9月9日(水) 「東本願寺と環境を考えるつどい」 at 枳殻邸

今森光彦氏
内藤正明氏
本多雅人(小生です)
鼎談


懇親会

京都の東本願寺の枳殻邸で「東本願寺と環境を考えるつどい」が開催された。

このつどいは「東本願寺と環境を考える市民プロジェクト」が発足し、まもなく6年が経過しようとする中において、活動内容の総括に加え、今後の持続的取り組みを進める上で、環境問題を引き起こす人間存在に視点をあて、取り組みの願いとなるものの明確化をはかりたいということから、「環境問題は想像力の問題 ─想像力の欠如した人間の在り方をめぐって─」をテーマとして、今森光彦氏(写真家)、内藤正明氏(京都大学名誉教授、「京都アジェンダ21フォ−ラム」代表)と小生(仏教者としてということだろう)で鼎談を行った。参加者は市民フォーラムの人たちと東本願寺スタッフを核とした35名に限定して行われた。市民フォ−ラムの皆さんはそれぞれNPO法人等で活動している人たちばかりで、実にディープなつどいであった。

東本願寺担当者の趣旨説明の後、鼎談の3名からのレポートを御遠忌本部事務室の女性スタッフが朗読し、それに3者が少し補足説明を行った。これでだいたいの話し合う雰囲気が出来上がり、鼎談がはじまった。小生は進行役も兼ねたので大変しんどかったが何とか大役をこなした。このつどいはどうやら書籍化されるようで、詳しくは書籍になったら読んでほしいと思うが、鼎談の内容について少しだけ公開してみたいと思う。

今森氏は、身近にある自然と、そこに生きる人との関わりを「里山」という空間概念、共生空間として追い、自然と動物の関係性、生命の循環性まで表現しようと写真を撮り続けている。人と動植物との生活の場が混在していて、外から見えにくいいのちの部分を体感できるのが里山であり、昔からあった自然のなかで、人が暮らしを営み、人と生きものが共存していけるような環境を作り出していて、そんなかけがえのない関係性が里山にはあふれているという。

里山の自然は生態系としての自然であり、虫などの小さないのちが周囲の景色とつながっている生きた自然である。昆虫少年の殺生は、もちろん殺生がいいとは言えないが、大人になっていのちの尊さを知る。むしろそういうことに接していないと、何も知らずに育ってしまう。トンボをとって死なせたとしても、その死から子どもは色々なことを学ぶ。最近、単に「生きものを殺してはいけない」と表面的に語る人が多い。それにはまちがった潔癖さみたいなものがある。そのいのちが他の生きものや自然とどう共存しているかといういのち全体の循環まで見ないと、本当のいのちの尊さはわからないと言われた。「今、いのちがあなたを生きている」と言う言葉に共感するのはその部分で、虫から教えられた言葉であると言われた。自分自身が生態系の網の目の点になることによって、外から見ていたものが、内側から見る視点に変わる。つまり、生態系の中に入ることの意味や、動物も植物も人も共に生きているということが実感できるという。生きものと関わっていくことは、それぞれの種の多様性を知ることだから、環境の多様性を知ることと同じである。生きものを知ることで、環境の多様性を知っていくこと。そこに生きているいのちから学ばないと、見せかけだけの理解になってしまうと提言された。

環境問題は人間、そしていのちの問題であり、環境とは人間の生き方につながっている。今の社会は合理的でゆとりがない。そこから変えていかねばならない。今まで利便性を追求して都市化してきた。都市化によって豊かになったのではなく、実はすごくやせ細ってしまったが、本当の関係を取り戻し、本当に豊かに生きるためには里山の中に身をおいてみることだと力説された。

