蓮光寺報恩講ニュース 2023年

「報恩講」清掃奉仕のお知らせ

2023年10月4日公開

「報恩講」はご門徒の協力によって勤められております。心を込めて清掃して、本堂周辺をピカピカにして、気持ちよく「報恩講」をお迎えしましょう。ご参加できるご門徒はお寺までご連絡ください。今年から日曜日に行います。

10月29日(日)
午後2時〜4時30分
  • 2:00 清掃奉仕
  • 3:50 休憩・お茶請け
  • 4:10 勤行、焼香、恩徳讃

報恩講: 11月4日(土)〜5日(日)

報恩講 2023 安心して迷うことができる道を訪ねよう!

2023年10月4日公開

コロナ対策として徹底的に換気に努めます。皆様も手洗いの励行、念のためマスクもご持参ください。

11月4日(土)
午後2時〜3時45分ごろ 大逮夜法要
  • 勤行: 「正信偈」同朋奉讃、回向、御文
  • 法話: 蓮光寺住職
  • *お持ち帰りお弁当あり
午後4時30分〜5時30分過ぎ 報恩講の夕べ
  • シュガーシスターズ コンサート
11月5日(日)
午前8時〜9時ごろ 晨朝法要
  • 勤行: 「正信偈」同朋奉讃、御文
  • 感話: 門徒2名
午前11時〜午後1時ごろ 結願日中法要〈御満座〉
  • 勤行: 「正信偈」、念仏、和讃、「御俗姓」御文
  • 法話: 牧野豊丸先生(福井県福井市・託願寺住職)
  • 御礼言上
  • *お斎(お食事)がありますが、お寺で食べられても、お持ち帰りになってもどちらでも対応いたします。

11月4日(土)

大逮夜法要 | 午後2時〜3時45分ごろ

法話: 蓮光寺住職 「私たちは阿弥陀さんの教えに遇うべき存在」
私たちは、思う通りになれば幸せになれると思いこんで生き、そうならないと自分を受け止めることがなかなかできない、そんな一喜一憂の生活をし、かけがえのない存在であることを見失って生きているのではないでしょうか。しかし、現実は「老病死」の苦しみから逃れられないし、どうにもならない問題が次々起こってくるのが人生です。阿弥陀さんの教えをいただいた数えきれないの人たちは、どんな状況においても、存在の尊さを失わずに人生を全うされました。「自分の思い」の中でしか生きられないあり方から、どんな自分も「これが私です」と受け止めて生きる転換が願われています。私たちは阿弥陀さんの教えに遇うべき存在なのです。

報恩講の夕べ | 午後4時30分〜5時30分ごろ

シュガーシスターズ コンサート (ピアニスト:恩田佳奈さん)
今こそ響く美しい日本語
~シュガーシスターズ心のハーモニー~
皆さま、こんにちは。2019年に続いて4年ぶりにお目にかかります、姉妹ユニット“シュガ ーシスターズ”です。前回皆さまにお会いしてから程なくして、世界はコロナという未知のウイルスに大きく翻弄されました。大切な人の無事を祈った日々、困難や不安がたくさんありましたね。再びお顔を合わせて笑い合える日常が戻った今、美しい日本語の歌に耳を傾けてみませんか。詩人・金子みすゞの優しい言葉の世界や、秋の恵みや彩りを、姉妹ならではの瑞々しいハーモニーでお届けいたします。心ほぐれるひと時をご一緒いたしましょう。どうぞご家族お揃いでお出かけくださいませ。皆様にお会いできますことを楽しみにしております。

【プロフィール】
佐藤容子(ソプラノ) 佐藤寛子(メゾ・ソプラノ)
山形県山辺町出身。ともに東京藝術大学音楽学部声楽科卒業、同大学院修士課程独唱科修了。 日本歌曲の分野で互いに最高峰の評価を受ける実力派姉妹ユニット。 〈日本のうた〉の魅力を伝え、文化として発信していきたいという思いから〈美しく響く日本のうた 心のハーモニー〉をテーマに姉妹ユニット“シュガーシスターズ”を結成。童謡唱歌から歌謡曲まで色鮮やかに、息のあった艶やかなデュエットで歩みを進めている。
2014年11月ファーストアルバム「わすれがたき ふるさと」リリース。
2017年9月キングレコードよりメジャーデビューアルバム「Megumi 未来へつなぐ日本のうた」リリース。
2017年ミャンマーにて初の海外演奏を行う。
2019年10月 在オーストリア日本大使館後援によりシュガーシスターズウィーン公演を開催。(モーツァルトハウス内ベーゼンドルファーホール)
海外でも〈日本のうた〉の魅力を伝えたいと文化親善にも意欲的。
オーケストラ共演多数、NHK Eテレ「ららら♪クラシック」をはじめTVやラジオへの出演などメディアでも活躍中。
2019年11月 真宗大谷派蓮光寺報恩講「報恩講の夕べ」でコンサートを開く
2021年より〈やまがた特命観光つや姫大使〉に就任。
※公式ホームページ

