10月13日(火)〜14日(水) 北海道大谷学園宗教科担当者研究協議会に出講

東本願寺北海道青少年研修センター
研修センターに隣接する本堂
小生の講義
懇親会
研究協議会
研究協議会
閉校式 挨拶する木村事務局長・稚内大谷理事

先週に引き続き、またまた札幌に出張した。今回は北海道大谷学園宗教科担当者研究協議会の講師として出講した。会場は藻岩山の麓にある東本願寺北海道青少年研修センター。参加したのは、函館大谷、札幌大谷、帯広大谷、稚内大谷、室蘭大谷、登別大谷の宗教科担当の教師、そして学校長、学事教務委員長、学園連合会理事長、連合会事務局長など総勢19名。

1泊2日で行われ、初日は、開講式・オリエンテーションに続き、小生の講義(2時間)、勤行・感話、夕食後に班別座談会(2時間)、続いて懇親会。2日目は晨朝・感話、朝食後に研究協議会(2時間)、閉校式という日程であった。

当初、教員の研修会に小生が出講するのは場違いであると判断し、固辞していたが、事務局の誠意に負けて最終的に承諾した。おそらく小生が高校の社会科の教員をしていたこともあって、ご依頼されたのであろう。小生自身、宗教教育について関心もあるし、何か学んで帰りたいと気持ちを切り替えて臨んだ。とはいっても宗教教育の現場は知らないし、教師がどんなことを課題に取り組んでいるかさっぱりわからないので、事前にレポートを提出してもらった。実際はレポートぐらいで教員の課題とか苦労が見えるわけではないが、多少なりとも講義するさいの手がかりにはなった。

事前にテーマをつけてほしいということだったので、レポートを読んだ結果、「生徒に言っていることと同じように、愛する人に言うことができますか」というテーマを提出した。本当は「あなたにとって仏教とは? 真宗とは?」にしようと思ったのだが、実に観念的になりやすいので、もっとリアルに呼びかけたほうがいいと考えて、こんなテーマになった。

このテーマを見て、理事長や事務局長など一様に驚いた様子で、専制パンチをくらったようだと話されていた。このテーマから、いつも自分自身が求道していること、そのことを通して宗教用語を解体し、自分の言葉で教えを語ること、そして宗教科の授業そのものが自分の生活そのものとなっているかどうかということが問われているといっていい。キーワードは「苦悩」。知的理解ではけっして救われない。要は苦悩を通して教えに出遇うこと。苦悩の身に教えは響き、生活のなかで教えが息づくということの大切さを語った。これらを根本におかないと授業のための教材研究でしかなく、それでは宗教科の授業とはならない。教師の求道姿勢に生徒は感応する。これは僧侶とて同じである。お寺の聞法会がしらけている場合、まず僧侶が求めていないということがある。聞法そのものでないことでご門徒にサービスして、ご門徒を“お客さん”にしている僧侶がいる。こういう僧侶の姿勢を実によくご門徒は見ていて、なんとも恥ずかしいことだ。聞法していない僧侶はけっして信頼されることなく、ご門徒もついてこない。教えを聞く住職や坊守がいるお寺は、場が開かれていて、自然とご門徒自身も聞法に入り込んでいく。宗教科の教師も僧侶もまず悩んでいること、そして教えに尋ねていくことが何よりも基本である。教育は自己教育に極まるのではないか。

講義についてもう少しふれると、人間はただ苦悩しているのではなく、苦悩と同様に深い願いを持っていること。この願いを見失っている人間に深い願いに目覚めさせるのが本願の教えであること。もっと言えば、如来の本願は我々の深い願い(本願)を言い当て、深い願いに目覚め、その願いに生きんとするはたらきであることを様々な事例を出して述べた。これは「現象と本質」の問題として語ることが出来る。現象としては現代の価値観(例えば経済原理)に振り回されているが、本質では、どんな自分でも受け止めて生き抜いていけるような立脚地を求めているのではないか。深い願いを引き出していける授業、そのことが月日を超えて、生徒たちに響いてくることがある。何はともあれ、まず教師が悩み、教えに尋ねること。その教師の背中を見て、生徒が何かを感ずるのである。教育はどこまでも自己教育である。

小生の分限ではないと言いつつ、教壇に立ってチョークを持つと血が騒いだというか、如来に後押しされて、様々な問題提起を次々にしてしまった。東京からわざわざ来たのだから、モジモジして帰っても何もなるまい。これがよかったのか、悪かったのか、班別座談会は盛り上がり様々な意見がとびかってよかった。懇親会でも、疑問点をぶつけ合いよく語り合うことが出来た。やはり参加された教師は自分の場に対する責任をしっかりもっているからこそ、教育現場を離れた小生に対して様々な意見をぶつけられたのだと思う。小生自身大変勉強になり、教えられた。

一番印象に残ったのは、とても若々しいS先生。小生の「希望の持てない時代、努力しても報われない時代」とか「夢を見ない、絶望しない」という発言に納得いかず、ずっと食い下がってきた。S先生は、夢と希望を持って全力を注いでいる。それが否定されたように聞こえたらしい。彼とはずっと話し、翌日の協議会でも「努力」についての問題が出され、「天命に安んじて人事を尽くす」という清沢満之の言葉を紹介し、自己を尽くすことのできる立脚地をもってこそ、本当の努力ができることを伝えた。日程終了後、S先生はわざわざ小生のところに来て深々と頭をさげられた。高校野球のゲームセットの瞬間のようで、実にすがすがしかった。こんな気持ちで東京に帰れるなんて予想もしていなかった。

東京には大谷派の学校が一つもない。非人間化した最たる大都市東京にこそ、親鸞の教えを建学の精神とする学校が必要ではないか。非人間化した環境のなかに、本当の深い願いを見出す環境をどう持つことができるか。グローバル化された社会に投げ出される子どもたちにぜひ親鸞の教えをお伝えしたい。すでに大谷派の学校がある地域では、学校と教区(寺院)がもっと連携し、協力関係を密にしていくことも大切であろう。親鸞の教えはまさしく時機相応である。なぜなら誰もが浄土を求めているからである。そしてそれを見失っているからである。

1週間前とちがって、札幌は急激に寒くなった。街の木々は紅葉が進み、まもなく厳しい冬が来る。こうして、いつの間にか今年も終わってしまうのだろうか…。色々感慨深かった。

〔2009年10月20日公開〕