。飯舘村と小生のつながりは、法友の佐野明弘さんが、飯舘村が半径30キロ圏内ではないから安全と言われてきたが、そうではなかった飯舘村の状況、特に子どもたちの被曝を心配し、なんとか飯舘村の力になりたいという願いに小生が賛同したことから始まった。拙寺での東日本大震災のチャリティコンサートや義援金箱に集められたお金はすべて飯舘村の「負げねど飯舘」という村民の会に送られている。被災地域で村民の会があるのは飯舘村だけのようである。今回は、同朋新聞の取材での「負げねど飯舘」の方々と対話する機会をいただいたのだが、もし被災地で苦悩する方々とまったく面識がないのに取材するとしたら、つらいことだし申し訳ない気がしただろうが、多少なりとも関わりを持たせていただいているので、そういう意味では精神的にもおちついて取材に臨めた。取材といっても、飯舘村の皆さんの話を聞き、ひたすら学ばせていただく、皮膚感覚を大切に現場に身を置くこと、その一点であった。

福島駅に「負げねど飯舘」の常任理事として活動する佐藤健太さんが迎えに来てくださった。会場に向かう車の中で色々話をしたのだが、29歳という若さでありながら、視点がとてもしっかりしているのには驚いた。やはり、どうにもならない苦しみを抱えているからこそ、何か願いに触発されて立ち上がっているのだろうと感じた。

会場となった「飯舘村いこいの家 ゑびす庵」 村民会合の様子 小生と語る菅野さん(左)と佐藤さん(中央)

会場となったのは、飯舘村いこいの家「ゑびす庵」。飯舘村で御蕎麦屋さんと旅館を経営していたが、計画避難のため店を閉めることになった。そんな状況のなかで、福島市の友人が場所を提供してくれ、福島市郊外で、飯舘村のいこいの家として、飯舘村の人々の交流拠点になって復活している。これも感動的なことである。今日この「ゑびす庵」で、「負げねど飯舘」の村民会合が持たれるということで、老若男女20人ほどの村民が集まった。村の人たち一人ひとりがとても優しく暖かく片山君(出版部)と小生を迎えてくださり、小生らもその会合に同席させていただいたのだった。都会の人間にはない素朴さとほがらかさに満ち溢れていたが、いざ会議が始まると真剣そのもので、時には分裂するのではないかというほど激しい議論を展開した。こんな緊迫した場面に出くわしたことは最近まったくないと言っていい。どんなに激しい議論になってもけっして分裂しないのは、同じ飯舘村の村民として生きている信頼の上に、すべてを失った悲しみと痛み、そしてそこから立ち上がっていこうとする願いが共有されているからだということは言わずもが十分伝わってきた。会議の主な内容は「健康手帳」と「かわら版」についてであった。

余談だが、僧侶の会議も真剣で緊迫することももちろんあるが、この会議には数段及ばない。こんなことを書くと僧侶側から批判を受けるかもしれないが、僧侶の会合は、一国一城の主意識が強くて、どちらかというと本音を言わず、安全地帯からきれいごとを言ったり、自分を正当化して強く見せたりする発言が多々あり、発言に責任を持った上で本音を語ったとしても、それが正当に受けいれられる前に、その発言が和合を乱すもととして敬遠されたりすることもあるのが現実だ。もちろん勝手にえらそうな発言をする僧侶は論外であることは言うまでもないが、いずれにしても保守的であることはまちがいない。飯舘の皆さんの真剣な議論を聞いていると、我々僧侶はただただ恥ずかしいとしか言いようがない。宮戸道雄先生が「坊主自身が“うそとおべんちゃら”で生きているのではないか!」とよく言っていたことを思い出したのであった。まあ僧侶体質などどうでもいいことだが・・・。

会議中に「こうして我々の会に東本願寺の方々が来てくださるなんて、ありがたいことではないか」という発言があったが、この発言の背景には、これほど不条理な状況に置かれながら、行政がきちんとした対応はしないし、おそらく無関心な人たちが多いというか、忘れ去られていく現代の風潮、またあきらめムードも漂い始めているということがあるのだろう。たいして力にもなれない我々なのに、同席することだけでも親しみを持ってくださった。むしろこちらとしては申し訳ないとしか言いようがなく、ひたすら学ばせていただくだけだと頭を下げるばかりであった。

会議の途中で蕎麦が出されたが、この上なくおいしかったのは、その蕎麦に込められた悲しみと暖かみを感じたからかもしれない。夜6時30分から始まった会合は10時30分すぎに終わった。夜遅くまで続けられたのは、それだけ真剣である証だ。自分はどこで真剣に生きているのかと考えずにはおられなかった。村の人たちはみんな本当に生きていると思った。会合が終わって、佐藤さんと農業を営む菅野哲さん(63歳)のお二人と語らいの時間を持った。