内藤氏は、「世界は有限」であるという世界観の下での、節度ある生き方へ価値観の転換が不可避であり、このような世界観への転換は、倫理観という行動原理の大きな変革を要求し、その結果として産業や経済から文化まで社会のあらゆる側面の大転換が必要で、その変革のプロセスと人類持続を可能にする社会の将来像を描くことが、いま我々に課された最大の課題であると述べられた。仏教・アニミズムの世界観では、「人は自然の一部」として自らが生きる規範を、生物・生態系の法則の中に見出だしてきた。地球環境危機の克服は、無限拡大による「一過型システム」とそれを支える「競争原理」から、節度ある「循環型システム」とそれを支える「共生原理」への転換にある。これまでの近代工業文明と物理法則に依拠する科学と技術の力を信じて、無限発展を指向する立場では持続可能な社会を構築することは不可能であり、限られた世界の中で“人は生物の一種”であることを受け入れて、生態学的法則に従って循環共生社会を再構築することが大切ではないか。つまり、大規模工業と都市化こそが問題の大きな根元であり、持続可能社会は技術依存では実現しない。自然生態系に基盤を置く農山村こそがその可能な場であり、その上でもう一度技術や産業のあり方、それを支える社会経済の仕組み、さらに人はいかに生きるべきか、にまで遡って、真の自然共生による新たな社会の在り方を模索することが必要で自然の力に依存する技術が求められていると力説された。

また、今日の工業先進国では、あらゆる技術とその製品に囲まれている為に、自分の暮らしが誰かに支えられているという感覚は生まれる余地がない。スーパーの棚で何でも手に入り、蛇口をひねれば水が出てくるという状況で、自然の恵みを実感することが難しいだけでなく、他者の恩恵を思う意識もないことを危惧された。他者の力や自然の恵みに代わって必要になったのは「お金」である。お金さえ持っていれば、あらゆるものが手に入る状態では、感謝や畏敬などという心はもはや必要としないことになる。そして、このような技術に大きく支えられて育った人間が、人と力をあわせること、我慢することなどもできないと、経済至上主義が人間の心まで破壊した現実と、人工的なものしか信じられなくなってしまった人間が、どう豊かさを回復していくかという問題提起をされた。人間は自然の生態系からはなれて生きることはできない。自然の恩恵を受けずに生存できると錯覚していないか、便利か不便か以外に、別の豊かさの側面を見つけていくことが求められていると言及された。

小生は、今森、内藤両氏のお考えに即しながら、仏教、ことに親鸞が明らかにした真宗の教えをいただいている我々が、どう環境問題に応えていくかということについて述べた。人間の在り方を問い直し、自他ともに真に生きるということが仏教の視座であるから、環境問題に対して仏教が大きく貢献できるとまず応えた。近代の人間中心の合理的なものの考え方によって科学技術は進歩し、豊かな生活を享受したかに見えたが、その結果としてもたらされたものは、人間と自然との分断、そして人間と人間との分断であった。関係性を失い孤立しているのが現代の我々の姿である。現代は経済至上主義と、それを打破し持続可能な社会を目指す流れとがぶつかり合う過渡期的な段階にあると思われるが、このままいけば、人類は滅びるしかない状況の中で、残された唯一の道は、人間の在り方を深く見つめ、歴史の方向転換をすること、つまり、人間の自我中心主義の生き方が問い直され、自然との共存、人間と人間、そして社会との共存を模索していくことが大きな課題であると述べた。仏教は、すべてがあらゆる縁によって成り立ち、関係しながら支えあって存在していることを明らかにしている。

環境問題は複雑である。自然破壊だけでなく人間までも破壊していってしまった。しかし、それは人間がつくりだしたものである。まず人間をとりもどす作業そのものが環境問題解決の最も根本課題である。経済原理にふりまわされている在り方にそまっていても、心の奥底にあるかすかな声、本当に願っていることを見出だすことが出来るかどうかにある。今まさに経済的価値で豊かに生きると思っていた人間が問い返されている。人間中心の合理的なあり方を照らす眼を持たず、人間が無限に何でも浪費できると思い込んでいる、その愚かさ(凡夫)に一人ひとりが気づき、自分自身のあり方を悲しみ、痛むことの中で、具体的な生活改善をしていくことが願われているのではないだろうか。

