2月19日(木)〜20日(火) 伝道の視座 —岡崎教区伝道研修会—

浜名湖が一望できるすばらしい環境です 講義風景 班別座談 夕事勤行での感話 夜の懇親会。遅くまで語り合いました

岡崎教区の伝道研修会に出講した。会場は浜松の観山寺温泉の国民宿舎。岡崎教区伝道研修会部会から出されたテーマは「伝道に学ぶ —いま私たちは何ができていて、何ができていないのか—」。この研修会には、教えに出遇うことの難しさ、またご門徒に教えをお伝えする難しさを正面から受け止め、課題としている20代〜40代の若手僧侶が集まった。小生が講師として招聘された理由は、東京という真宗の伝統のない土壌で、どのような視点をもって日々の伝道教化活動を行っているかを聞きたいということだった。

岡崎教区は愛知県東部(三河)と静岡県からなる。特に三河といえば、北陸、滋賀、岐阜、名古屋、三重と並ぶ代表的な真宗の土徳を持った地域である。今もその伝統は息づいているものの、いわゆる東京化が進み、今までの伝統だけでは真宗の教えを伝道していくことが難しい状況になりつつある。伝統にあぐらをかくのではなく、危機感を持った若い僧侶が大勢いることに、何か頼もしさを感じた。

「何ができていて、何ができていないのか」を問うということは、そもそも伝道活動の基本をどこにおいているのかに関わる問題である。我々寺に生きる者は、自分を深く問う前に、知識として真宗の教えを学ばざるを得ないという現実があり、苦悩があって教えに出遇うということになかなかなり得えないという問題がある。だから、知識が先行し、親鸞を結論として自分の中に取り込もうとしてしまう傾向がある。しかし、教えは知識ではわからない。教えがいただけるのは、「苦悩する身に響く」ということ以外にはあり得ない。はっきり言えば、親鸞の教えが先ではなく、まず「苦悩」があることを忘れてはならない。自分の苦悩は、個人的な問題に見えるが、釈尊が、親鸞が、様々な先達が苦悩した問題と共通性があり、個人的苦悩の中に全人類的課題を見出していくところに聞法する大切な意義がある。それを通してはじめて他者との関係、いわば「共なる世界」が開けてくるということをどう自分の課題としていけるか。だから、伝道と言っても、まず我々がいかに教条主義から開放され、教化者意識から脱却できるか、あるいはそのことに悲しむことができるかが問われているのである。そのためには、自分が現代に生きる人間の一人であることから出発すること。だから住職の一番の仕事と言えば、自分自身が悩んでいること、そして苦悩を持ちつつ教えに聞いていくことに尽きるのではないか。そのことを通して、「私はこのような住職です」と表現することが大切な姿勢である。

お寺のあり方についてであるが、我々は、いったんお寺を否定して、お寺の再構築を模索していくことが課題である。全国どこを見ても今までの寺の形式では成り立たない状況になってきている。しかし、苦悩し迷い続けている多くの現代人がいることはまぎれもない事実である。つまり、表層においては、お寺離れが加速し、葬儀も減少し、宗教用語も死語化してしまっているが、本質は、実存的不安を抱え、心の奥底で救いを求めているのが現代人の姿といっていいのではないか。こういう危機的状況のときには、とかく「親鸞に帰れ」ということがいわれるが、「帰れ」という内実をよくよく考えていかねばならない。まず親鸞ありきに立って、現代(門徒も)を見るのではなく(苦悩が先ということはすでに述べたが)、現代から親鸞の教えをいただき直すことが「帰れ」という内実ではないか。親鸞の教えが素晴らしいものであっても、現代と真向かいになって、現代から問われるなかで、親鸞の教えをいただき直し、親鸞の教えを現代の言葉で、つまり自分の言葉で語っていかないと、教えは伝わっていかない。自分の言葉で語るということは、自分が本当に教えをいただいているかどうかに関わるし、同時に伝道活動にとって必須条件である。「帰れ」ということは、親鸞を結論とするではなく、「出発点」ということに他ならない。それと同時に、お寺をとりまく社会状況をきちんと見極めなければならない。同朋会運動のなかで「個の自覚」ということが強調されたが、そのことはもちろん大切なことであるが、当時核家族が進行していくなかで、その家族にどう教えを相続していくかという基本的な関わり方を果たして持ちえていたのかということも見直さねばならないだろう。伝道とは、自分自身が教えに生きることと同時に、きちんとした社会状況を見据えていくことが基本である。そして、お寺の再構築の上で、いっしょに歩んでくださる法友としての門徒さんが不可欠であることは言うまでもないことである。こんなことを色々と例をあげて話した。

座談会や夜の懇親会での語り合い、また終了後の参加者の感想文などから感じることであるが、皆それぞれが現代を生きる人間としてもがき、悶々としている。でもそこから親鸞の教えに聞いていこうという意欲を感じ取った。真宗僧侶たるべき姿は自分が悩んでいていいこと。何も格好をつける必要もなし。僧侶である私こそ救われるべき存在。そしてそれは一切衆生の問題とつながる。真のよりどころを失った現代、でも共に学べる道がある。それは安心して迷える道に他ならない・・・。真宗伝統の地である岡崎教区からの心の奥深きところからの叫び・・・うれしかった。親鸞は今、ここに生きている。

〔2009年2月25日公開〕