9月28日(火)〜10月19日(火) 法話の連投
─依存と帰命─

青年研修会奉仕団での講義(本山同朋会館) 車座になっての全体座談(本山同朋会館) 札幌別院北三条支院の御満座法要 札幌別院北三条支院の御満座法話 札幌別院豊白支院での『御伝鈔』 札幌別院北支院での大逮夜法要 札幌別院北支院御満座での法話 岡崎教区第15組お待ち受け法要 岡崎教区第15組お待ち受け法要での法話

9月〜12月にかけて法話の日々が続く。報恩講シーズンであり、来年の御遠忌を前に各地でお待ち受け法要および大会が集中する時期である。

秋彼岸が明け、すぐに待っていたのは、9月28日からの本山同朋会館(京都)での「東京教区青年研修会」。同朋会館教導として出講した。教区内の青年僧侶が多数参加した研修会であったと同時に、これだけ真面目に教えに向かい合おうとする青年僧侶がいることにまだまだ宗門は明るいと感じた。

特に研修テーマを設定をしたわけではないが、「依存」の問題を一貫して取りあげた。「依存」と「帰依」「帰命」とはまったくちがう。現代は完全な依存社会、それを打破していく方途について語った。29日の御影堂での晨朝法話でも「依存」をメインに語ったが、小松教区のご門徒が涙を流して聞いてくださっているのには驚いた。やはり大きな問題なのだ。そもそも「依存」について深く考えるようになったのは、つい最近のこと。同朋新聞のインタビューで小沢牧子さんと徳永進さんと出遇ってからだ。依存が進行する一番の問題は関係の希薄化にある。関係性の中から見えてくる、教えられることを大切にしたのが親鸞聖人。現代においていよいよ親鸞聖人が待望されていることを深く感じる。

10月3日(土)は東京2組「宗祖親鸞聖人750回お待ち受け大会」。ここで法話したわけではないのだが(法話は松井憲一先生)、組長としてこの大会が開かれるまでの願いについて20分以上語った。ここでも「依存」の問題にふれた。「依存」は人間を人間でなくしていく。人間は「自在」というわけにはいかない。自在は仏にしか成り立たない。しかし凡夫の自覚を通して見えてくる視座がある。そのことを大切にしたいものだ。

10月6日(水)は「東京1組坊守会報恩講」(光桂寺)に出講。依存に対して親鸞聖人はどう生きられたのか。どこまでも苦悩の身に帰っていくこと、そこに引き戻されながら浮かび上がってくる「浄土」という大地、真のよりどころについて語った。依存を破るはたらきが如来の本願力回向であり、それが「浄土」である。

10月8日(金)の夕刻に札幌に入った。9日(土)〜14日(木)までの6日間にわたって「札幌別院支院報恩講」で延べ15席法話する。6つある支院のうち、昨年は山鼻、現来寺、円山の3支院で法話したが、今年は残りの北三条、豊白、北の3支院での法話であった。新千歳空港では列座のお2人がお出迎え。見慣れた顔にホッとした。

どの支院も婦人会を中心とした手作りの報恩講。関係性の希薄な現代にあって、人間性回復のすがたが真宗寺院に残っているということを再確認。まず何よりも足下が大切。何でもない日常に普遍性を見出すことに尽きる。大谷派には8000寺院ある。一つの寺院で出来ることは小さくても、それぞれのお寺が本来の真宗寺院の役割を復活していけば大きな力になるのではないか。法話ではやはり「依存」ということをかなり意識しつつ、「恩」ということについて、安田理深師の「自分が自分になった背景を知る。それが恩を知るということである」という言葉を手がかりに御遠忌テーマ「今、いのちがあなたを生きている」の呼びかけに応えていった。安田師の言葉のポイントは「なった」と「背景」。やはり個人の悩みに埋没するのではなく、悩みは個人的なものに留まらないこと、つまり一人ひとりが「歴史的存在」であるというところに救いがあるのではないか、そんなことを語った。