11月5日(日)

晨朝法要 | 午前8時〜9時ごろ

感話: 門徒2名

結願日中法要〈御満座〉 | 午前11時〜午後1時ごろ

法話: 牧野豊丸先生(福井県福井市・託願寺住職) 「南無阿弥陀仏のすがた」
〈牧野先生からのメッセージ〉
私の住んでいる北陸では、蓮如上人(れんにょしょうにん 1415-99)のことを「蓮如さん」と親しみを込めて呼んでいます。
また毎年、本山から蓮如上人の『御影(ごえい)』を吉崎にお迎えし、法要が営まれています。そこには、今でも上人が説法されているすがたを感じました。その蓮如上人が大切にされたことが、生活そのものが仏道の道場であるという事であったと私は頂いています。
今回は、生活そのものが仏道である事を皆様と共に確かめてまいりたいと思います。

【牧野先生】
先生には、蓮光寺に何回もご法話にご出講いただいており、「大らかな先生だけど、仏法を語りだすと情熱的になり、法話にひきこまれていく」との感想をご門徒から多くいただいておりますので、全国を法話で駆け巡りながら、ご多忙のなかにあっても、また蓮光寺に来ていただくことになりました。南無阿弥陀仏

報恩講「清掃奉仕」を実施

2023年11月1日公開

10月29日(日)、報恩講に向けて「清掃奉仕」を実施し、過去最高の総勢29名のご門徒が参加されました。初参加のご門徒も5名いらっしゃり、初参加とは思えないほど、皆さんに溶け込んでいました。

10月下旬にもかかわらず、気温の高い状態が続き、汗ばむほどでした。報恩講は25℃まで上がる予想が出ており、暖かい報恩講になりそうです。

今年は、結願日中(ご満座)は、従来の勤行に戻し、より重みのある報恩講になります。コロナ下で激減した報恩講も毎年増え続けているのも、ご門徒の熱心な御参詣のたまものです。コロナ下以前の参詣数に戻るまで、一歩一歩進んでいきたいと思います。それはそう遠くないことだと確信できた清掃奉仕でした。

報恩講が円成

2023年11月9日公開

蓮光寺「報恩講」が11月4日(土)~5日(日)の一昼夜にわたって厳修されました。親鸞聖人が明らかにされた阿弥陀さんの教えが私たちに届けられていることを、今一度確認し、その恩に報いる集いです。恩に報いるとは、端的に言えば、どこまでも、私の迷いのすがたを阿弥陀さんに照らされながら、愚かな凡夫であることに目が覚まされながら、いよいよ教えに訪ねていくことと、この教えを人々にお伝えしていくことにあるでしょう。今年の報恩講は、コロナ下以前の雰囲気を感じることができました。2日間で延べ約200人のご門徒が参詣され、来年に向かって新たな意欲をいただきました。

昨年まで、お勤めはすべて「正信偈・同朋奉讃」の同朋唱和でしたが、結願日中(御満座)では、正信偈真四句目下・念仏和讃は五淘六首引きの本来のお勤めをいたしました。もちろん、すべての法要に「御文」、結願には「御俗鈔御文」があがりました。

「大逮夜法要」は、蓮光寺住職が「私たちは阿弥陀さんの教えに遇うべき存在」をテーマに法話。

「報恩講の夕べ」では4年ぶりにシュガーシスターズのコンサートが開かれ、美しく響く日本語の心のハーモニーに多くの聴衆か魅了されました。またピアニストの恩田佳奈さんの卓越したピアノの技術がハーモニーをより引き出してくれました。

