4月29日(水) 暁宇忌(林暁宇師三回忌法座)に身を置く

会場となった真宗会館
池田先生の講題 池田先生の講義 会場の雰囲気

林暁宇先生の三回忌が東京の真宗会館で行われた。地方から120名、首都圏で60名のご門徒が集結した。記念品のなかに北海道のご門徒が林先生の法話のDVD5枚を参加者全員に渡されたことには感動した。林先生の法話を聞いてほしいという願いがひしひしと伝わる。林先生は今も生きていらっしゃると感じた。

暁宇忌と名づけられた法座の記念法話が池田勇諦先生であり、テーマが「往生と成仏」という大変重要な課題であることから、小生にとってこの日が実に待ち遠しかった。なぜ大きな課題かと言うと、真宗門徒のなかで「往生」と「成仏」の理解が混乱しているという事実があるからだ。混乱しているということはきちんと教えを正受していないということであるから、小生自身はどうなのかということに関わる問題として受け止めているからだ。

まず、池田先生の法話を結論的に語るならば、必至滅度の第十一願文「設我得仏 国中人天 不住定聚 必至滅度者 不取正覚」(設い我仏を得たらんに、国の中の人天、定聚に住し、必ず滅度に至らずは、正覚を取らじ)について、「必至滅度」(成仏)を証するのが「住正定聚」(往生)であるということであろう。正定聚に住することが必ず滅度に至るということであるから、「住正定聚」ということは、そこに「必至滅度」の方向が定まったということなのである。「証果」とは、どこまでも「信」(住正定聚=真実信心に立つところの利益)の証として、「信」に自証されていく「法」そのもので、「必至滅度」の法が一切衆生に回向成就された事実が「住正定聚」であると了解した。池田先生が3年前の秋安居で「住正定聚」は『信巻』に開顕する「至心信楽の願」回向成就の真実信心の開かれる世界として現生に獲得し、そこに必至せしめられる永遠の滅度の証果を第十一願の回向成就として、特に「必至滅度の願」と名づけたと語られたことを思い出したのであった。

講義のなかでのポイントをもう少しかいつまんでみると、親鸞は「往生」について、曇鸞の「無生の生」という言葉を用いている。つまり、我々が考えている生ではなく、「正覚の華より化生する」のであり、「弘誓の智海より生ず」るのである。「往生」とは主体の転換、人知から仏智への転換である。我々は往生の生活をたまわり、そしてその極まりが「成仏」ということなのである。「臨終一念の夕、大般涅槃を超証す」とは、けっして死んだ時ではなく、死んだらということでもない。今、往生の生活をたまわっているからこそ言えるのである。記念品に一周忌の池田先生の法話の冊子が入っていて、これからゆっくり読みたいと思っているが、タイトルの『死後観から死観へ』を見ても、親鸞の関心は死後観ではなく、死観であったことがはっきり頷ける。往生の生活とは、浄土の仮名人と穢土の仮名人としての反復、くり返しということである。願生の内実は得生である。生ずることを得たからこそ、生ずることを願うのであり、願生浄土の生活が仏道の姿である。また、池田先生は、曽我量深師の「往生は心にあり。成仏は身にあり」の言葉を取り上げられ、「心」とは自覚、目覚めであり、「雑行を捨てて本願に帰す」こと、「身」とは人生の方向が定まることと教えてくださった。最後に、どう生きるかという対症療法ではなく、何のために生きるか、つまりこの人生を尽くしていく真の立脚地(「土」)を持つことが人生の根本的問題であることを強調された。本願力回向と本願報酬ということについてより明らかにしていきたいという気持ちになった。

成仏を証明するのが我々の願生浄土の生活そのものというところに何か生きる意欲が与えられる。四苦八苦の人生、うれしいことも楽しいこともつらいことも悲しいことも、すべてが成仏道として極まっていく。

〔2009年4月30日公開〕