菅野さんの名刺には「土と生きる 日本の百姓 菅野哲」と書かれてあり、思わず感動した。「土と生きる」と名刺に書く人とは今まで会ったことがない。「土」と「生きる」ということが分裂してしまったのが現代人の有様なのだろう。菅野さんは生きる「本当」のことを知っている人なのだと直感した。このあと菅野さんから話をお聞きして、「土」ということに込められた願いを深くいただいたのだが、「浄土」の問題と直結していることを感じた。

小生が主に質問したことは、(1)「負げねど飯舘」名前に込められた願い (2)安全と言われ、他地域の人々を受け入れていた飯舘村が突如、計画避難地域に指定されたことに対して感じること (3)健康手帳に込められた願いと課題 (4)政策論争も大切であるが、最も大切としていることは何か(この村に生きると言うこと) (5)子どもたちの問題 (6)「がんばろう日本」というキャッチフレーズについて思うこと等々であった。以下、菅野さんと佐藤さんのお話の一部を小生の感想を交えて紹介する。

(菅野さん、佐藤さん)「11日の津波が来たとき飯舘村の私たちは、被害にあった人たちを助けたいと、避難所を設け、避難してくる人たちに食べ物や飲み物を差し上げました。そして翌日には福島原発が爆発し、20キロ圏内に入っている浪江町や南相馬の人たちが避難してきたので、学校を開放し、炊き出しをしました。ところが、14日にまた原発が爆発し、飯舘村も危ないと察知し、避難してきた人たちには会津のほうへ避難したほうがいいと促し、飯舘村においても子どもだけは何とかしなければならないと避難し始めました。すでに水は地下水しか飲めない状況になっていました。水道水は表流水だから、ヨウ素分をろ過できないので飲めないから問題だと役所に訴えても相手にしてくれなかったのです。17日には村民を避難させてほしいと申し出たのですが、行政はわかっていながら指示は一切なかったのです。村民は21日までヨウ素を含んだ水を飲まされ続けたのです。これは犯罪行為ではないでしょうか。15日に毎時44.7マイクロシーベルトとテレビで報道されたのも帯でのたった1回きりで、それも放射線の一番低いところでの測定結果を報道しているのです。現実をはっきり住民に示さない。なぜそんなことをしなければならないのか。3月25日、『ただちに影響はない』と繰り返されただけでしたが、毎時20マイクロシーベルト以上あり、高いところでは200マイクロシーベルトもあったのに、なぜ事実を伝えないのでしょうか。そのうち、だんだん若い人も騒ぎだし、いっしょにやっていこうと始まったのが「負げねど飯舘」です。ネーミングについてもがんがん議論したのですが、最終的にこの名前におちついたのです。つながりを大事にしているからこそ「負げねど」と方言で表現したのです。放射能に負けてられないということもありますが、我々を愚弄した、我々の生活を奪った体制に負けるわけにはいかないのです。なぜなら何とか私たちの生活を取り戻したいからです。だから絶対に負けるわけにはいかないのです」

飯舘村のとあるバス停 人影のない村 ひっきりないし警察の車が走る 菅野さんの家を望む 荒れた水田 飯舘のゑびす庵(蕎麦屋) 休業のお知らせ。断腸の思い 旅館「ゑびすや」 誰もいない公園 飯舘村──

●小生がニュース等で知っていることは、4月11日に飯舘村など5市町村が、計画的避難区域に指定されたこと。そして13日に開かれた国会での報告会で、京大原子炉実験所の今中哲二助教らが飯館村は、放射線被害で人が住むのに適したレベルではないと発表したことなどであるが、菅野さんらはずっと危険を訴えてきたのに、1カ月にわたって「安全」と言われ続けたのだ。被災地の飯舘村の特殊性がここにある。この一ケ月は何だったのか。それは行政だけの問題ではなく、私たちの生き方の問題である。今ここで苦しんでいる人たちの犠牲の上に首都圏に生きる小生も電気を使ってきた・・・なのにとこかで他人事として片づけてはいないか・・・。現実の問題を直視することの大切さ、マニュアル化された社会で思考停止している生き方全体を見つめ直していくことが一人ひとりに求められているのではないか。深く人間を見つめ、自己の愚かさに気づかされることなくして、飯舘村の人たちの悲しみと向かい合うことはないと感じた。飯舘村の人たちの問題は、実は私たちの問題なのだ。親鸞が「われ」と「われら」が矛盾しないと明らかにしたことがうなずける。