札幌別院に限らず、北海道はどの末寺寺院でも「御礼言上」(おれいごんじょう)がある。出仕者、布教使に対して、住職(支院では主任)、坊守、門徒が報恩講円成の御礼を申し上げる。その御礼を述べる代表者が責任役員か総代。住職と門徒が一体となって報恩講を勤めた喜びが伝わってくる。これぞ真宗寺院の本来の姿ではないだろうか。門徒不在では真宗寺院とは言えない。東京の寺院ではなかなか見られない光景である。蓮光寺でも取り入れようと思う。


札幌別院豊白支院での「御礼言上」

毎年のように札幌別院を訪問しているからか、列座の人たちに何とも言えない親しみをもっている自分に気がついた。列座同士の人間関係、人間模様もより一層見えて、皆様々な苦労をしていることを感じられ色々と教えられた。親しみが出てきたからか、時間を作って個人的に小生の法話に耳を傾けてくださる列座の人たちも目に付いた。酒の場でも今まで以上に深く語りあった。ご輪番は10月より藤島輪番から梨谷輪番に代わった。藤島輪番には大変お世話になり、もういらっしゃらないことに寂しさを覚えたが、梨谷輪番の熱い姿勢に共鳴した。えらそうな言い方になるが、梨谷輪番がいる別院ならいつでも行きたいという思いをもった。ただ法話に札幌に来るだけでなく、こういう周辺のことが小生にとってとても大切なことなのであった。

札幌は例年より気温が高くストーブを使うことはなかったが、12日あたりから朝晩の冷え込みが厳しくなり、紅葉も進んだ。札幌で法話する縁をいただいて6年目、札幌周辺の急激な都市化が気になる。北海道独特の真宗文化が消えないように祈るような気持ちになった。

10月16日(土)は、「東京8組聞法会」(源通寺)に出講。法事を勤め、急ぎ中野へ。8組の聞法会は年5回で、しばらく続けてほしいとのこと。初回ということで、様々な問題提起。休憩をはさんで1時間50分の法話。生老病死の身の事実をどう引き受けて生きていくことが本当に生きたことになるのか、誰もが抱える根本課題である。

10月19日(火)は「岡崎教区岡崎15組お待ち受け法要」(愛知県高浜市、専修坊)に出講。三河安城駅にはお迎えにきていただいたのは、初老の農家を営む門徒さん。今年の6月に得度したそうだ。寺が右下がりになってきていることを所属寺院の住職に言ったら、住職から「それはあんたら門徒がだらしないからや。門徒がしっかりすれば寺は上向く」と言われ、自分のあり方を考えさせられ、住職のすすめもあって得度したということであった。こういう住職の発言も真宗の土壌だからであろう。東京ではなかなか言えない。まだまだいい伝統が残っている。さらに「今日は私の実質上のデビューです。朝早く起きて会場を徹底的に掃除をしました。本多先生のお迎えも大変緊張しております。今日は妻も聴聞させていただきます」と言われた。こんな情熱を傾けるご門徒がいるお待ち受け法要で法話させていただくことはとても光栄に思った。

専修坊はスケールの大きな寺院で本堂に300人を楽に収容できる。そして13カ寺の15組、33カ寺の東京2組の半分にも満たない寺院数でありながら、平日なのに東京2組のお待ち受け大会の参詣数をかるく上回る門徒さんで埋め尽くされていた。もちろん数がすべてではないが、さすが真宗伝統の地である。しかし、その三河も次世代の相続の問題が待ち受けているである。御遠忌に向けて、どの地域も難題を抱えているのである。何とか親鸞聖人の教えが後世に伝わっていってほしいものだ。

終了後、若手スタッフと居酒屋で語り合い、その後京都入りしたのであった。翌日、緊急会議が入ったためだ。

こうして時間に追い掛け回されながら、気が付いてみると10月20日になっていた──。この後、「茨城2組坊守会研修会」「東京5組高徳寺寺子屋の時間」「東京8組真教寺報恩講」と続き、11月に入ると、自坊の報恩講、そして「根室別院お待ち受け大会」、「山形教区」etc.... 12月中旬まで法話の連投が続く。

〔2010年10月23日公開〕