2月23日(土) 48回目の誕生日

48回目の誕生日を迎えた。「弥陀の48願」と同じ48だから、益々聞法精進しようと誓ってみたりもしたが、50が目前にせまり、歳をとったものだとつくづく感じる。

2時まで法事を勤めた後、中野区上高田にある高徳寺の聞法会「寺子屋の時間」に講師として出講した。突然の強風で都内の鉄道は大混乱に陥っていた。山の手線は途中何度も停車しながらも小生を高田馬場まで運んでくれた。東西線は地下鉄なので落合まで順調に行くことができて、ありがたかった。ふと思った。どこかで電車は走っているのがあたりまえと思っていたのではないかと。強風のおかげで、あたりまえのことがあたりまえではないことに気づかされた。「あたりまえ」という感覚が感動を失わせていく正体だったのだ。

「寺子屋の時間」の様子 皆さんに祝っていただきました 居酒屋に移動

聞法会「寺子屋の時間」では「正信偈」を学んでいる。「本願名号正定業」からの4句が今回の範囲だが、教えの根幹ともいうべきところで、講話も大変苦心した。

聞法会終了後、ご門徒さんたちが、小生に色紙に寄せ書きをしてくれ、ケーキでお祝いをしてくださった。カンボジアに行かれたご門徒がいらっしゃり、カンボジアビールまでご馳走になった。参加者全員で「ハッピバースデイ」を歌っていただいたときは、年甲斐もなく照れてしまった。その後、中野駅北口の居酒屋「第二力酒造」に移動し、参加者有志であらためてお祝いをしていただいた。教えを聞く仲間の集い(僧伽)で誕生日を祝っていただいたことは本当に感動した。

小生の誕生日には皇太子がつきものである。飲み会の席でも「皇太子さんと同じ歳なのですね」という会話があった。同じ1960年2月23日生まれである。厳密に言うと2時間ほど小生がお兄さんのようである。子どもの頃は皇太子と同じ日に生まれたことがとてもうれしかった。なぜなら子どもながらにして、いずれ天皇になることを知っていたからだ。天皇誕生日は祝日である。小生の誕生日は必ず休日であり、いつも祝ってくれるものだということがうれしかったのだ。そういうことからとても皇太子には親近感をもっていた。ところが、寺を継ぎ、住職になると、皇太子と同じ日に生まれたことに落胆するようになった。お寺の場合、祝日は法事で忙しく、休日にはならないからだ。誕生日ぐらいゆっくりしたいということが成り立たなくなった。しかし、人間は実に身勝手なものだ。自分の都合にあっているときは、皇太子と同じ日に生まれてよかったと思い、自分の都合にあわなくなると、皇太子と同じ日に生まれたことを悔やむ。皇太子に会ったこともないのに、皇太子はほめられたり、不平を言われたり、たまったものではない。考えてみれば、皇太子に申し訳ない気がする。

人間はどこまでも自己中心的である。その眼で良いの悪いのとぶつぶつ言って、一喜一憂している。実に愚かな凡夫だ。そういうあり方をどこまでも照らすのが、「弥陀の48願」である。救われないこの私を救わずんばやまんと呼びかけ続ける教えを聞くしかないとうなずかせてもらった。

快晴からにわか雨、そして突風と、人生そのものを象徴するかのような48回目の誕生日であった。

〔2008年2月25日公開〕