(菅野さん、佐藤さん)「飯舘村民は絆が強いのです。なぜかというと、楽をして生きてきていないからです。気候も経済も教育も環境も厳しい。そういうなかで学んで生活をして今を生きているのです。地域は、“自ずから”作ってきたのです。自分たちの手で作ってきたのです。だからこそ今回のことは許せないのです。『健康手帳』の作成も今後の被爆者への対応というだけでなく、絆の一環です。細かい記録を残すことなど国ではしないでしょう。本当は被爆者手帳という名にしたかったのですが、自分の息子が被爆者だと思われたくないという声を考慮したのです。でも、やらなければいけないことはやります。被爆している、していないは別として、せめて行動記録だけは残しておくことで、何かあった時に必ずや役に立つし、絆にもなっていきます」

●手作りの日常生活ということ。厳しい環境のなか、農を基本に生活の知恵を結集させて生きてきたのが飯舘村の人たち。「土と生きる」ということの深い意味が徐々にわかってきた。飯舘村の米一つ取っても、土壌にあったおいしい米を作り上げてきた。マニュアルではなく、土と対話し、自然と対話し、村人と対話して作り上げた農作物・・・その基本となる絆が失われていくことの悲しみ。人間は生きる場を失っては生きていけない・・・。この状況のなかでなおも立ち上がろうとする飯舘村の人々の深い願いを感じる。

(菅野さん、佐藤さん)「『がんばろう』は、村人の誰もが嫌がっています。これ以上何をがんばれと言うのでしょうか。だから、『がんばろう、飯舘』ではなく『負げねど』なのです。みんながんばっている。がんばっていない人なんかいません。日本人はこの経済不況のなかでみながんばっています。それをどう共通理解をしていくかです。『がんばって』という言葉を発するにも、自分も同じ立場に立って物事を考えて共鳴した上で言うのと、単に『がんばって』という表現をすることには大きなちがいがあります」

●“みんな、がんばろう”という行政用語ではなく、共通の悲しみのなかからしぼりだされた言葉としての「がんばる」ということが生きた言葉なのだろう。行政用語は冷たさ以外何物でもない。言葉の背景の願いを感じることが大切なのだといただいた。「がんばれ」と言ってはいけないというと対策になってしまう。本当に「がんばれ」といえるかどうかは一人ひとりのあり方に関わるのだ。

(菅野さん、佐藤さん)「村の人たちが一番悲しんでいることは“バラバラ”になったことです。一か所に避難できなかったことはあまりにも大きいのです。6000人の村人ならば、二つに分けるぐらいで対応できたものが、各方面にバラバラに分けられてしまった。実は、飯舘村は長年かけた集大成の時期にあったのです。何年かに一回襲ってくる大冷害にも対処し、厳しい環境のなかで、農業の村としての整備し、水稲に、畜産、野菜を組み合わせた複合経営を成り立たせてきたのです。それを成り立たせたのは、もともと飯舘村にあった『結(ゆい)』という制度でした。お互いに助け合って生きてきたということです。豪雪の対応も、環境整備も、すべて共同の作業である「結」の制度によってやってきて、ようやく集大成を迎える時期に差し掛かっていたのです。それが、この土地を追われるという事態になったのだから悲しいのです。さらに『結』でつながってきたコミュニティがバラバラにされて、人間関係を壊されてしまいました。ここに一番大きな悲しみがあるのですが、誰がそんなひどいことをやったのかということです。何とか村の修復をと思うのですが、不可能に近いのではないかと思います。葛尾村が14日に1500人の全村避難をしましたが、そういう形をとらなかった飯舘村や双葉町はバラバラになってしまったのです。飯舘は村人がどこにいるかはほぼわかってきましたが、それでも土地を追われた人間の悲しみは消えません。それはバラバラになった悲しみです。このことはなかなかわかってもらえません。人間関係が全部壊れる。修復ができない。もとのコミュニティは作れない。なんとかしようと検討しているのです。100、200戸でもいいから飯舘村を再現していくことをしていきたいのですが・・・行政は単にもどそうという考えしか持っていないのですが、おそらく若い人はもどってこないでしょう。もどりたいのは皆同じです。誰でももどりたい、でも現実として戻れないのです。避難を遅らせたのも年間1ミリシーベルトから20ミリシーベルトにあげたのが原因です。1ミリシーベルトだったら避難できたはずです。安全と言われ続け留まって、そして突然避難せよと言われたのです。感情は避難したくないが、せざるを得ないのが現実です。すべてを失ったのです。土地、人間関係、文化、歴史、その人の人生も失ったのです。それでも東電は責任感を持っていません。審査会は、交通事故と同じ扱いでものを見ようとし、東京で議論しているだけで現場を知らないではないですか。現場の声を聞く公聴会を開こうともせず、自分たちの考え方だけでやろうとしているのです。その姿勢が絶対に許せないのです。現場を見て、現場の人の声を聞いてほしい。交通事故の審判だって当事者の意見を聞く場があるでしょう。なぜ私たちにはないのでしょうか? 原発を作る時だけ公聴会を開く、それも“やらせ”です。それを許せますか? 被害者の心を逆なでするようなものです。長い間原発を推進してきた前政権は知らん顔、現政権は内輪もめ・・私たちは置き去りにされています。でも何とかやっていきたい。絆を大切にしたいのです」

