6月22日(月) 詩人・藤川幸之助さんを訪ねて

藤川幸之助さん 真剣な対談の様子
相棒の片山君。長崎教会で
原爆により崩れ落ちた浦上天主堂の鐘楼
長崎は今日も雨だった

宗門関係の仕事で長崎に向かった。先週は北海道で法話、先々週は伝道講習会の道場長として群馬沢渡、今週は長崎と遠征続きである。目的は同朋新聞の取材で、詩人で児童文学作家の藤川幸之助さんにインタビューするためだ。

飛行機が、悪天候のため長崎空港になかなか着陸できず旋回したため30分以上も遅刻したにも関わらず、長崎駅で藤川さんはにこやかに迎えてくださった。そして藤川さん宅に向かう前に、新しくできた「めがみ大橋」(だったと思う⋯)に案内してくれた。そこから長崎が一望できる。長崎は今日も雨だった⋯。山と海に囲まれた長崎の景色はすばらしかったが、雨で霧がかかっていたのはちょっと残念だった。日本の三大夜景の一つでもある長崎、天気のよい時にまたここに来てみたい。

さて、藤川さんと小生はほぼ同世代であり、様々な共通点もあって、話が弾み、インタビューというより、対談という感じで進んでいった。その模様は同朋新聞10月号と11月号に掲載予定なので、そこでじっくり読んでいただきたい。

藤川さんは4年前に妻の明子さんを乳癌で失くした。また20年以上も認知症の母を看ている。そんな生活の中から表現される詩は様々な問いかけを小生自身に与えてくれるのだ。妻の壮絶なまでの死と向かい合うことで、藤川さんは自分のあり方、生き方が見えてきたと言っている。

つまり、妻、そして母との関係が藤川さん自身の人間性を引き出してくれたのだ。自己は他者を通して見出されることをあらためて学ばせてもらった。

藤川さんは、それまでの「死」を「生」の埒外に追いやって生きていたあり方から、「死」を受け止めて生きる生き方への転換により様々なものが見えてきた。妻の姿を見ていて、どんなつらい時でも人を思いやることができることを知り、支えていたはずの自分が支えられていたことにも気づかされた。藤川さんははじめから母に献身的ではなかった。やはり母を受け入れられず、愚痴も年中こぼしていたし、今も愚痴を言うこともある。しかし妻の死が、母への介護にも大きな転換をもたらした。「母の死を私の死として見つめる 私の死を母の死として見つめる」「母に生かされ、ささえられ、うめあって生きている」「点としての死ではなく、死を内在している母と一緒に生きていく」というところまで藤川さん自身の生き方が深められていった。客観的に見れば、こんなに苦悩に満ちているのに、どうしてこんな転換ができるのだろうかと思ってしまうものだが、そうではなくて自分自身のあり方が見えてくるというのは思いもしない切り口からおこってくるものだということを教えてくれるのである。藤川さんの心の奥底のある本当の願いが母によって引き出されている。現代人が見失ったものは、まさしく他者との関係のなかで生きていること、そして「死」と向かい合うということであろう。そのことを見失った現代人に共通して流れている孤立感、不安感、虚無感を藤川さんは母を通して超えていったように感じた。まさに「生死を超える」という課題である。このことこそが人間を人間にしていく唯一の道であろう。藤川さんが「そのことが他力ということなのでしょう」と言われたことが実に印象的だった。そのことに気づかされたからこそ、上記のようなことが素直に表現されているのではなかろうか。

そして小生が最も感動した言葉は「あの子は優しい子だから大丈夫」と言う母の日記の言葉である。認知症が進む中でも書き続けた母の日記のなかには必ずこの言葉が書き添えられている。この言葉が藤川さんの人生全体を支えている。人間は自分をまるごと認め、つつんでくれるものに出遇わないとけっして自分を引き受けられないのである。具体的には言葉に出遇うということではないか。その言葉は単につつむのではない。この言葉を通して、自分のあり方に慙愧する、懺悔するということが伴っていることを藤川さんに感じられる。それは他者を通して凡夫ということが自覚された時に、人生全体を背負って立ち上がっていく意欲があたえられるということに他ならない。そして、お母さまの人生全体を認めることは、藤川さんの全人生を認めることだったのだということも実感した。そこには母との関係の結び直しがある。

対談は、宗教的祈りの問題、未来ということなど実に深い話まで展開していった。祈りのない宗教はない。しかし自分が祈るのではない。「あの子は優しい子だから大丈夫」とは「南無阿弥陀仏」ということですと小生が藤川さんにお話ししたのは、母の言葉そのものが藤川さんに対する祈りだからだ。祈りも向こうからである。本願の祈りと言っていい。また、妻の死は過去のことであるが、藤川さんの未来である。奥様は藤川さんの詩に向かい合うときの大切な願いを言葉に残している。その言葉によっても藤川さんは支えられている。「前(さき)に生まれん者は後を導き、後に生まれん者は前を訪え、連続無窮にして、願わくは休止(くし)せざれしめんと欲す」ということである。つまり未来から妻が諸仏として、藤川さんを導いている。だから死んでから浄土に行くのではない。今ここに浄土のはたらき(功徳)を受けて生き抜くのである。

本人が意識している、していないに関わらず、藤川さんの歩みは仏者そのものであった。苦悩する人間とともに開かれている浄土の世界に気づかされたとき、人間は安心して迷っていけるのだろう。「支えていたはずの自分が、実は支えられていた」う〜ん実に響く言葉であった。何か文章にすると安っぽくなってしまって藤川さんに申し訳ないが、読者の方が少しでも感じていただければありがたいし、とにかく藤川さんの詩を読んでほしい。

あっという間の2時間30分が過ぎ、名残惜しさを感じつつ、藤川さん宅を後にした。出してくださった本場のカステラも美味しかった。

夜は、拙寺の門徒のH君とひさしぶり再会し、出版部の片山君と3人で食事を楽しんだ。翌日は午前中いっぱいホテルで仕事をし、午後は片山君と真宗大谷派長崎教会への表敬訪問、浦上天主堂、原爆記念館に行った。長崎教会のご門徒は小生を覚えていて暖かく歓迎してくださった。

長崎教会にも原爆による遺骨がたくさん収められている。長崎に来るとあらためて原爆の傷跡に深さを感じる。長崎に原爆が落下されたのは本当にたまたまである。小倉に落とすはずが悪天候のため、長崎に変更。ところが長崎も悪天候で引き返すことになったのだが、ちょっとした雲の切れ目ができた瞬間に原爆が落下されたのだ。一瞬の雲の切れ目と米兵の判断が多くの人々のいのちを奪った。天気がよければ小倉の人々が犠牲になった。いずれにしても多くのいのちを奪う原爆の恐ろしさは語り続けなければならない。そして戦争はいけないと言いつつも戦争をし続ける人間存在の深い罪にこそ照らされなければならないだろう。2日間の長崎は実に自分自身がえぐりだされるようであった。そして、長崎は今日も雨だった⋯。

〔2009年6月28日公開〕