7月19日(月)〜20日(火) 知床半島・斜里郡真宗連合会での法話
─念仏は私に ただ今の身を納得して いただいてゆく力を 与えて下さる─

知床半島。奥にオホーツク海がうっすら見えるのですが… 野生の鹿 ヒグマの親子 知床5湖。右が美馬さん、左が鈴木啓介さん 知床峠 峠からの景色 鈴木章子さんと助田茂蔵さんの額 鈴木さんの言葉をアップで 開会前のホール 小生の法話 熱心に聴聞するご門徒 斜里町とオホーツク海 網走国定公園天都山 網走の町、オホーツク海の先に知床半島がうっすら見える 網走湖 女満別空港

北海道ではじめて法話したのは、2005年7月の東本願寺札幌別院での暁天講座(3日間)であった。それからというもの北海道各地で法話をするご縁をいただいてきた。今回は斜里郡真宗連合会からのご依頼であった。斜里郡真宗連合会は大谷派4カ寺、本願寺派2カ寺、興正派2カ寺で構成されている。小生に声をかけてくださったのは興正派の美馬一乗さんであった。美馬さんは旭川の大谷派の友人から小生のことを紹介され知ったようで、それで小生に声をかけてくださったのだ。

朝8時5分のJALに搭乗し、9時55分に女満別空港に到着した。こんなに早い便で行ったのは、法話前に知床半島に行きたかったからだ。空港には美馬さんが出迎えてくださり、会場となる西念寺に寄り、副住職の鈴木啓介さんも同行してくれた。

知床半島といえば、森繁久弥の「知床旅情」を思い出す。そんな知床の原生的な大自然にふれてみたかった。知床半島は、オホーツク海に長く突き出た斜里郡と目梨郡にまたがる半島であり、北方4島のひとつである国後島を見ることが出来る。限られた時間の中で、知床五湖と知床峠を案内していただいた。あいにく霧がかかり、雨模様であったのが残念であったが、羅臼岳に代表される知床連山に囲まれた豊かな自然の中に身をおくことができた。そこには野生の鹿を多く見ることができたばかりか、野生のヒグマの親子も遠い目に見ることが出来た。熊はこわいものと思い込んでいたが、実にほのぼのとした親子であった。むしろ熊にとっては人間ほどこわいものはないのではないか。自然のなかで生きものが共生する姿を見て、自然から人間の愚かさというか自分の小ささを指摘されたようで、実に心地よかった。何をあわてて生きているのだろうか。「今」という「時」を大切にしていきたいものだ。

法話会は夜7時からであった。それは仕事が終わってからということを考えてのことであった。会場は大谷派の西念寺の門信徒交流会館であった。「門信徒交流」という言葉に真宗寺院の特色が表れている。交流するとは、「場を開く」ことであり、場のはたらきに出遇うことが観念化と自己理解を打破して本当に教えをいただく大切なポイントだと常々思っているので、さりげない名前でありながら、深い名前だとも思った。もちろん門信徒のなかに我々僧侶も含まれる。我々僧侶が「門徒さん」と呼ぶ時に、ついどこかちがう立場にたってしまうときがあるのではないか。真宗僧侶といっても門徒の自覚があるかどうか、もし僧侶として、あるいは住職としての責任があるとするなら、先頭に立って教えを聞く姿勢を持ち続けているかどうかということであって、教えをいただく自分は、かたづけなくも門徒とさせていただいていることを忘れてはならないと感じたことだった。

開会前に、西念寺のご住職と美馬さんと夕食をごいっしょさせていただき、色々と話すことができた。西念寺のご住職の奥様とは、癌の身のままで教えに生き亡くなっていかれた鈴木章子さんである。二階には念仏者助田茂蔵さんが86歳という高齢で情熱をかけて描いた大きな絵に鈴木章子さんの言葉が添えられていた。「念仏は私に ただ今の身を納得して いただいてゆく力を 与えて下さる」という鈴木章子さんの言葉と助田さんの絵が実に一つになって小生にせまってくるものがあった。美馬さんに『相應』という助田さんの追悼集をいただいたが、そこに助田さんが残された最後の文章が掲載されている。「私は今までお食事を頂くことは、生活の中でも、いちばん楽しく倖せな時間だと思って来ました。病気になって、食事を頂くごとに、それは今まで味わったことのない苦痛発生の原因になることもあるという体験をしてみると、何が善で、何が悪か、自分で解ったような顔をして、かんたんに決めていた愚かさに気が付きました。いのちは苦痛の中にもいきています。苦しみをとりのぞく必要のない世界を悠々と生きています。不思議です」と書かれている。どんな状況であろうともかけがえのない身を生き切ったお二人の共同作品であった。なぜ、小生にせまってくるものがあったのかが痛いほどうなずけた。

