9月7日(火)〜13日(月) 北海道法話の旅で出遇ったご門徒さんの珠玉の言葉
─「わが家に親鸞聖人が“貸切”で来てくださる」─

願成寺「報恩講」

願成寺 大逮夜での勤行 大逮夜での法話 朝食(精進)

高徳寺「北海道第11組坊守会研修会」

講義の様子 座談会 記念写真

樹教寺「報恩講」

樹教寺 樹教寺周辺の景色 大逮夜(勤行) 昼食(精進)

北海道の法話の旅に出かけた。7日夕方に札幌入りし、8日からの法話の旅に備えた。北海道の真宗寺院は北国ということだからであろうか、一足早く報恩講シーズンを迎えている。小生の今回の訪問地は、8日〜10日までは滝川市の願成寺の報恩講、10日の午後からは雨竜郡秩父別の高徳寺で第11組坊守会研修会、そして11日〜13日まで樺戸郡新十津川の樹教寺の報恩講と大変ハードであった。北海道は布教線というのがあって、数カ寺を法話で回るのだ。北海道では法話の講師は「布教使」と呼ばれる。今回の布教線では、本来なら4カ寺回らねばならないが、約2週間もお寺を空けることができないので、前半2カ寺を受け持ち、後半2カ寺は信頼の厚い百々海君にお任せすることで話がまとまった。来年は小生と百々海君が前半と後半を入れ替わって法話することになる。北海道の寺院の報恩講の基本は2泊3日で、布教使は寺院に宿泊する。日程は、寺院によって多少異なるが、基本としては、初日 ⇒ 初逮夜(法話2席)、2日目 ⇒ 晨朝(法話1席)─日中(法話1席)─大逮夜(法話2席)─『御伝鈔』・後夜〈あるいは追弔会〉(法話1席か2席)、3日目 ⇒ 晨朝(法話1席)─ご満座(法話1席)と、法話三昧の報恩講である。そして大勢の法中(僧侶)が勤め合いをする。お斎はすべて坊守さんと婦人会のご門徒の手作りで精進料理である。日程がすべて終了した夜は、住職さんやご門徒、参勤法中さんたちと酒を飲み語る。東京では「誰もが集えるお寺作り」を掲げなくてはならないほど、真宗寺院が本来の姿を失いつつあり、また、その危機感すらも希薄な状況のなかで、北海道は真宗寺院の基本形態がきちんと残っているのは本当に貴重だとしか表現できない。願成寺さんと樹教寺さんの報恩講に身を置かしていただきながら、なんとかこの形態を維持してもらいたいと祈るような気持ちになった。と同時に東京なりの真宗寺院の再興を深く胸に刻んだのであった。なぜなら本質では誰もが心の奥底で「浄土」を求めているからだ。

8日午前、札幌よりスーパーカムイに乗って滝川に向かった。電車から見る景色はすでに秋であり、田んぼは稲刈りの時期に入っていた。はじめて行く願成寺さんだが、滝川駅で坊守さんとご子息さんがにこやかに出迎えてくださったので一挙に緊張がほぐれた。とにかく大きいお寺であった。本堂は、9間はあったと思う。外陣は100畳敷き。別院になっていた可能性もあるというのもうなずける。境内には滝川幼稚園も併設されていて、子どもたちの元気な声も聞こえてきた。法話では予定外の出来事があった。後夜勤行に何と滝川幼稚園の先生方が来ていたのだ。小生はそのことを知らなかった。勤行が終わると、坊守さんが「今日は幼稚園の若い先生方にいらしているんですよ」とおっしゃって、後ろをふり返ってみると20代の若い女性がたくさんいて驚いた。「聞いてないよー。法話どうしよう──」と思わず思った。しかし、そんなこといちいち言うことではなく、誰が参詣しようがきちんと法話をするのが布教使というものであろう。初めて法話を聞く若い先生たちにはどうしたものか──迷いに迷った。大逮夜から引き続いて聴聞しているご門徒にも、若い先生方がはじめて聞いても共有できる法話内容とは──。即座に法話内容を変更し、法話に臨んだのだった。その場で皆さんの顔を見て、浮かんでくることをゆっくり整理しながら話しはじめて約1時間、その時間はあっという間に過ぎていった。シーンと静まりかえった夜の本堂に小生のいつもよりゆっくりとした語り口調が響きわたり、皆さん真剣に聞いてくださっていた。まったく予定外の法話であったが、一番きちんと語れたような気がした。このことがあったからであろうか、住職さんより再来年の北海道大谷保育一泊研修会の講師のご依頼を受けた。思いもかけない不思議な縁をいだいたものである。2年近くあるから、保育についてゆっくり勉強しようと思ったのだった。園長先生は深々と頭を下げられて帰っていかれた。終わってみれば、小生自身も大きな経験をさせてもらい感謝、感謝であった。

