2月23日(火)〜26日(金) お墓掃除のおばさんの家族・親族葬儀 ─焼香中心の葬儀を問う─

ご本尊の前にご遺体を安置
枕勤め
通夜・葬儀の荘厳
通夜勤行
通夜の法話
葬儀後のお別れ
出棺
還骨勤行での焼香
還骨勤行後の法話

今年に入り、蓮光寺に尽力された元役員の方々が立て続けに3名還浄された。1月3日は、元世話人で5年前の御修復の時の尽力された吉田ふさ子さん(法名:釋尼蓮誓、寿算82歳)。1月30日は20年にわたって責任役員、総代を勤めてくださった太田保敬さん(法名:釋敬順、寿算86歳)。ちなみに保敬さんのご祖父にあたる太田徳九郎氏は、蓮光寺再建のため太田家が所有する亀有の広大な土地を寄進くださり、1928(昭和3)年、小生の3代前にあたる蓮光寺第14世本多春学(法名:釋春学)は、新しい土地で親鸞聖人の教えを伝えようと決心し、清島町(現在の東上野)より亀有の地に移ることができたのである。そして、小生が50歳を迎えた2月23日、元世話人で“お墓掃除のおばさん”とご門徒から慕われていた飯塚初枝さん(法名:釋尼初浄、寿算91歳)が還浄。3名ともに蓮光寺で葬儀を執り行った。

飯塚さんの場合、近所にも直接の知り合いが少なくなってきたということもあり、いわゆる“家族・親族葬”で勤めた。といっても、近所の方々なども10名ほどお参りに来てくださり、役員を代表して責任役員や総代も参詣した。最近、お寺での家族・親族葬が増えている。ただ、きちんと内容のある仏事として勤めるならば大いに賛成できるが、経費節減とか、関係を無視して合理的にやろうという“やれやれ葬儀”は絶対に反対である。飯塚さんの場合、もちろん前者である。家族・親族葬儀をお寺で勤める場合には、大きく分けると次の二つの勤め方がある。

  • (1) 枕勤め(自宅、寺院、葬儀社など) → 葬儀(寺院) → 火葬場 → 還骨勤行(寺院)
  • (2) 枕勤め(自宅、寺院、葬儀社など) → 通夜(寺院) → 葬儀(寺院) → 火葬場 → 還骨勤行(寺院)

(1) の場合であるが、昔は通夜の勤行はなく、亡くなってから枕勤めを行い、夜通し起きていて蝋燭の火を灯し(だから通夜という)、次の日に葬儀を行って土葬したという勤め方を現代的な形にしたものだ。 (2) はやはり通夜も勤めたいという場合である。

還骨勤行という名前は世間一般にはほとんど知られていない。世間では繰り上げ初七日と言っている。初七日は当然初七日に勤めるものだが、東京近郊では亡くなって数日たって通夜葬儀というパターンが多いし(時には火葬場の関係で初七日を過ぎてしまっての葬儀ということもある)、初七日に集まるのが難しいということもあって、葬儀後の繰上げ初七日という言い方が生まれたのであろうが、正しくは還骨勤行である。ただ現代の状況から、小生は還骨および繰り上げ初七日という言い方をしているが、還骨ということがなかなか伝わらない。

ところで最近、葬儀中に初七日勤行を行って2度焼香をする場合があるらしい。らしいというのは、小生は絶対に葬儀中に初七日勤行などを行わないからだ。どう考えてもおかしいからである。儀式というのはきちんとした意味があって組み立てられている。もちろん現代の諸状況もあるから、多少の変化は甘受しても、葬儀中の初七日勤行は納得できるものではない。小生は必ず、還骨勤行とともに勤めている。時代状況はあろうが、単に時流に流されることなく勤めていきたい。

さて、飯塚さんは (2) の勤め方で執り行った。飯塚さんは23日の夜遅くに還浄された。翌朝、ご本人の希望通り、ご遺体を蓮光寺に安置し、近親者で枕勤めを行った。

阿弥陀さんに恩返しをしたいと真心こめて境内の隅々まで掃除し続けた飯塚さんが、お寺で静かに安置されている。その顔は、本当に生きた、生き抜いた顔だった。遺族にとって、亡くなってから通夜までというのは、死を受け入れ、また自分も死すべき身として、亡き人のことを自分のこととして考える大切な時間である。そういう意味では通夜葬儀以上に枕勤めは大切なようにも思える。