「晨朝法要」は、鳥のさえずる静かな朝の勤行でした。総代の河村和也さん(法名:釋和誠)、同じく総代の原惠子さん(法名:釋尼惠真)が感話をされました。

「結願日中法要」(御満座)では、牧野豊丸先生(福井市、託願寺住職)が「南無阿弥 陀仏のすがた」をテーマに熱のこもった法話をしていただきました。

最後の「御礼言上」で、今まで広島県庄原市よりオンラインで河村和也総代(県立広島大学教授、法名:釋和誠)が言っていましたが、今年は4年ぶりに参詣され、蓮光寺門徒を代表して、ご講師、ご出仕のご僧侶に、御礼の言葉を述べていただきました。

牧野先生のご法話、蓮光寺住職の法話、ご門徒の感話、シュガーシスターズのコンサートの模様については、後日掲載いたします。今回は報恩講の様子を写真でご案内しながら、最後に御礼言上を掲載いたします。

準備

大逮夜法要

報恩講の夕べ

晨朝法要

結願日中法要

御礼言上

御礼言上

2023年の報恩講が、例年と同様、土曜・日曜の一昼夜にわたり厳修されましたことは、わたくしども蓮光寺門徒一同、大きな喜びとするところでございます。

如来の御尊前、宗祖の御影前に、御満座の結願をご報告するにあたり、ご出仕・ご出講くださいましたみなさまに一言御礼を申し上げます。

ご法中のみなさまにおかれましては、懇ろなるお勤めを賜りまことにありがとうございました。日中法要では当派に伝わる本来の勤行が復活し、拙いながらもお勤めをともにしながら、その響きを懐かしくありがたく思ったことでございます。

昨日の大逮夜法要では、「私たちは阿弥陀さんの教えに遇うべき存在」の講題で当山住職の法話を聴聞いたしました。聞くことを通じてみ教えに触れ、これを日々の生活の中でいただき直すことの大切さを改めて思ったことでございます。地獄一定の凡夫としての歩みを堂々と進めて参りたく存じております。

報恩講の夕べでは、コンサートにシュガーシスターズをお招きしました。美しい歌声とハーモニーもさることながら、ことばの持つ大きな力に心動かされたことでございます。

本日、晨朝のお勤めでは、総代2名が感話をしました。日常の感懐や旅の感想をざっくばらんに語る空間のありがたさをしみじみと思った次第です。

また、満日中の法要では、福井県福井市より、託願寺ご住職の牧野豊丸先生にご出講いただき「南無阿弥陀仏のすがた」の講題でご法話をたまわりました。

「信心獲得すというは、第十八の願を心得るなり。この願を心得るというは、南無阿弥陀仏のすがたを心得るなり。」という御文をいただき直し、はたらきとしての仏に出遇うことは、わたくしたちの生活実践と不可分であり、わたくしたちが南無阿弥陀仏の願いを生きているかということが問われているのだということに気付かせていただいたことでございます。

「ありがたい」「もったいない」「おかげさま」「おそだて」「おはたらき」「おきづかしめ」といったことばに象徴されるものは、わたくしたちが弥陀のはたらきに出遇い、その光に照らされ、頭が下がり、手が合わさり、念仏申す姿なのだということを深く胸に刻んでまいります。

さて、今年の報恩講は、4年間続けてまいりましたオンライン配信を止め、完全に対面にて実施いたしました。のべでおよそ200人のご門徒におまいりいただき、もとの賑わいへの手がかりをつかめたものと確信しております。

個人的なことを申し上げることをお赦しいただければ、わたくしは、蓮光寺をおまいりするのは実に4年ぶりとなります。昨日・本日と、蓮光寺という空間に身を置き、わたくしがおまいりできずにいた間も、この寺は聞法の道場=ナラウイエとして確かにここに存在していたのだということを身体で確かめ、そのありがたさを痛切に感じております。

この4年のうちに、二度と会うことがかなわなくなってしまった法友もおります。悲しく寂しいことではありますが、ときは移り人はかわっても、なんとしてもこの寺を守り、南無阿弥陀仏の法灯を繋いでまいりたい、それが教えに生きた人とともにいつまでもあり続ける道であろうと思っております。この一念において、蓮光寺門徒一同、住職、坊守を先頭に、念仏三昧・聞法精進の生活を大切にしてまいります。ご出仕・ご出講のみなさま方には、変わらぬご指導とご鞭撻をたまわりたく、伏してお願い申し上げる次第でございます。