鈴木章子さんの『遺稿集』のなかで「説法はお寺でお坊さまから聞くものと思っていましたのに‥‥肺癌になってみたら、あそこ、ここと、如来さまのご説法が自然にきこえてまいります。このベッドの上が法座の一等席のようです」と述懐されているが、お寺で聞いた教えが本当の意味で身に響いてくるのは、生活現場、つまり関係性のなかからである。そのことをこの上ない説得力をもって小生に呼びかけてくださっている。去年の真夏の法話会で春秋賛先生が「聞くということはお寺で聞くということもありますが、家族の言葉に出遇っていくことも教えの内容となっていきます。教えは私たちの生活の足下にたくさんあります。在家の身でありながら、見聞することを通して、家のなかで、それが教えに展開していくのです。一度教えにうなずけば、この私に無数によびかけてくれる事柄が見えてくるのです。仏法は、学び教えられること、この一点です。それが我が身を通してうなずくということです。日常の人間のドロドロした声を聞くということが大切なのです。仏法を頭で理解することもある意味大事ですが、頭で受けたことを、我が身を通してうなずきがおこるかどうか、これがないと真実の仏法にはなりません」とおっしゃった言葉が同時によみがえってきた。

さて、法話には三連休の最後の日という集まりにくい日にも関わらず、多くの方が聞法に来てくださった。真宗連合会が小生にあげてくださった法話の候補日はことごとく都合が悪く、結局小生の都合のいい19日にしていただいた。美馬さんは「この地域一帯には新聞のなかにチラシを入れて配布し、また個人的にも色々な人に声をかけたのですが、連休最後の日なので果たしてどこくらい集まってくれるか…」とおっしゃっていたが、結果は予想より多くの人が集まった。これも共に教えを聞こうじゃないかという美馬さんをはじめとしたスタッフの情熱の証だと感じ、また鈴木章子さんと助田茂蔵さんに後押しされるように法話をさせていただいたのだった。場のはたらきが小生をつつんでいた。今回は学ぶことばかりであった。

「一宗の繁昌と申すは、人の多くあつまり、威の大なる事にてはなく候う。一人なりとも、人の、信を取るが、一宗の繁昌に候う」という蓮如上人のお言葉がある。人数が問題なのではなく、信を取るということが大切であると、その通りである。しかし、我々僧侶がこのことを言い訳、自己正当化の道具と使っていないだろうか。数が問題なのではない。しかし人を集める努力もしないで、人数は問題ではないなどと読んではならないと思う。自分が喜んだ教えを多くの人に聞いてもらいたいと願うなら、その場に参加してもらうよう呼びかけるものだ。その結果の多い少ないは問題ではない。後は集まった人々が信を取るかどうかがその人たちの課題なのだ。とにかく「縁」作りは大切ではないか。そのことを忘れ、人が多く集まることではないということを自己正当化に使うから僧侶が信用されないのである。現代は「生きづらさ」を感じる人であふれている。その人々共に聞くことでまた新たに教えられるのだ。斜里郡という過疎の地域に、これだけの情熱とそこに集う人がいらっしゃることでなにか勇気をもらった。

法話も無事終わり、美馬さんと本願寺派の林さんと居酒屋でいっぱいやった。地元の北の居酒屋、地元の人の生の声が聞こえる。北海道の刺身と珍味、そしてコップ酒、日本酒が実にうまい。気分がいいから尚更うまい。ほろ酔い気分になりホテルまで送っていただいた。

翌日、美馬さんに網走国定公園を案内していただいた。ここの自然も雄大だった。昨日より霧がはれたので、遠くまでみることができた。知床半島とオホーツク海もしっかり見えた。自然に教えられ、鹿や熊に教えられ、人々の交流のなかから教えられ、教えられ三昧の法話の旅であった。

〔2010年7月27日公開〕