●「土地、人間関係、文化、歴史、その人の人生も失った」という言葉は重い。合理化された考え方が人間を見えなくしてきたのだろう。関係性を生きると言うことを忘れた社会。やはり私たち一人ひとりのあり方が問われているのだ。それがなければ他人事でしかない。

現代の状況は満州事変前後によく似ていると言う指摘がなされている。つまり思考停止、体制順応である。直接、生活を破壊する体制や権力に対して毅然とした対応をしていくことはとても大切なことである。そして最も大切なことは、深く人間を見つめること、「愚かな凡夫」としての自覚が共通の絆の大地を開くのである。どこまでも深く人間を見つめ、いよいよ「愚」に帰る時だ。「南無阿弥陀仏」という言葉の背景をいよいよいただいていきたい。

そして「生きる場」の大切さについてあらためて受け取り直していきたい。『あなかしこ』最新号に書いたことだが、安田理深氏は、浄土を「存在の故郷」と表現している。生きる場の大切さを説いたのがまさに我々がいただいている浄土の教えである。「仏身」と「仏土」(浄土)は身土不ニであるが、あえて身(主体)と土(環境)に開いたのは、「土」の問題を通して、人間の根本問題に応えてきたからである。「浄土」とは実体ではなく、まして死後の世界でもなく、本願が南無阿弥陀仏と言葉になって一切衆生を目覚ますはたらきそのものである。それを「浄土」という場所があるがごとく呼びかけるのは、生きる場の大切を説くためであり、その場は人間の迷いを翻して生き抜く「真のよりどころ」として示されている。「浄土」という仏土において、如来が一切衆生を救おうと、つまり、そこに自覚を伴った真の救いが成り立つことを明らかにしているのである。苦悩の現実を生きる人間に、あたかも場所があるがごとく「浄土」と呼びかけてきた歴史を今ここに表現していくことに使命を感じる。

菅野さんは、箱根駅伝の弁当に、人参2000食を提供してきたそうだ。飯舘村の村民が力を合わせて作った人参が箱根駅伝を支えている。繰り返すが、そういう関係が見えない生き方をしてきている自分の愚かさに気づかされることで、はじめて飯舘村の人々と向かい合えるのだろう。

菅野さんは、「あきらめムードがこわい」とおっしゃっていた。『方丈記』に大地震のことが書かれているが、そこにも「いつの間にか人々は地震のことを口にすることはなくなった」とある。人間はすぐに忘れ、日ごろの心にもどってしまう。その愚かさに気づかせていただくよび声を聞き続けることができるかどうか。

佐藤さんに福島駅前のホテルに送ってもらったが、その道中での会話。「僕は子どもが好きだから助けるとか、そういうことではありません。今すべきことは何かといったら子どもの問題でしょう。現実に問題がおこれば不安になる前に、何をすべきかを考えるのが飯舘村で育った僕の姿勢です」と言う佐藤さんの言葉は重かった。何かと条件をつけて動こうとしたり、現実に眼をそらしていたずらに不安になったりしてはいないか。今、最も苦しみの渦中にある飯舘村の人たちが最も豊かな精神性、身体性を持っているではないか。貧しいのは誰なのか・・・

翌日の9月1日、片山君とレンタカーで飯舘村に入った。人影がほとんどない。荒れ果てた田畑・・・公園のブランコがさびていた・・・何も知らずに蝉が鳴いていた。その蝉の声がとても悲しく聞こえた。菅野さんの自宅の前に立つ。ここで生活していたのかとしみじみ思う。窓からうっすら見える家の中には洗濯物がつるされていた。言葉にならない・・・、根こそぎ生活を奪ったのは同じ人間そのものであった。「ゑびす庵」にも行ってみた。閉店の言葉がかかっていた。近代文明は人間を豊かにしなかったのだ。人間が人間でなくなっていく道をたどっただけだったのではないか。自然との分断、人間関係の崩壊・・・原発だけで語り尽くせる問題ではない。原発問題を通して、人間の愚かさを根源的に見つめ直していくことがすべての問題の基本ではないか。なぜなら人間の愚かさが今日の作り上げた社会だからだ。その加害者の一人が小生なのだ。その人間の愚かさが照らされていく道を歩むこと。それが3.11と言われる歴史的転換期を意味することだと思う。

〔2011年9月4日公開〕