3月21日(土) 親鸞フォーラム —親鸞仏教が開く世界—

五木寛之氏の講演 シンポジウム。右から本多弘之氏、田口ランディ氏、姜尚中氏、菅原伸郎氏

東京国際フォーラムで真宗大谷派と朝日新聞の主催による「親鸞フォーラム」が開催された。 1,200人のキャパに何と 24,000人以上の人が応募したようで、入場券を獲得するには20倍の倍率であったと聞いている。小生は親鸞仏教センター嘱託研究員なので、わかりやすく言えば関係者ということで応募せず入場できた。お彼岸の最中、何とか調整して参加できたが、参加するに値する様々な問いをいただいたすばらしい内容であった。

第1部は作家の五木寛之氏が講演。テーマは「人間親鸞のすがた」。特に印象に残ったことを二、三あげてみる。

末法という自覚の大切さ、そしてそのなかで自身がまさに悪人であることの懺悔ということが救いの核心であることをピョンヤンで終戦を迎えた引揚者の一人としての体験を通して語られた。また、『歎異抄』は親鸞自筆の書物より格下だという批評もあるが、字に書いた書物より、声に出して語ることの大切さ、つまり顔と声といった身体性のなかで教えが脈々と伝わってきていることにきちんと目を向ければ、『歎異抄』はけっして格下ではなく、それどころかより大きな意義を持っていることを、仏教は「如是我聞」という伝承の歴史であること、またキリスト教においてもイエスの著作はなく、すべて弟子が聞き書きとめたものが書物になっているという事実を挙げながら語られた。そして親鸞が大切にした和讃は七五調で書かれており、これは「情」を重んじていること。「理」の面が強調されがちな親鸞にあって、親鸞は「理」と「情」の間で生きたと語った。五木さんの親鸞への眼差しは、膠着しつつある小生の親鸞への眼差しに新しい息吹をあたえてくれた。

第2部はシンポジウム。テーマは「悩む力・生きる力」。パネリストは姜尚中氏(東京大学大学院教授)、田口ランディ氏(作家)、本多弘之氏(親鸞仏教センター所長)。コーディネーターは菅原伸郎氏(東京医療保険大学教授)。

姜氏は、自由な時代ほど自由ではなくなっていく、不幸になっていくということを夏目漱石やマックス=ウェーバーの思想を上げながら述べ、この矛盾の中で生きる意味が喪失されていると指摘。その現実を考える時「末法」という言葉はまさに世界に通じる言葉であり、五木氏の指摘する「情」の問題で言えば、情として人々を救い上げることができる言葉が現代にないことを上げた。

ランディ氏は、現代の若者が正体のわからない悩みを抱えているのは「自己肯定感」がなくなっているからだと指摘。もちろん自己肯定感とは自己愛とは逆の位相である。自己肯定感の喪失は「私はこれでいい」という土台を持つことができず、それはいのちへの共感へのなさにもつながっていると語った。そして、阿弥陀仏が究極の全肯定であり、このことは再発見されるべきで、日本の宝でもあると述べた。

本多所長は、2人の問題提起を受け、「自分から」という発想の限界を強調。存在は関係のなかで、つまり自分を成り立たせている場があり、それに気づくと、「親鸞一人がため」ということがわかるようになり、みなが同じようにいる場が見えてくるのではないかと語った。

その後は、「悩むこと」と「生きる意味」について意見が交わされた。

自分が見る眼だけでは必ず息づまる。関係性の中から開かれる眼、究極的には自分以上に自分を知っている眼に出遇うということが、本当に悩める力、生きる力になっていくのではないかと感じた。その眼が南無阿弥陀仏というよび声なのかどうか、そのことが自分のなかではっきりしているかどうか、大きな宿題をもらった。宗門内でも様々なことが学べるが、親鸞の教えは宗門内のものだけではない。このように生きることの課題をもった有識者との対話を通して、親鸞の教えが見えてくる。

〔2009年3月25日公開〕