2023年の蓮光寺報恩講のご満座結願にあたり、ご出仕・ご出講くださいましたみなみなさまに重ねて御礼申し上げ、ごあいさつとさせていただきます。このたびはまことにありがとうございました。

蓮光寺報恩講2023 大逮夜法要 11月4日(土)

2024年3月13日公開

私たちは阿弥陀さんに遇うべき存在
蓮光寺住職

阿弥陀さんに遇うべき存在

今年は「親鸞聖人御誕生八百五十年 立教開宗八百年 慶讃法要」が本山で勤まりました。

この数年、私たちはこの法要のテーマ「南無阿弥陀仏 人と生まれたことの意味をたずねていこう」を手がかりとして、阿弥陀さんの教えに学んできました。今年の報恩講の大逮夜法要では、その総括的な法話をさせていただきたいと思っています。総括といっても、それで終わりではなく、総括することによって、いよいよ聞法をさせていただくのです。

このテーマはふつうに読むと、はじめは、南無阿弥陀仏の教えは、生まれたことの意味を教えてくれるのかと思ってしまうご門徒が多かったのは当然です。そう読めますからね。しかし、テーマと向き合って聞法すると、このテーマは「方便」だということがはっきりしてきました。方便とは「真実に導く手立て」ということです。阿弥陀さんの教えは意味を超えています。私たちは、生きることにおいての意味づけ・価値づけ・条件づけをして苦悩しています。その私たちのあり方に寄り添って、私たちのあり方に気づきを与え、そこから解放されていくことが教えられているのです。意味があると言ったらないものを作り出すのが、私たちのものさし、つまり自我分別の世界です。そこから解放されると言うことは、私たちに愚かな凡夫であるという目覚めを与え、いよいよ阿弥陀さんの教えを聞いていく身とさせていただくのでしょう。私たちは阿弥陀さんの教えに遇うべき存在なのです。

「生きる意味」と「生まれた意味」を混同する現代

4月28日に蓮光寺で慶讃法要の団体参拝(団参)に参りました。コロナがずっと続いたので、門徒さん全員にはご案内はできず、役員、聞法会の方々の一部で参りました。法要のなかで感話があるのですが、総代の河村和也さんが感話をされました。『ふれあい』にも載っていますから読んだ方も多いと思います。今日は、河村さんの感話を題材にして、私たちは阿弥陀さんの教えに遇うべき存在ということを確認していきたいと思っています。

河村さんがいただいた内容は私たちが学んできた内容でもあるのです。ちょっと読んでみたいと思います。

宗祖親鸞聖人の御誕生と立教開宗を慶び讃えるこのたびの法要で、このようにお話させていただく機会をいただき、まことに光栄に存じております。

このたびの慶讃法要は、「南無阿弥陀仏 人と生まれたことの意味をたずねていこう」というテーマを掲げております。わたくしたちの寺でも、住職を中心にこのテーマについて聞法や座談を重ねてまいりましたので、それを踏まえてわたくしの了解を申し述べます。

まず「生まれたことの意味」とは何でしょう。皆さん生まれたことの意味は何ですかといわれたらどうしますかね。それは「生きていることの意味」とは異なるのでしょうか。そのように申しあげるのは、「生まれたことの意味」は、「生きていることの意味」が果たされた末に成就するものだという、現代の迷いがあるように思われるからです。

現在、自分が順調であれば、生まれてきた意味がある。そうでないと生まれてこなければよかったと考えるのが私たちです。こうして分別して生きているのですね。阿弥陀さんの世界は、そのまま、ありのままの無分別の世界です。私たちは無分別によって救われるのです。これについてはのちほどお話しいたします。河村さんの感話にもどります。

生きていることの「意味づけ」「価値づけ」「条件づけ」に苦悩する私たち

そして、「生きていることの意味」を考えるとき、わたくしたちは、平たいことばで言えば、世の中で「使えるか、使えないか」、また、何かを生み出すことが「できるか、できないか」といったものに、その意味を求めがちだと思うのです。

生産性のない者は生きる価値がないという言説は、たびたびマス・メディアを賑わしております。「高齢者は老害化する前に集団自決をすればよい」といった主張はその最悪のものと言えましょう。このような「経済絶対主義」の社会にあって、わたくしたちは、先ほど申しましたような意味づけに適った自分のみを自分としてゆきます。職場や地域などでの自分の立場に囚われ、自分が他人からどう評価されているかばかりに関心を寄せるとき、はたして、それは自分を生きていると言えるのでしょうか。

