7月19日(火) 北海道大学で中島岳志氏と対話

北海道大学

本山での御遠忌テーマ委員を経て、引き続き御遠忌企画運営委員として関わって、いつのまにか7年の月日が過ぎた。この間、同朋新聞『人間といういのちのすがた』のなかで、何十人もの識者や門徒さんなど多くの人たちとの出遇いがあり、インタビューや対談という形を通して対話できたことは、本当に大きなお育てをいただいた。また、本山での御遠忌法要は終わっても、御遠忌テーマの学びが終わったわけではなく、『人間といういのちのすがた』の企画もしばらくは続けられるので、まだまだ色々な人たちと出遇えることが何ともありがたい。これも御遠忌があったからで、親鸞聖人にただ、ただ感謝、感謝である。

今回は、北海道大学公共政策大学院准教授の中島岳志氏と対話するご縁をいただいた。中島氏は、大地震がおこり、それに伴う原発事故による深刻な状況、つまり人間がトポス(生きる場)を失っていくことに大きな警鐘を鳴らし、いかにトポスが大切かを語ってくださった。人間は、生きる場を失っては生きていけないのであり、その生きる場の大切さを説いたのがまさに我々がいただいている浄土の教えである。「仏身」と「仏土」(浄土)は身土不ニであるが、あたかも「浄土」という場所があるがごとく呼びかけるのは、「浄土」という仏土において、如来が一切衆生を救おうと、つまり、そこに自覚を伴った真の救いが成り立つことを明らかにしたからである。場の問題を通して、人間の根本問題に応えてきたのが本願の歴史そのものなので、そういう点から言っても、中島氏とはとても有意義な対話をすることができた。

対談する中島氏(左)と住職

中島氏の指摘の一部を紹介すると、(1)原発事故による死者数よりも、自動車事故で死亡する人数のほうが多いことを理由に、そのリスクを小さく見積もる人がいるが、それは論外で、原発事故は取り返しのつかない事態を多く生んでしまっていて、その最大の問題は多くの住民のトポスを奪い、存在の根拠を破壊してしまい、それが過去(土地の来歴)も未来(継承)も破壊してしまう。西田哲学では「場所(トポス)の論理」というが、トポスとは関係性をふくめて、その人が生きられる場所。原発はそれを根こそぎ奪う。原発を守ることよりトポスを守ることに目を向けること。(2)すべての国民が原発事故の不確実な情報に振り回され、何を信じていいのかわからない状況におかれている。にもかかわらず、自分で判断することを強いられる「究極の自己責任社会化」が進行している。そうすると、次第に「もう考えたくない」「何とかなるだろう」という、諦めと忘却が始まり、わかりやすい答えを提示し、考える苦しみから解放する指導者に依存していく深刻な危機にある。(3)「絶対安全な原発」など永遠に存在しない。人間は永遠に不完全な存在であり、理性や知性には限界があるにもかかわらず、「原発は安全だ」というのは傲慢である。常に不完全であると言う謙虚な自覚を持ち続ける視点を与えるのが、親鸞の教えの本質である。親鸞の悪人、愚者の自覚に伴う自力に対する否定的な態度は、私の思想的枠組みに作っていて、大きな影響を受けている。

以上、いくつか挙げてみたが、どれもとても大切な指摘であった。中島氏は吉本隆明氏の思想にふれ親鸞に出遇った人なので、吉本氏の『最後の親鸞』の「愚」、あるいは「非知」についての言説に影響を受けていることも中島氏の発言から感じとれた。

ところで、仏教は、あらゆるものが変わってしまうことを説くが、トポスを大切にしようとしても、そのトポスもやがて崩れていくし、現に震災、原発事故によってトポスが崩れてしまっている。トポスを守ることは大切にしつつも、現に崩壊していくトポスというところに、「浄土」という問題が提起されているのではないかという流れに持っていったところ、中島氏はまず「死」という問題から話を展開していった。大切な人の死は喪失としてとらえられるが、生者から死者となって存在し、生きているときは不可能だった関係が生み出される。死者とのコミュニケーションは、そんな自己を掘り起し、自己を凝視させるのだと。中島氏の言いたかったことは、喪失から死者とともに生きる新たな出遇いということであろう。喪失で終わらない新たな関係性の構築と歩みである。そうすると、「浄土」をあえてトポスという言葉で用いて言えば、トポスの喪失にはたらきかける、トポスを支えるトポスではないかという話になっていったのであった。