最近、葬儀社の冷凍庫に預ける人たちが多くなっている。もちろん住宅事情やその他の理由から、そうせざるを得ない場合は仕方がないにしても、そうでない場合、安易に冷凍庫に預けるのはどうなのだろうか。なぜなら死を受け止める時間がないからだ。悪く言えば死を隠蔽してはいないだろうか。生まれるのも病院、死ぬのも病院、死んだら冷凍庫、場合によっては火葬場に直葬。いのちが見えない時代になってしまった。そこをどう呼びかけていくかが我々僧侶の責任ではないか。

話をもとに戻そう。25日がお通夜であった。飯塚さんが日ごろから親しんでいた「正信偈・同朋奉讃」を勤めようと、長男さんと話し合った。飯塚さんの親戚のほとんどが蓮光寺門徒ということもあって、同朋唱和中心の勤行形式をとった。

問題はお焼香である。お焼香は勤行が終わってからがベターだが、一般会葬者もいらっしゃることもあり、『阿弥陀経』読経中に焼香をしてもらった。『阿弥陀経』『短念仏』が終わっても、焼香はまだ終わっていなかったので、焼香が終わるまで静かに待った。静寂のなかで焼香が続けられる。なかなかいいものだ。世間ではお経が焼香のBGMのように思われている節があるがとんでもないことだ。お経は教えが書かれているのだ! 大切な方の死という悲しい現実を前に、亡くなった人を偲びつつ、自分自身も死すべき身としてどう生きるかをお経(教え)に尋ねていくのであって、お焼香のBGMであるわけないじゃないか。枕経、通夜、葬儀、還骨すべて、自分を見つめる時間を作ってくださった亡き人の最後の最大のプレゼントではないか。そのプレゼントを開けて、悲しみの中から自分の生を全うしていく意欲をいただくのである。そこに明るみがあるのである。

静寂の中、待つ事10分、焼香が終わった。そして「正信偈・同朋奉讃」を全員で唱和した。その音色は本堂に響きわたった。お棺の中で休まれている飯塚さんの手には念珠がかけられているとともに、「正信偈・同朋奉讃」の勤行本がしっかりにぎられている。何とも言えない教えの空間であった。

勤行が終わり、法話。死を受け止めるとはどういうことかということを中心に話した。涙を流しながら聞いてくださる方々が大勢いらっしゃった。生老病死、生まれてくる苦しみ、死んでいく苦しみが、「生まれてきてよかった、生きてきてよかった」とどこでうなずくか。どんな生き方をしようともその身を生きる一人ひとりが尊いではないか。一人ひとりが亡き人を偲びつつ、我が身をふり返ってくださった。

焼香中心の法要ではなく、お経をいただくことが中心となる法要が本来の法要の姿である。飯塚さんが聞法者であり、親族のほとんどが蓮光寺門徒ということもあってできたことかもしれないが、今後もすべてのご門徒の通夜葬儀に対して、読経中の焼香はさけられなくても、教えが核になるような法要を勤めていきたい。

26日の葬儀も同朋唱和を取り入れた。天気は曇りから雨になった。暖かい日が続いたが、晴れの日もあり、曇りの日もあり、雨の日もあり、まさに飯塚さんの波乱万丈の人生そのものを物語っていた。雨もまた飯塚さんのプレゼントだと思った。晴ればかりを追いかけて生きているが、かならず雨に出くわす。雨も私の大切な人生、雨もまたよしと雨の中を堂々と歩いて生きて欲しいと仏としての飯塚さんの呼びかけだったのではないか。老病死、老いる身、病む身、死すべき身、その身もまたよし。その身の事実そのものが尊い。

こううなずけるのは、親鸞聖人が明らかにしてくださった「浄土真宗」、浄土を真のよりどころとして生きることが救いだというよびかけを聞かせていただいく他あるまい。そして、安心して迷って堂々と生きていこうではないか。飯塚さん、本当にありがとう。

※ 写真はご遺族の許可を得て掲載しています。

〔2010年2月27日公開〕