うまくいっているうちはよいのです。しかし、ひとたびうまくいかなくなれば「自己責任」という残酷なことばによって切り捨てられ、見捨てられてしまうのではないでしょうか。その結果、自分とは何かを見失い、自分自身の存在を失ってしまうのが、現代を生きるわたくしたちの闇なのであろうと思います。

'23年4月28日、本山で感話をする河村さん

人間は、必ず意味とか価値とか条件を求めて生きざるを得ないのです。一生離れることができないのです。意味や価値を感じることはいいですが、それに意味づけ、価値づけ、条件づけをする、この「づけ」が問題なのです。なぜなら意味や価値の固定化を生むからです。特にこの自我による生きるということに意味づけをしていくと、生きる意味のない人たちを生み出していくという大きな問題を抱えているのです。それは存在の捨象につながっていくのです。自我は迷いの世界であり、差別世界なのです。ですから自我は私たちのよりどころ(存在根拠)にならないのです。

もともと人間そのもの、自分そのものが尊いのに、行為によって自分に付加価値をつけて、それを自分と思っているのです。それは自分そのものではないから、生きる意味があると喜んでいても、その意味づけから転落してしまえば、「自分は生きている意味がない、生まれてきた意味がない」となってしまうのです。これは、誰の上にも多かれ少なかれ蔓延している現代の状況なのです。つまり、外にあるものを自分としているだけで、それは自分そのものではないのです。

しかも豊かになって本当に良かったのか、以前も話しましたが、財布・スマホ・コンビニ(コンビニが悪いと言っているわけではありません)があれば、誰にも会わなくても生きていけるのですが、その結果、感動することやものを深く考えることが少なくなり、ネットに誹謗中傷や個人情報が漏れたり、闇サイトによる殺人も起こっています。結果、人間関係が希薄化し、不寛容な社会になってしまいました。自我(近代的自我)の暴走により「存在の孤独」を抱えてしまったのが現代人ではないでしょうか。

そして、豊かさを追求する現代社会にあって、経済的に貢献できる人間が大きな評価を受けることが無疑問的になっていくと、それはいのちの峻別につながっていくのです。「障がい者は経済的貢献をできないから安楽死させろ」という植松聖が起こした相模原事件は明らかに優生思想です。つまり、生きていいいのちとそうでないいのちの峻別です。私たちも「使える人間がよい」と多かれ少なかれ思っているわけですから、本当に全面的に彼を責められるかというと考えさせられますね。形を変えていのちの峻別は現代において深く根をおろしているのです。どのいのちも比較などできない尊さがある(無上尊)という阿弥陀さんの呼びかけをよりどころとすることが求められているのではないでしょうか。

「今日の人間は、自分自身を見つめる眼を失ってしまった。それが、豊かさの中での人間の悲劇である。」と作家の故高史明さんがおっしゃる通りです。それは阿弥陀さんによって、自分の正体、つまり自分が愚かな凡夫であることに気づかされることが、あらゆることへの出発点となるということでしょう。では河村さんの感話にもどります。

「人と生まれた」ことの尊さを自分に伝えられたいのちを生き抜くという事実をもって具体化

わたくしの、15歳離れた姪の話をさせてください。1年ほど前になりますが、姪は家の中で脳内出血に倒れ4時間半ほど身動きできずにいました。仕事から帰ったわたくしの兄が姪を救いましたが、そのときに彼女が最初に発したことばは「ありがとう。死ぬかと思った」だったといいます。若い頃にはどこか人生を投げたようなところが見受けられ、少し齢を取ってからは大きな病に見舞われ、いつ死んでもよいのだなどと嘯いていた姪でしたが、彼女の中に「生きたい」という強い願いのあったことが伝わることばでした。それは、どうすることもできないまま死と隣り合わせで過ごした4時間半が彼女に言わせたものなのかも知れません。