また、環境問題にとりくんでいる人が善になっていくような方向には気をつけねばならない。大量生産を支えてきたのはまさしく消費者たる我々である。産業側に従事する人たちが逆に差別を受けてしまっては、凡夫ということに無自覚な社会であると言わねばならない(ここで阿闍世が立ち直ったのも釈尊の言葉、つまり同じ凡夫であるという人間平等の大地に立ったことにあることを例に出した)。生活状況が違うだけで同じ凡夫たる人間。環境問題に取り組んでいる一人ひとりの中に、自分が凡夫であるということを自覚していくことが大切で、善人根性がすべての関係を台無しにしていくことを指摘した。そういう罪深い存在として人間を「罪悪深重の凡夫」とおさたのが親鸞聖人である。そのことをなかなか受け入れられず、常に自我に左右されるのが人間である。その人間の姿を照らし出すのが親鸞聖人の明らかにした教えである。

自然ということに関連して凡夫を考えてみると、多くの人は自然のなかに身をおくと心が洗われたりするものだ。小生で言えば「なんと自分は小さな殻にとじこもって生きているのか」とか「つまらないことにとらわれているな」ということを自然やそこに生存している生きものを見て思うのだ。それは自然環境によって、やんわりと自分の在り方が否定されているのである。つまり凡夫だと自覚する瞬間ではないか。そういう自分のあり方に気づいたときには何か生きる意欲を持つものである。自然という環境がこの私の人生に潤いを与えてくれるのである。人間存在の深い罪業性への悲しみと痛みこそが、自分をよしとし他を非とする在り方を破って、一切のいのちあるものと共感する地平を開くものであろう。地球規模の問題に関わる時に善人根性がつながりを絶っていく。あらゆる人間が凡夫と言う地平に立って一つひとつ歩んでいくことが肝要である。つまり、凡夫の自覚を持つことによってはじめて環境問題が人間存在の根底に関わる問題として向き合うことができるのではないか。「愚かな凡夫」と自覚して生きること、つまり悲しみ・痛みを伴った生き方があたえられると、自覚する以前の生きざまとはまったくちがう内容をもってくる。凡夫ということは頭で理解するものでないから、このことはゆっくり語り合いながら共有していくので時間を要する作業である。

それから、人間が人間として生きていく上での環境(場)のはたらきの大切さを説いたのが浄土の教えである。つまり、人間が生きる上でどんな環境を持つかが大きな課題である。経済価値でしか人間を評価しない現代社会環境から人間を回復していくことはできない。そこに一人ひとりの人間のあり方を照らし、人間のかけがえのなさ、尊さに気付いていくために浄土という環境を与える。あたかも浄土という場所を与えるが如く人間一人ひとりに呼びかけるのは、仏(目覚めた人)に成るための環境を与えるためである。浄土とは人間を目覚ますはたらきをもつ世界である。その環境によって、人間は苦悩の人生を逃げずに積極的に尽くしていく成仏への方向性と具体的歩みが与えられる。環境問題を考える時、人間が利用できる範囲は利用するという人間側の利己的な発想ではなく、人間が人間として潤いのある生き方を環境からいただいていく、つまり環境という「場のはたらき」から本当の自己が見出だされてくるような、豊かな人間性が引き出されてくる。浄土という環境は人間を目覚ますはたらきであるから人間を見つめる眼であり、批判原理といえる。