願成寺さんで最も強烈に印象に残った出来事は、2日目の夜に、ご門徒を交えて飲んだ時のことであった。若い世代に教えをどう相続していくかということで語りあっていた時だった。あるご門徒のおばあちゃんが「私の家での報恩講には、孫たちみんなに来てもらいたいので『この日はわが家に親鸞聖人が“貸切”で来てくださる。せっかく親鸞聖人が貸切で来てくださる特別の日なのだから絶対にお参りに来てちょうだいね』と言っているのです」とおっしゃった。「貸切」とは何といのちが満ち満ちた言葉なのだろうか。それは、このおばあちゃんが教えに生きているからだろう。そしてその教えを皆にも聞いてもらいたいという「願い」が「貸切」という言葉になったのだろう。実際、すでにお孫さんたちは、おばあちゃんの姿を見て、何度もお寺にもお参りをしているとのこと。やはり教えに喜んでいる人に出遇っていくことに尽きる。「貸切」という言葉はこのおばあちゃんの登録商標だ。なぜなら、他の人間が真似ても所詮マニュアル語で生きた言葉にならないからだ。「貸切」と言う言葉になった背景が大切なのだ。南無阿弥陀仏と言う発音ではなく、南無阿弥陀仏という言葉にまでなった背景をいただくのと同じなのである。教えの言葉をしっかり消化できているから自分の生きた言葉が出てくる。「貸切」という言葉に出遇えたことは一生忘れないだろう。

10日の午後1時に高徳寺金倉住職が迎えに来て願成寺さんを後にした。翌日の樹教寺さんには午前中に入ればいいので約1日フリーとなるが、そこを見逃さないのが仲良し金倉住職。「だったら、うちの組の坊守研修会に来てよー」と頼まれたのだった。高徳寺さんはこれで4度目の訪問である。秩父別の町に入ると見慣れた景色が目に飛び込んでくるぐらいになっていた。2時に雨竜郡秩父別の高徳寺さんに到着。いつものように、明るく元気な坊守さんがお出迎え。そして、その後ろには若々しい(?)正副坊守会長もにこにこ顔のお出迎え。11組は17カ寺あり、坊守さんのいるお寺は13カ寺。13カ寺中何と11カ寺が出席、約85%が出席、その上、住職参加も可ということで金倉住職はじめ3人の住職までも出席。85%ということだけでもちょっと考えられないのに、住職まで参加とは──東京とは色々ちがいがあって勉強になるというか、驚くべきことである。坊守さんたちは東京同様、在家出身者も多いが、東京よりつながりが深い気がした。研修では、あらかじめ坊守さんたちの課題、問題を聞いていたので、それをもとに現代の状況とお寺の課題、そして救いの問題について1時間20分話した。座談もリラックスムードで、自分の問題なども話してくれてとても良かった。東京の坊守さんとの交流会をすると、それぞれの抱えた問題を共有できるし、つながりもできるから、これからは地域を越えた交流会が大きな力となっていくように感じた。終了後、この日はホテルに泊まれるということで、金倉住職が旭川に連れて行ってくれた。旭川には初めて訪れたが、北海道第2の都市という感じはせず、人がまばらだった。北海道は札幌一極集中だということを肌で感じた。でも、地元ならではの居酒屋では人情味の熱い店の人たちに囲まれて、地元料理に舌鼓を打ちながらとてもいい酒であった。

11日朝、旭川のホテルを出発し、高徳寺へ。金倉住職は法事のため、坊守さんが樺戸郡新十津川の樹教寺さんへ送ってくださった。樹教寺さんはこれで2度目だが、前回は一昨年の11月で、雪に覆われていたので、今回はまったく景色がちがって見えた。稲刈りが目前にせまった田んぼの色があざやかで、民家がほとんどない雄大な景色はまさしく北海道という感じであった。お寺に入ると門徒さんたちが準備であわただしく動いていて、報恩講の雰囲気そのものであった。さばさばした感じのよい坊守さんもお変わりなく元気であった。住職さんとは5年前の札幌別院暁天講座からのお付き合いなので、平常心で臨めた。連続でお寺に来ると、願成寺さんと樹教寺さんと、それぞれちがった個性があるのがわかり、そのことがとても大切なことだと感じた。とにかく現代社会は没個性、マニュアル化、画一化された“生け簀”社会。まさしく観念化された社会である。しかし、ここには生身の人間の顔が見える。それがうれしい。庭に大きな見事は蓮が咲いていて、それがさらにすがすがしい気分にさせてくれた。

