5月19日(月)〜24日(土) 伝道講習会(本講)
《事前研修会:4月18日(金) 法話実習:5月26日(月)》

伝道講習会(本講)に道場長として出講した。会場は群馬県沢渡温泉・宮田屋旅館である。

伝道講習会(以下、伝講)とは、真宗大谷派東京教区の若手僧侶の大切な学びの場であり、山に囲まれた小さな温泉町(村)で、自分の問題、現代の問題と向かい合いながら親鸞の教えを学ぶのである。伝講は、道場長、講師、教区駐在教導、スタッフに、伝講生(今回の伝講生は11名、25歳〜43歳)で構成される少数精鋭の研修である。伝講の目的とは何か。募集要項には次のように趣旨が述べられている。

近代以降の社会は、人知を絶対化し、科学技術によって便利で快適な生活空間を作り出すことによって、幸福を実現できると疑いなく邁進してきた。その結果、地球規模での温暖化の問題など、さまざまな生命が人間も例外なく生きる場を失いつつある。また、経済至上主義の価値観のなかで、私という存在の「ある」ことが見失われ、迷うことも許されず、何を「する」のか何が「できる」のかということだけが絶対的価値となり、人間存在そのものの尊さはまったく見失われてしまった。そして、人間そのものまでが便利な道具としてモノのように扱われて、だれもが孤独感と空しさに苛まれ怯えながら、本当に生きたという実感も持てないままに生きざるを得ないのが現代に生きる人間の悲しき姿ではないだろうか。その歪みが、昨今のスピリチュアリティー・ブームを生み出しているといってよいが、その迷いは益々深まっていくばかりである。

そういう濁世の只中に生きながら、濁世の苦悩に埋没して生きるのではなく、その中に足をつけて、失われない自己を回復する原理が本願であり、その本願に立って生きたのが親鸞聖人であろう。

伝道講習会は、日常の喧騒を離れ、現代の問題に関わりながら、あらためて親鸞仏法にふれ、再び濁世の大地に足をつけて歩み出さんとすることを願いとする。

山に囲まれた静寂さが漂う絶好の環境 中川先生の講義 小生の講義 夜の全体座談 記念写真(小林駐在、写っていなくて残念──) 法話実習 法話実習反省会

いささかかたい文章ではあるが、小生は、本願念仏の教えは苦悩するこの私とともにあり、その本願光明のはたらきの世界を「浄土」と受け止めさせていただいている。親鸞の明らかにした本願念仏の教えは、受け入れられない自分を引き受けて立ち上がっていく意欲を与える教えなのだと思うのだ。苦悩に埋没する生き方から、苦悩が真実に遇う大切な意義を持つという転換がおこる。平たく言えば、苦を生かす道を説くのである。

だから、ただ単に親鸞の教えを学ぶのであれば、知的理解でしかない。現実の様々な問題、苦悩があってこそ、教えを本当に学ぶことができるのだ。それが伝講の大切な視点である。今回の伝講では、スピリチュアルブームの問題点をさぐりつつ、そのブームの背景にある現代人の苦悩の状況を明らかにし、同じ現代を生きる我々僧侶もその苦悩の渦中にあることを見いだしながら、親鸞の教えがどう現代に応えうるのかを自分の身の上にいただいていくことを柱とした。

本講に先がけて、4月18日に事前研修会(練馬・真宗会館)が行われた。宗門では「お待ち受け」という言葉がある。2011年に「宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌」をお迎えするが、今がまさに「お待ち受け」期間である。この「お待ち受け」をどう過ごしたかが御遠忌を決めるのである。何の問いもなく御遠忌を迎えれば、お祭りに終わってしまう可能性がある。そういう意味で、何が問われているかを一人ひとりが主体的に受け止めていく1カ月間が、伝講の本講を決めていくことになるから、そのことを確認する意味で事前研修会は大切であった。

沢渡温泉での本講では、朝の勤行から始まり、講義 - 攻究 - 輪読 - 座談 - 聖典素読 - 夕事勤行 - 全体座談といった具合(日によって多少ちがう)に、朝から晩までカリキュラムがびっしりで、その間に法話実習の原稿を作成しなければならないから、伝講生にとっては大変厳しい毎日であった。

道場長としての小生の講義は、「伝講の願い」「法話の心がけ」「御遠忌テーマは何を呼びかけているか」といった内容であった。講師には中川皓三郎先生を招聘し、毎日「正信偈」の講義をいただいた。

伝講生にとって一番つらいことは、伝講で学んだことを通して、26日に法話をすることであった。実習なので、原稿を書かねばならないが、原稿は訂正がはっきりわかるために、パソコンではなく手書きをしなければならないので余計につらかったのではないだろうか。

法話は、教えによる自分自身の了解、自覚内容を語るわけであるから、当然、自分が了解していないことをさもわかっているように話すのは間違いである。しかし、法話経験の少ない伝講生にとって、嘘をつくわけではないが、なかなか最初から自信をもって自覚内容を話すことなどできることでもないので、どう原稿を作っていくか、本当に苦慮していたようだ。

原稿作成は、木曜日と金曜日であった。木曜日に一応仕上げ、金曜日には道場長と講師の面接があり、原稿を見ながら、問題点などを語り合う。道場長というえらそうな肩書きではあるが、小生は自分の言葉で正直に語ろうとして書き上げた原稿を見せてもらって、自分自身が大変教えられるとともに、とてもすがすがしい気持ちになった。面接によって、さらに修正などをするため、金曜日の夜は一睡もせずに原稿に向かい合った伝講生もいた。

こうして土曜日を迎え、ハードな1週間が終わった。大変厳しい毎日であったが、一人ひとりが自分の問題として、現代の苦悩と向き合い、親鸞の教えをいただいていく日々のなかで、参加者全員に信頼関係が生まれ、励ましあって学んでいくことができたことがやはり伝講の魅力であると再認識した。また、おいしいご飯とお風呂、特に露天風呂が我々の疲れをほぐしてくれた。

26日は朝から、前道場長の稲垣俊夫先生のお寺(浅草・通覚寺)で法話実習が開かれた。伝講生は書き上げた原稿をもとにしながら(といっても原稿を朗読するのではなく、ちらっと見る程度で、聞いている人の顔を見て話すのだ)、緊張感をもって法話をおこった。法話後の反省会では、伝講生は、稲垣先生、中川先生、そして小生から厳しいコメントをもらいながらも、伝講をまっとうした充実感に溢れていた。小生自身、こういう場に身をおくことが出来て、伝講生たちに御礼を言いたい。伝講はまさに「僧伽」そのものであった。

住職になると、勘違いをして天狗になっていく人がいる。いや、そういう傾向は小生にもある。だから、実存の不安を抱えた人間であることを深く自覚する場が何よりも大切である。住職の仕事は自分が悩んでいること、苦悩していることだ。自分が悩んでいなければ、人々の苦悩を感じることはできない。苦悩することこそが住職の仕事だ。その住職がおえらいさんになってはならない。それは住職を放棄したに等しい。

個人的苦悩のなかに普遍性が潜んでいる。つまり、個人的苦悩のなかに全人類的課題を見出していくところに聞法の意義があり、それを通してはじめて「共なる世界」が開けてくるのだと思う。本願展開の歴史に参画し、悩みながらも、そこに使命をもって生きていく方向性を確認させていただいたことが、小生にとっての「伝講」であった。堂々と“安心して迷える道”を歩み続けていきたい。

〔2008年5月29日公開〕