もう一点、持続可能な社会を目指す上で、最近は「バックキャスティング」という方法がとられているらしい。望ましい持続可能な社会像をまず描き、その未来からの要請を実現していく生き方をするのである。つまり、持続可能な社会から照らされるということは、当然、今の人間のあり方が問われる、否定されることに他ならない。こうした方法は、親鸞の仏道と類似している。つまり、自分から目標を立てて仏に成る世界を目指していくという手段としてではなく、迷っている自分が、未来の仏に成る世界、つまり人間を目覚まし続ける浄土という世界から、この自分のあり方が照らされる。人間からの発想は、人間の都合に合わないものは切って捨てていく。今までもそうであり、これからもそうなる。これでは当然のことながら生態系を守れない、無視してしまう。人間が浄土から照らされることによって、欲しいものは何でもつかもうとする功利心が砕かれ、本当に必要なものと不必要なものと知らされる。だから死んでから浄土に行くのではなくて、今、ここに浄土の功徳をいただいて苦悩の現実を引き受けて生きることこそに救いがあるというのである。仏に成りつつある歩みが仏道の証明であるように、持続可能な社会が今を照らして、真に必要なものと不必要なもの、例えば虚栄心による無駄を峻別し、そういう社会実現への歩みをさせていただく方法をとったということは、仏教と深い接点を持っていて、大いに語り合える部分であると述べた。

鼎談では、環境の大切さ、人間を否定してくる眼、向こうからの眼差しなどについて、それぞれの分野を通して語り合った。親鸞の仏道の視点が、様々な分野の専門家にも共感をいただけることをうれしく思った。今森氏は、以前から東本願寺との関係を持っていたこともあるが、いよいよ親鸞の教えが大切な時代になってきたことを深く感じられたようだ。内藤氏は、科学においてバックキャスティングという試みははじめてであり、科学者も整理できていないところだが、小生の話から、親鸞の視点に深く関心を寄せられた。お二人と話していて、場(他者)との関係を通して本当の自己が見出だされること、そして死と向かい合うことの大切さもあらためて感じることが出来て生きる力をいただいた。親鸞の教えは聞法を通じて気づかせていただくものであるから、はたしてこういう形で市民グループの皆さんにどれだけ伝わったか心配であったが、皆さんはいよいよ東本願寺に期待したいとおっしゃっていた。それは東本願寺という場への信頼からであった。こういうひとつになった雰囲気のなかで、環境問題を解決しなければならないという義務感を超えて、解決せずにはおれないという空気が流れていた。そしてその根本は人間の在り方を照らし続ける眼を持つことであることが、今回のつどいの共通認識となった。

この6年、東本願寺は、環境問題に対して草の根的に歩んできた。親鸞教学をふりかざし、親鸞を絶対化して、環境問題を語ったこともあった。そういう語りは自己正当化にすぎず世間からも宗門内でも相手にされなかった。でも今はちがう。東本願寺御修復では、省エネルギーに配慮して、自然エネルギーを積極的に活用し、雨水貯留タンクや太陽光パネルを設置したり、瓦の再利用を積極的に進めた。そして東本願寺にいらっしゃる人々と「今の私たちに何ができるか」を学ぶ場を開いてきた。また市民グループとも学び合い、お堀探検を通して人間の相(すがた)を見つめ直したり、枳殻邸でのフィールドワークを通して、自然とそこに生きる生きもののなかで様々なことを学んできた。まさに、自然の場、人と人とのまじわりの場を通して、深い本当の人間の願いを見出だし続けた。その歩みのなかでの今回のつどいが開催されたのだ。

これからのお寺についても少しヒントをもらった。小生はお寺を一度否定して、あらためてお寺の存在意義を考えることを大切にしているが、このつどいを通して“里山としてのお寺創り”をテーマにしていきたいと思った。人工のものしか信用せず、関係性を失い孤立した私を含めた現代人に環境としての里山(それは浄土といってもいいだろう)、そういう里山的寺院にふれていただき続けるお寺でありたい続けたい。

つどいの最後は懇親会。夜10時まで語り合いが続いた。まさに「場のはたらき」が関係を開いた姿であった。

〔2009年9月15日公開〕