樹教寺さんの報恩講の特徴は、門徒の物故者追弔会があることと、今回は特にご満座に続いて前住職、前坊守の7回忌法要が厳修されたことであろうか。報恩講といえば、親鸞聖人のご法事であるが、ややもすると、その後の先達の方々や自分の大切な人の法事は報恩講とは別に考えてしまいがちであるが、それでは親鸞聖人を特別視してしまうことになるだけでなく、親鸞聖人を本当に尊敬申し上げることにはならなくなる。救いがたき凡夫の身でありながら、救われていく道を歩まれた親鸞聖人の証が、次々と人の上に伝えられたからこそ、この私の上に教えが届けられてきているのである。親鸞聖人に続くあらゆる人たちの法事を報恩講といただけるかが問われているのである。「自分が自分になった背景を知る。それが恩を知るということである」という安田理深の言葉をいただけば、親鸞聖人の恩に報いるということの深さがはっきりしていくのではないだろうか。ご満座と7回忌法要後の法中と布教使への御礼の挨拶では、住職さんは、前住職さんと前坊守さんのご苦労をかみ締めながら、小生の法話を聞き続けてくださった報恩講をふり返り、「南無阿弥陀仏の教えがこの現代にあって、いかに大切であり、真のよりどころであるかを今、ここに感じる」と涙されたことが忘れられない。親鸞聖人の歩まれた道を、前住職さんと前坊守さんを通して、この私が今、ここに歩んでいるという感動。そこには北海道で開教するご苦労があってのことである。苦悩することのなかに「尊さ」が見出されるということはこのことである。そんな報恩講を迎えられ、その布教使が小生であった。こんな小生の法話をすべて聞いてくださり、自分の歩みを通して涙されるそのすがたをまざまざと見て、法話をする重さを深く感じたことだった。樹教寺さんの住職さん、坊守さん、副住職さん、みな毎回法話を聞いてくださった。願成寺さんも同様である。門徒さんが動き、寺族も率先して聞法する。こんな当たり前のことのように見えることが実は当たり前ではないのである。寺族だけで準備をし、門徒さんだけに本堂で法話を聞いてもらうお寺になってしまう可能性は常にある。それが現代の怖さである。真宗寺院の原風景がこの2つのお寺には残っている。そこに身をおかせていただいたことに頭が下がる。

樹教寺さんでも夜はお酒を飲んだ。2日目の夜は、親戚の法中さんたちと遅くまで飲んで語った。副住職さんと札幌の若き藤田住職とは2時30分まで飲んでしまい、翌日の朝がちょっとしんどかったが、それもまたよしであった。樹教寺さんでは、願成寺さんで出仕された法中さんにも再び会えて、言葉を交わしたり、恵庭の天融寺の宮本さんが親戚関係なので、ひさしぶり宮本正尊住職にお会いしたり、また、その弟さんとも初めてお会いしたりした。また、願成寺のご住職さんの出仕だけでなく、坊守さんやその友人の坊守さんまでも聴聞に来てくださり、とてもフレンドリーな雰囲気だった。

樹教寺さんでも、願成寺さん同様、帰り際に玄関でご門徒さんたちが手をふって見送ってくれた。別れ際にいつも思うことだが、もう二度と会わないご門徒もいるんだなあと思い泣きそうになってしまった。こういうご門徒に会いたいから北海道に来るのだろう。副住職さんに砂川駅まで送ってもらった。ほとんど人のいないホームに立ち、スーパーカムイを待ちながら、心地よい疲れを感じていた。夜には東京にもどり、翌日からハードな生活が待っているが、ハードでも疲れてもなぜここにいるのか。きっと自分もどこか病んでいるからだろう。心の奥底にあるたましいが本物に出遇いたいと叫んでいるからだろう。今回の法話のテーマは「生まれてきてよかった、生きてきてよかった」。それはこの自分が心から言いたいことなのだろう。どんな状況にあろうとも、どんなに悲しいこと、苦しいことがあろうとも──。

〔2010年9月19日公開〕