もう一つおさえるならば、親鸞は、トポスもやがて崩壊するから、そのトポスは捨てて、浄土が本物だとは決して言わない。トポスが喪失していくことは、人間の思いのなかで絶望以外の何ものではないが、人間の思いをひるがえして如来のはたらき(浄土の世界)をいただくならば、喪失しつつあるトポスにもう一度帰っていって、そこで積極的に生き抜く方向性が与えられるのではないか、そういうことから現代の喪失するトポスの問題に真宗は応えていく使命があるのではないかと。もう一度、苦悩の人生に帰っていく、そこで生き抜くことは、「果」ではなく、「因」が与えられるということ、今、ここに浄土の功徳が与えられて生き抜く、これが現生正定聚であるとの小生の指摘に中島氏は「まったくその通りです」と頷かれていた。親鸞の教えは浄土に完結するのではなく、苦悩の大地にはたらきかけるのが「浄土」であり、「浄土」とは、本願がはたらく世界であり、であるからむしろ崩壊するトポスに立ち帰っていくことを教えるのではないかと思う。

中島氏の「親鸞の教えはこうだと言わせないのが親鸞」との指摘も重要。長くなるので端的に言うと、凡夫たる人間が親鸞の思想をにぎりしめると数々の危険性が生れる。戦前でも自力を捨てろという親鸞の影響を受けた「原理日本」の主張が、危険なファシズム思想になっていったという例を中島氏は紹介されたが、小生も、日常のなかの例として、聞法会などでも、門徒の発言をよく聞かず、僧侶が一方的に教えに立場に立って門徒を批判することが多々あり、我々僧侶も気をつけなければならない根深い問題として紹介した。教えはすべて回向、如来の本願力回向(他力回向)である。「問われる」という形でお育てをいただくのであり、我々は凡夫であることを忘れてはならない。他力回向がなければ親鸞思想は危険思想になりかねないことを確認しあった。このことに関連し、ヒンディー語の専門の中島氏は、ヒンディー語は、与格構文で、「私はあなたを愛している」という表現を、「私にあなたへの愛が宿った」という言い方をするが、この与格構文と、「絶対他力」には通底する部分があると、そういう意味で御遠忌テーマ「今、いのちがあなたを生きている」というのも与格構文だと指摘。小生は佐野明弘さんとともに大阪大学に鷲田清一さんを訪ねたときに話題となった「受用」(じゅゆう)の問題に言及し、他力の問題に関しても深く対話することができた。

いわば、親鸞には結論がない。つまり、これこれこうだからこうなるということをけっして言わない。中島氏は南無阿弥陀仏を称えているから救われるという因果を持っていないから、なお念仏を称えると。その因果の外部に親鸞の考え方があることが重要で、永遠に自己を懐疑しながら、南無阿弥陀仏と称え続けるしかない、そんな存在であるということを私たちに見つめさせるのが親鸞ではないかと述べた。曽我量深氏が「念仏を称えても救われないが、念仏を称えなければ救われない」という言葉にも表れていると思う。

法学部・公共政策大学院前で

単独と超越の問題、悪人と愚者の問題、真諦と俗諦の問題など、様々なことで深く対話したが、ホームページであれもこれも書くことはやめておく。小生が心から信頼する東本願寺出版部の片山智也君が果たして同朋新聞でどこの対話を掲載していくかね楽しみに待つことにしたい。中島氏との対話は、対談形式ではなく、インタビュー形式で掲載する。9月号1回の掲載か、10月号の2回になるかはこれから決めるであろう。楽しみにしていてほしい。

わかりやすさを求める現代にあって、人間の知恵を翻す親鸞思想を伝えるためには、「言葉」を紡いでいく作業が大切だ。中島氏もやはり「言葉」だという。まだ36歳という青年がここまで親鸞に共感し、そこから現代の諸問題を見つめてくださることは本当にありがたい。我々僧侶は、識者の声を謙虚に聞き、かといって識者依存にならず、切磋琢磨して、現代の問題に向かい合って、言葉を生み出していきたいと思う。あらためて親鸞仏教センターの大切さを痛感したのであった。

〔2011年7月24日公開〕