姪は今、幸い、家族と元気に暮らしております。ただし、左半身には障害が残り、大好きだったクルマを運転することはもうあきらめたと言います。熱心に続けていたドラムの稽古もできなくなってしまいました。それでも、愚痴も恨み言も一切口にせず、健康管理とリハビリに励む姿を見ていると、彼女のどこにこれほどの生きる意欲があったのだろうと思ってしまいます。時折、わたくしとともに聞法の席に着くこともある姪でしたから、あるいは阿弥陀さんの呼びかけが届く種のようなものを持っていたのかもしれません。本当のことはわかりませんが、姪を見ていると、先ほど申したような生きることの意味づけとは別の次元の、もっと原初的で根源的な生きることへの強い意欲を感じるのです。「人と生まれた」ことの尊さを、自分に伝えられたいのちを生き抜くという事実をもって具体化していこうとしているように思えてならないのです。

姪御さんは相当苦しんだことはまちがいありません。自分の描いた人生が崩れ去ったのですから、つらかったでしょう。しかし、河村さんと聞法の座についていたこともたびたびあったことが大切な点です。人間のどうにもならないところに阿弥陀さんの本願が聞こえてくる、響いてくるのです。現実を受け止められず自分の思いに沈んでいる愚かな凡夫だな、地獄を作り出しているのは自分の思いだったのだという気づき、そして今のありのままの自分を生きようとする意欲(本願の意欲)、これはすべて阿弥陀さんからいただいたものです。これを「真実信心」というのです。私たちの中からこういう意欲はなかなか出てこないです。自分が信じる心ということではありません。本願の信心です。他力回向、他力とは本願力です。本願力回向によって真実信心を賜わるのです。ですから、阿弥陀さんからいただいた眼なのです。死と向かい合うことによって「生きたい」という願いに目覚めたのも阿弥陀さんのプレゼントに思えてなりません。「生死(しょうじ・苦しみ)を超える」ことが人間の究極の願い、つまりどんな状況でも生きていけるということです。

河村さんの言葉の中に「阿弥陀さんのよびかけが届く種のようなものを持っていた」というのは珠玉の言葉です。自我の種しかなければ、思い通りになることしか満足はありませんが、そんな人生を貫く満足は自我からは出てこないのです。自己満足は続かないのです。「阿弥陀さんの呼びかけが届く種(因)」があれば、自分の思い通りにならなくても、どんな状況においても、このかけがえのない私を見失わず「私が私である」自体満足の世界を賜るのです。尊い存在としてある私は、縁によって、どんな私になっても尊い私、私は私であるということは阿弥陀さんの本願が念仏となって真実信心をいただく以外ないのです。「そのままの救い」「自体満足の世界」、これは真実信心によって成り立つのです。河村さんの言葉で言うと「自分に伝えられたいのちを生き抜くという事実をもって具体化していこう」ということでしょう。

それで完結するわけではありません。自我は一生なくらないので、苦悩もなくなりませんが、それをつつむ阿弥陀さんの種(因)があれば、常にお育てをいただきながら歩んでいくのです。聞思の生活です。阿弥陀さんの呼びかけが聞き、それが生活の中で生きてはたらいてくださるのです。

ですから姪御さんは帰敬式を受ける決心をされたのです。法名をいただいて「釋」を名告る仏弟子として生きるほかに人生の成就はないとうなずかされた「地獄一定の凡夫の誕生」の儀式が帰敬式なのです。

何度か法話に取り上げた沖縄の小児科医の志慶眞文雄先生は「我々は生きていることが、何か足りないみたいに思います。しかし、生きていること自体が不可思議で大変なことで、これ以上に何を求めるのかという、そういう世界が開かれるんです。それに気づく以外に人生が成就する道はないと私は思います」と言い切られています。まさに姪御さんの代弁をしているかのようです。

しかし、「他力本願」を他人任せと世間では言われていますが、どこが他人任せなのでしょうか。他力本願ほど、私たちがいただくのは難しいことはないといってもいいぐらいです。本願念仏の教えは苦悩する人間を凡夫と自覚せしめて立ち上がらせるのです。あるお寺からいただいた寺報に「念仏して楽になるのではない。地獄一定の凡夫が誕生するのです。」という和田稠先生のお言葉が載っておりました。深く自覚されたお言葉です。地獄を作り出しているのはこの私であったということですね。宗教は癒しとか心の持ちようとか、そういうことではなく、人間存在を明らかにしていくのです。自分とは何か、自分の正体を顕かにさせていただくことで、尊い存在に目覚めていくのです。堂々と凡夫の身に帰って、念仏生活を送っていくのです。みなさん、どうですか? 私たちは阿弥陀さんに遇うべき存在なのです。

