8月3日(火)〜4日(水) はじめての鳥取
─野の花診療所の徳永進氏と会う─

野の花診療所 徳永進さん インタビュー風景 診療所の正面玄関 福部駅 らっきょう工場。小生も取り寄せて食べてます! らっきょう畑。7月に収穫を終えています 日本海が見えてきました 砂丘温泉からの絶景 鳥取砂丘 鳥取空港

35℃を超える猛暑のなか、はじめて鳥取を訪れた。野の花診療所の徳永進氏に「同朋新聞」11月号の「人間といういのちの相」のインタビューを行うためであった。先日お会いした臨床心理学論を専門とする小沢牧子さん(9月、10月号掲載予定)も「生老病死」に関してかなり深いお考えをお持ちの方で学ぶべきことばかりであったが、これまで小生は取材を通じて実に多くの方々と出遇い語り合ってきた。これも御遠忌を縁として、親鸞聖人が小生に様々な人たちに出遇ってほしいと願いをかけてくださったからなのだと、今更ながら感謝の気持ちでいっぱいである。

鳥取に向かうため羽田空港へ。空港で飛行機に搭乗する前にお手洗いに入った。そこに非常に不可解な張り紙を目にした。そこには「人がいなくても、水が流れることがあります」と書かれていた。用をたしそこから離れると自然に水が流れるのが当たり前となっている男子お手洗い。しかし、そうでなくても流れることがあるということをわざわざ注意書のようにして張り出さなければならない理由は何だろうかと考えているうちにピーンときた。人がいないのに水が流れるのは、人間が見えない何かがいて流れたということ、つまり霊がいるということだろう。もし、お手洗いに一人でいようものなら恐怖を持ってしまうということではないか。だから、洗浄のためには人がいなくても時間が経過すると水が流れるので、わざわざ書くのだろう。そこには死後の恐怖というか、死を受け止められない現代人の貧困な死生観が如実に表れているのではないか。何をそんな断り書きが必要なのか、小生にとってはまったく滑稽に思えてしまった。

鳥取空港に着き、わざわざお手洗いに行ってみた。羽田のような注意書などない。鳥取のほうがよほど真実と向かい合っているではないかなどと考えながら、鳥取駅行きのバスに乗った。はじめてくる土地はなんとなく異国情緒かあっていいし、東京の香りがぜんぜんしないことが心地よかった。駅で出版部の片山君と待ち合わせて、野の花診療所に向かった。

徳永進さんは10年来お会いしたい人として待ち続けた人でもあった。それこそ分刻み、秒刻みとは徳永さんのためにあるような言葉で、今回インタビューに応じてくださったのも本当に奇跡に近いのである。

2時45分に診療所に到着。3時からのインタビューの約束で、廊下に面した診療所の図書室で待っていると、目の前を何度も通過する徳永さんを見た。案の定バタバタと忙しい。そして「ごめんごめん」と時折声をかけてくれたが、20分ほど待った後に部屋に入って、「今、患者さんが亡くなって葬儀社の車が迎えにきた。いっしょに見送ってくれないか」と声をかけてくださった。見送りは診療所の正面からで、多くの看護婦や診療所の職員が見送っていた。いよいよ出発の時、遺族の代表者がお礼を述べる。その顔には「笑み」があった。看護婦さんたちにも「笑み」があった。亡くなった人の一生をここにいるすべての人がきちんと受け入れていた。徳永さんも深々と頭を下げられていた。小生と片山君は合掌しお念仏を申し上げた。なんと豊かな世界であろうか。

病院に入院する時は正面からだが、亡くなると裏門から出て行く。それは死にイエスと言えない現代の発想からであろう。ところが、この診療所はちがう。入院も死もすべて正面玄関からであり、死にイエスといえる世界を持っていた。まさに「生死を超えた世界」がここに現出されていた。徳永さんが初対面の我々にまで声をかけてくださったのは、これもたまたまのご縁であり、死ということを共有しましょうという徳永さんの死と向かい合う姿勢の一貫であったと感じた。場のはたらきに遇うことの大切さを実感した場面でもあった。

