10月27日(月)〜30日(木) 帯広別院「報恩講」 13座の法話を経験

帯広別院本堂 小生の法話 同朋大会 帯広東幼稚園参拝 合掌する園児 父母の会での法話 帯広大谷高校生に法話 結願日中 結願日中

10月27日〜30日まで北海道帯広別院の「報恩講」であった。帯広を訪れるのは昨年の夏に幸福寺さんの永代経法要に続き、今回で2度目になる。昨年、帯広空港に着陸する間際の帯広の大平原に深い感動を覚えたのであるが、今回再びその感動を味わうことができた。人工のものに覆われ、人間の知恵を絶対化した都市の象徴たる東京に住んでいると、帯広の大平原のスケールの大きさに絶句する。いかに人知のせまいところでせこせこと生きているのかを思い知らされる。空港では列座の鈴木さんが暖かく迎えてくれた。別院の車で大平原を走り、別院に向かった。景色に見とれて写真を撮り忘れたのが心残りであった。でもまた来ればいいことである。しかし、寒い。東京とは10度以上ちがう。夜は0度まで下がる。真冬は本当に極寒であろう。

帯広別院の藤田輪番には9月の札幌のお待ち受け大会でお会いしているが、親鸞聖人が明らかにした救いについてしっかりとした了解を持っておられる。列座の僧侶は若いのに何でもこなしよく動くし、職員の方々も明るく親切で、実にチームワークがよくとれていて見ていて気持ちがよかった。また、門徒のご婦人たちがご飯の用意をはじめ、色々とお世話をしてくださった。夜、街で食事をする以外は基本的に精進料理であった。寒い晨朝法要の後の朝食の暖かいごはんのぬくもりは格別であった。

法要は実に重々しく、何日もいると親しくなる僧侶が大勢出仕しているから、彼らが精魂こめて勤めている姿が余計に感動を誘う。結願逮夜・晨朝・日中には、京都から宣心院さん、また小林教務所長も出仕し、盛大な法要となった。三重八淘の「恩徳讃」の時には完全に儀式に吸い込まれていた。言葉を失うほど儀式に感動したのはいつ以来であろうか。

法話には、中川皓三郎先生や来年1月の「成人の日法話会」のご講師の楠先生も聴聞してくださっただけでなく、列座の僧侶も、出仕した僧侶のなかにも法座に身を置いている姿が実によかった。

小生は報恩講中のすべての法話を務めたが、とにかく内容がすさまじい。その法話の数は、小生が今まで経験した中で最も多い13座もあり、報恩講の法話に留まらず、同朋大会、物故者追弔法要、帯広東幼稚園(大谷幼稚園)父母の会参拝、帯広大谷高校参拝のすべてを小生一人で務めた。ここまで法話の漬物のようになったのは初めての経験であった。報恩講を通してのテーマは「今、いのちがあなたを生きている —安心して迷える道—」であった。また各法要にもそれぞれの個別テーマがつけられている。今回も様々なことを感じたり学んだりした。まずその一つとして、人間は苦悩すればするほど、苦悩の底に深い願いを持って生きていることを自分の法話を通して気づかされた。法話は人に聞かせるというより、自分がいただいたことを自分の口を通して自分で聞くということが本当なのだろうということを理屈ではなく体感した。その深い願いをなかなか意識化できないし、その願いは現実のなかでかき消されてしまって状況にふりまわされて生きざるを得ない。また、せっかく深い願いを持っていながら、出遇うものによっては、その願いとちがう方向に行ってしまうこともある。現代人は親鸞聖人の教えにふれる機会が多いとは言えない。帯広の門徒さんも、小生も、親鸞聖人の教えに遇う縁があったことは大変ありがたいことなのである。人間が奥底で願っていることをもっと掘り起こして徹底して自覚化させるのが教えの言葉であろう。その深い願いを「本願」として、その本願を「南無阿弥陀仏」の言葉をもって我々を呼び覚ます。その本願がはたらく世界を「浄土」として親鸞聖人はいただいた。死んでから「浄土」という死後の救いではない。今、ここに苦悩する我々に本願が呼びかける。だから苦悩することに深い意味があり、苦悩することにおいて人間は尊いと言える。人生に何一つ無駄はないと教えられる所以ではなかろうかということを心静かに受け取らせてもらった。生きる上での真のよりどころとは、本願がはたらく「浄土」である。

それから今回、幼稚園父母の会と高校生という、若い世代の人たちだけを対象にした法話をさせていただいたこともいい経験であった。幼稚園のお母さんたちの真剣な眼差しを見ていると、子育ての難しい時代をどう親子が向かいあっていくかを聞き取ろうとしていた。また高校3年生280人が参拝したのであるが、13年間高校で教壇に立っていた小生にとって、12年ぶりの高校生との対面であった。話しているうちに気がついたのだが、ご門徒の方々に話す口調とはまったくちがって、日常会話的でテンポも速く身体全体を使って語りかけていた。12年経っても教壇に立っていたことを身はまったく忘れていなかったのだ。そんな自分がうれくしなった。高校生は寝てしまうかなと思ったが、多くの生徒が関心を持って聞いてくれた。今、人生を貫く本当のよりどころを見出せないで迷っている若い人たちになんとか親鸞聖人の教えを聞く機会をもっともっと持ってほしい。この子たちがちがう方向で救いを求めない、そしてより迷走することがないように、もっと「場」を開き、縁作りをしていくことが寺院の大切な使命であろう。親鸞聖人は750回御遠忌という形をもって、小生に宿題を投げかけてくださっている。

4日間、ほとんど別院に缶詰であったが、夜だけは懇親の意味で食事に出かけた。27日はご輪番と列座の人たち、28日は中川先生と楠先生、29日は宣心院さん、小林教務所長、17〜19組の出仕した僧侶と、毎回ちがう人たちと大切な報恩講での出遇いを喜び、うまい酒を飲ませてもらった。

さまざまな土地に行き、様々な人と出遇う。4日間も帯広別院にいると離れるのがつらくなる。門徒の人たち、別院の人たちに別れを告げた時はいたたまれなくなった。もう二度と会うこともないご門徒もいるのだろう。でも本願の歴史のなかではいつも出遇っていけるんだと言い聞かせながら帰路に着いた。

〔2008年11月1日公開〕