河村さんの感話を読んでいて、「真実信心」について次のことを感じました。それは「信不具足」(信心が具足していない)の問題です。

信に二種あり。一つには聞より生ず、二つには思より生ず。この人の信心、聞より生じて思より生ぜざる、このゆえに名づけて「信不具足」とす。また二種あり。一つには道(どう)ありと信ず、二つには得者を信ず。この人の信心、ただ道ありと信じて、すべて得道の人ありと信ぜざらん、これを名づけて「信不具足」とす、といえり。

(『教行信証』信巻 P.230)

(現代語訳) 信には二種あります。一つには、「聞」によって信を賜り、二つには、「思」、つまり生活を通していただき直すことで、信を賜るのです。ただ「聞」だけで、「思」がなかったら、これは信心を賜ったとは言えません。また信には二種ある。一つには、ただ仏道を信じるのであり、 二つには、仏道を歩むことによって、信心を得た人がいると信じるのである。ただ仏道があるとだけ信じて、信心を得た人がいることを信じないのは、信心を賜ったとは言えない。

さきほど「聞思」と言いましたが、お寺は道場ですから、道場で聞いたことを、生活の中でいただき直していくことです。聞いてそうだなと思っても、生活の中で自我を振り回して生きているだけでは、信不具足)ということです。もう一つは、信心をいただいて仏道を歩んでも、信心を得た人に出遇うことがなければ信不具足だということです。生活の中で教えをいただき直す、信心に生きる人に遇うことは、教えを観念化することから脱皮することでもあるのです。

これで最後になりますが、河村さんの感話を続けます。

生老病死と申しますが、老も病も死も、生、つまり生まれたことがなければありえないという了解をうかがったことがあります。生まれてきたことはさまざまな苦しみの根源だと言うのです。そして、「自我分別」を持たずに生まれることはありえず、人間はその迷いからは逃れられないとも教えられました。

このたびの慶讃法要のテーマは、「人と生まれたことの意味をたずねていこう」とわたくしたちに呼びかけています。「生きていること」に意味を求めずにいられないわたくしたちは、一読して、南無阿弥陀仏の教えがその答えをわたくしたちに与えてくださると思いかねません。

しかし、お念仏の教えをたずねていくならば、「生きていること」に意味を求め、意味というものに囚われることなく生きてはいけないわたくしたちの姿が照らし出されてくるように思われます。その呼びかけは、人と生まれた事実に立ち、誰にも代ってもらうことのできないいのちを、念仏申す身となって生きよということなのでしょう。

「人と生まれたことの意味をたずねていこう」と呼びかけられる南無阿弥陀仏は、わたくしたちが求める答えとしての意味を与えてくださるのではなく、わたくしたちの自我分別による意味づけを翻し、わたくしたちに迷い多き凡夫であると気付かせ、存在の尊さに目覚めよと呼び掛け続けておられるのです。迷いを抱えたまま、ありのままの自分を受け入れていく本願の意欲をいただくことこそが、人間にとって根本的な救いなのだと感じております。

慶讃法要のテーマに触れ、仲間とともに感じたことを申し述べました。

意味を求めて生きざるを得ない人間に寄り添って、「南無阿弥陀仏 人として生まれたことの意味をたずねていこう」と呼びかけて、私たちが教えを聞くことを通して、意味づけから解放される教えであったと転じられていき、「今、いのちがあなたを生きている」に帰らしめるのです。つまり存在の尊さに目覚めるのです。「いのち」とは「この私を成り立たせ、私を無条件に支え、愚かな凡夫と目覚めさせ、どんな状況でも生きる意欲をあたえるはたらき」です。阿弥陀のいのちです。

無分別の如来の呼びかけは、人間に意味を与えることではありません。阿弥陀さんの教えは意味を超えた教えです。意味を与えるのではなく、目覚めや気づきを与えてくださるのです。

まだまだわからないこともあるかと思います。しかし、「わからないから」聴聞するのです。どうぞお寺に来てください。ともに学びましょう。

蓮光寺報恩講2023 報恩講の夕べ 11月4日(土)

2024年3月17日公開

シュガーシスターズ コンサート

曲目
1. この広い野原いっぱい
2. ゴンドラの唄
3. この道
4. 童謡歌謡曲集(ほしとたんぽぽより)
 つゆ・こだまでしょうか
 みんなを好きに・おさかな  たいりょう・わらい
 ほしとたんぽぽ
5. 里の秋
6. 紅葉
〈アンコール〉
7. 赤とんぼ