徳永さんは、現代を均一化した、画一化した、マニュアル化した、デジタル化した、コンピュータ化した社会と押さえ、死への対応の単純化され、死さえも画一化され、生に対しても死に対しても手ごたえを失っていることに警鐘を鳴らす。閉ざされた死の中に生きている日本の社会、多くの日本人に対して、具体的に何をすることが、死を閉じ込めた暗箱に小さな風を届けることになるのかを日々考えておられるが、観念的ではなく、臨床という現場から常に学ばれている。臨床の場の魅力とは、患者、家族、看護部の「ほんとう」の声を聞くからであり、閉鎖性を破る豊かさがあるという。死の近くに生きている人は、そうでない人とは違う言葉や仕草をもっていて、病のままに、死に向かうままに人間の「尊さ」を深く感じると語られる。しかし、単に今の社会に対するアンチテーゼにたっているわけでもない。例えば、スピードの社会に対して、「スローな社会運動」を掲げたとする。スローの大切さはあるが、これがマニュアル化するとこれも問題だという。徳永さんには、いつも自分の考えを絶対化せず、常に学ぶ姿勢をもっている。小生は親鸞聖人と徳永さんの姿勢にあまりにも共通点がありすぎて驚いてしまったので、「親鸞聖人は、①答えではなく、問いを大切にした仏者 ②わからないということを大切にした仏者 ③関係性(人とのつながり)を通して思いもかけない方向から様々なことを教えられることを大切にした仏者であり、そのなかで言葉が生きたものとなり響いてくる」と徳永さんにお話ししたら、徳永さんはその3つに大変共鳴され、インタビューの最後でも「さきほどの3つのこと、もう一度言ってください。僕も少し親鸞聖人のことを学んでみよう」と言ってくださった。

徳永さんは、言葉には二つあるという。一の言葉は、近代語で、抽象的な言葉で、机上の言葉で主に脳から出て、マスコミ語で、標準語で、コンピュータや機会の近くにある。二の言葉は、原始語で具体的な言葉で、生活の言葉で主に身体から出て、現場用語で方言。動植物や自然や暮らしの近くにある、という。

ただし、二の言葉が一に変化してしまうこともある。マニュアルを押し付ければ、言葉の意味は変わってしまうし、言葉はいつも腐りやすいとも語っている。宗教用語もまさしくそうだ。現実からの問いかけ、苦悩する人たちとの関係のなかから、宗教の言葉も言葉としていのちを持っていくわけで、我々僧侶は世間の苦しみを見ないで、答えとして宗教用語をにぎりしめているかどうか常に問われているだろう。2005年の本山での宗祖親鸞聖人750回御遠忌お待ち受け大会で、宮城先生が「私どもはともすれば、本当に自分の問いを尽くしきることなしに、答えとして親鸞聖人のお言葉や仏陀のお言葉を掲げてしまう。しかしそのことは決して、その世界、その歩みを人びとに開いていくことにはならない。やはり行き着く先は自分の握りしめた答えを後生大事に保ち続けるということに終わっていくのではないか。曽我先生のおっしゃっておりますことを約めて言えば、自分自身の身の事実を尽くしての問いなしに、ただいたずらに親鸞聖人を讃嘆する、ただ答えとして讃嘆することであるならば、それは親鸞聖人を讃嘆することにはならないということ。それは逆に、親鸞聖人を悪魔たらしめてしまうことになると、おっしゃるのです。悪魔とは、言うならば、仏者としての歩みを根底から失わせるはたらきです。姿は仏者としての歩みをとっていても、その実質は、一つの立てた答えに常に立って、その答えから一歩も出ようとしない、それこそ人生の事実からの問いかけを聞き取ろうとしない在り方になるのではないか」とおっしゃったことを思い出す。

徳永さんは、現代人は二の言葉を捨て、一の言葉に従属してしまっていると言われる。医療によって死から逃れられる錯覚、死に至っては、セレモニー業者にまかせ、お金をはらって、済ませていく。死を悼み、悲しむことも出来ずロボット化していると。死は人々を緊張させる。そこに一の言葉化現象を起こさせ、死を不毛にさせる。告知も延命も、安楽死も脳死もそういう宿命を担っていると。それは小沢牧子さんと同じ視点でもあった。

言葉そのものにいのちがあるかどうか。死の文化がやせ細ったのは、死の緊張感のあまり、二の言葉を忘れ、一の言葉だけで対処しようとしているからではないか。そもそも「死」という言葉そのものが「二の言葉」の中の宝物的存在なのに、そのことを忘れすぎていないか。「二の言葉」を取り戻していくことが、死を今より豊かなものにしていくという徳永さんの死生観は、お見送りをさせていただいたあの場面にきちんと表現されていたのだ。そこには、つねに問いを大切にし、わからない、つまりこうだとかこうあるべきだとか決め付けない、そして関係性、場のはたらきから教えられることを大切にした徳永さんの姿勢に学ぶべきことか多かった。

