7月21日(火) 姿を現した「御影堂」の勇姿

御遠忌事務所での「東本願寺と環境を考える市民プロジェクト」の会合に出席した。その会合に出席する前に、もう一つ楽しみにしていることがあった。16日に、素屋根スライドセレモニーが執り行われ、御影堂を覆っている素屋根が阿弥陀堂に移された。つまり、修復が完了した御影堂の勇姿を見ることができるからだ。見事に修復された御影堂の勇姿に圧倒された。といっても、世界一の木造建築に圧倒されたのではない。そこには多くのご門徒の喜びと悲しみすべてを背負った、本願の歴史そのものが現出されていると感じたからだ。

本山の参詣者へのメッセージには次のようなことが書かれている。

東本願寺は、浄土真宗「真宗大谷派」の本山で「真宗本廟」といい、御影堂には宗祖・親鸞聖人の御真影を、阿弥陀堂にはご本尊の阿弥陀如来を安置しています。

真宗本廟は、親鸞聖人があきらかにされた本願念仏の教えに出遇い、それに依って人として生きる意味を見い出し、同朋(とも)の交わりを開く帰依処・根本道場として、聖人亡き後、今日にいたるまで、数限りない人々によって相続されてきました。

親鸞聖人は、師・法然上人との出遇いをとおして、「生死出ずべきみち」(生死の問題をのりこえる道)は、「往生極楽のみち」(念仏の道)として見い出されました。

それは、人として生きる意味を見失い、また生きる意欲をもなくしている人に、生きることの真の意味を見い出すことのできる依り処を、南無阿弥陀仏、すなわち本願念仏の道として見い出されたのです。

だからこそ、それは人々にとって大いなる光(信心の智慧)となったのでした。そして同じようにその道を求め、また歩もうとする人々を、聖人は「御同朋御同行」として尊敬し共に歩まれていったのです。

心静かにご参拝いただき、親鸞聖人があきらかにされた浄土真宗の教えに耳を傾け、お一人お一人の生き方の有り様を教えに問い尋ねてくださることを念願いたします。

「往生極楽」ではなく「往生浄土」あるいは「願生浄土」と書き換えてもらいたいところだが、それはそれとして、ここにも書かれている通り「聖人亡き後、今日にいたるまで、数限りない人々によって相続されて」きたのである。しかしながら、混迷を極める現代において、本当に現代と向き合い、親鸞聖人の教えを発信し続ける宗門になっているだろうか。宗門といった場合、けっして自分をはずしてはならない。つまり、自分の寺はどうなっているだろうか、もっと言えば、自分自身が教えを正受し喜ぶ身とさせていただいているかが問われているのである。東西本願寺合わせれば、末寺寺院は2万ケ寺を超えている。その一ケ寺、一ケ寺が教えの場を開き、共に聞法する喜びを分かち合っていくことが一番大きな課題ではなかろうか。御影堂に手を合わせながらそんなことを感じた。

そんな気持ちをいだきながら会議に臨んだ。会議では、9月に枳殻邸で開かれる「東本願寺と環境を考えるつどい」の内容を検討したが、市民の皆さんが加わった会議はとても新鮮、かつ緊張感と信頼感があった。懇親会も行われ、はじめて会った方々とも楽しい交流ができた。果たして9月の集いの大役を小生が勤められるか、とても不安でありながら、こういう人たちとふれあっていける喜びを強く感じた。市民と共に歩む姿勢こそ、宗門の、寺院の大切なあり方だと思う。

御影堂にしみ込んだ本願の歴史に励まされ、市民プロジェクトの皆さんに励まされながら、何かとても大きな勇気をもらった。

〔2009年7月26日公開〕