インタビューがはじまったのは3時20分、4時に診察再開ということだったが、4時10分すぎまで付き合っていただいた。だいたいインタビューは2時間〜2時間30分かけて行ってきたから、今まで一番の超最短のインタビューであった。あれもこれもと聞きたいことがいっぱいあったが、核心となることは短い時間でもお互いビビッときて話し合えたと思う。来年4月にはなんとか本山のシンポジウムにも出ていただけるので、再会を楽しみにしたい。

その夜は、片山君と徳永さんの記事内容についてのポイントを整理する作業をしながら、食事をした。食事はお約束の寿司であった。名産の白身魚とイカ、飛び魚が美味しかった。ホテルにもどると疲労がたまっているのでマッサージを呼んだ。ホテルに一人しかいないということで1時間30分後の11時まで待った。マッサージに来たおばさんは目の不自由な人であった。昔、按摩さんとよばれていた人たちは目が不自由な人が多かったが、最近はずいぶん減ったし、ひさしぶりに出会った。しかし、実に部屋のつくりも何でも心得ていて、マッサージもうまいし、鳥取弁で鳥取のことを色々と聞かせてくれた。こういう形で人と出会うのもいいものだ。おばさんのマッサージは技術もさることながら、おばさんの手の感触におばさんの人生全体を感じた。マッサージが終わり、部屋のドアで「おやすみなさい」と最後の言葉を交わした後、もうこのおばさんと会うこともないのだなと思うと、妙に悲しくなってしまった。小生の体の疲れをあのおばさんが自分の人生全体をかけてほぐしてくれたし、そのおばさんを支えた人たちもそのマッサージを手伝ってくれている。そうやって自分も支えられていると思うと、「縁」ということを考えずにおれない。

翌日、帰る前に鳥取砂丘へ行くことにした。鳥取駅から山陰本線で福部まで行って歩くことにした。山陰本線の普通列車は1時間に1本で、なんと1両しかなかった。福部駅まで12分。手動で電車から降りたのだが、降りたのは片山君と小生の二人だけで駅は無人駅だった。その景色を見た時、ずっと昔の子どもの頃に見た風景のようで、何と表現したらいいか、とにかく体全体からの沸きあがる喜びを感じた。単線の駅、一面は山に囲まれたらっきょ畑。海岸にでるまで炎天下を40分も歩いたが、景色と一体となり、この暑さも心地よかった。バスが通りかかってクラクションを鳴らす。途中でも乗せてあげるよという合図であったが、バスが通り過ぎてそのことがわかった。実に素朴でほのぼのしているではないか。しずかならっきょ畑で出来事、実にいいものだ。海岸線に着くと、福部ふれあいセンターがあったので、砂丘温泉で汗を流して涼んだ。一面に日本海、海が青くてとてもきれいだった。そこから砂丘までまだまだ遠い。帰りの時間も気になったが、バスも何もないという。仕方がないのでタクシーを呼んで、鳥取駅までお願いした。その途中で砂丘に寄った。砂丘入り口から海岸まで20分も歩かないとならないほどの大きな砂丘。砂の暑さは50℃を越えていた。砂丘をはじめて見たのだがその広大さに驚いた。タクシーの運転手さんはメーターを回さずに砂丘で待っていてくれた。車内では鳥取のことをたくさん聞かせてくれた。こうして無事鳥取駅に着いた。駅で回転寿司を食べた。正面で握ってくれたのは、地元の若い女性であった。この人とも最初で最後の出会いなんだと思った。昨日のマッサージのおばさんも、タクシーの運転手さんも、そしてこのお寿司屋さんの女性も、みんなもう会うことがないのかなと思うと、やっぱり寂しくなってしまう。食事後、片山君は電車で京都へ、小生は空港から飛行機なので、駅で別れた。片山君の後姿が何となく寂しそうに感じたら、片山君と別れることも寂しくなってきた。今月また彼とは会うのになんたることか、何がそんなに寂しいのだろうか。鳥取で出遇った人たちのことがうれしかったからであろうか。

徳永さんに会うことができ、美味しい寿司と、地元の人の暖かいもてなしをいただき、初めての鳥取は実に思い出深いものになった。鳥取駅には、「八頭高校、甲子園出場おめでとう」という垂れ幕がかかっていた。そうだ! 今年の高校野球は八頭高校を応援しよう! 実に単純な小生であった。

〔2010年8月6日公開〕