「報恩講の夕べ」では4年ぶりにシュガーシスターズのコンサートが開かれ、美しく響く日本語の心のハーモニーに多くの聴衆か魅了されました。またピアニストの恩田佳奈さんの卓越したピアノの技術がハーモニーをより引き出してくれました。

シュガーシスターズのお二人から

朗読をして歌う独自のスタイルで・・・♪

聞いてくださっている皆様の眼差しと空間が優しくて、言葉と音楽が自然らに身体から湧き上がってきて・・・なんだかとてもとても幸せな時間でした。そして、やはり姉妹が揃ってこそ「シュガーシスターズ」!!

重なり合うハーモニーと心に「これこれ!」と何度もゾクゾクしながら、楽しみました。気心かよったピアニストの恩田佳奈ちゃんは、電子ピアノでも、秀逸!素晴らしかった!ありがとう!

ご縁に心から感謝しています。蓮光寺のみなさま、素敵な夕べをありがとうございました!

蓮光寺報恩講2023 晨朝法要 門徒感話 11月5日(日)

2024年3月17日公開

「晨朝法要」は、鳥のさえずる静かな朝の勤行でした。総代の河村和也さん、同じく総代の原惠子さんが感話をされました。

河村和也総代(釋和誠)

コロナの流行中はずっとZoom(ズーム)での参詣でしたが、四年ぶりに対面で報恩講におまいりすることができ、とても感動しています。広島の大学にいる自分の中に、いつも蓮光寺さんがあることを改めて感じました。

次号の『あなかしこ』の巻頭言に書こうかなと思っているのですが、通勤路の途中に大きなお寺があり、国道に面した大きな看板には「私+御縁=人生」とあるのです。なるほどそうかなと思いつつ、何か違和感を覚えました。

これは《私》に《縁》を加えたものが《人生》なのだというのでしょう。でも、聞法の中で、わたしたちは「業縁的な存在」であると教えられてきました。《私》は《縁》の中にあるのです。その《人生》も《縁》に包括されるものととらえるべきなのではないでしょうか。

自分の《人生》からすべての《縁》を切り離すことができたとしても、最後の最後まで手放すことのできないものがあります。それこそが「我執」であり「自我分別」なのだと思います。わたしたちはこれを持たずに生まれることはありえず、《私》はその迷いからは逃れることができないと教えられているわけです。

この看板がどのような思いで掲げられたのかはわかりませんが、この寺の掲示に記された等式について考えるうちに、わたしは阿弥陀さんの呼び掛けにあらためて気づかされたように受け取ることができました。それこそが、まさに「ご縁」というものだと感じています。

原惠子総代(釋尼惠真)

おはようございます。大逮夜法要の司会に続いて、感話を当てられるとは思ってもみませんでした。

先日、インドに行ってまいりました。日本とは時差が3時間ほどあるところです(インドのほうが遅い)。ホテルの窓から下を見ると、寺院のまわりでお参りをしている人々であふれかえっていました。お参りしてから仕事を行く人も大勢いたことでしょう。

その時ふと思ったことは、生活の中に宗教心があるのではなく、宗教心のなかに生活があるのではないかと。宗教心の中に生活があるということは、私たちから言えば、お念仏からいただいた信心のなかに私たちの生活があるということです。

私たちがジープを借りて乗ると、そこに知らない人が乗ってくるというたくましさにおどろきました。私の中にも、まだ眠っているものがあるのではないかと呼び掛けられているようでした。今日も一日よろしくお願いいたします。

蓮光寺報恩講2023 結願日中法要法話/御礼言上 11月5日(日)

2024年3月25日公開

結願日中法要
「南無阿弥陀仏のすがた」
牧野豊丸先生 (福井市・託願寺住職)

おはたらき

福井市から参りました牧野と申します。よろしくお願いします。

蓮光寺さんには、かつて2回ほど寄せていただいてお話をさせていただいたので、お会いした方もいらっしゃることでしょう。

さて、これからの時代、私たちは何をよりどころとして、どのように生きるかということの一番根本をはっきりしないとならないですね。浄土真宗、この「宗」というのは生きる中心を表しています。だから「私は浄土真宗の門徒です」と言ったら、「私はお念仏を中心に生きております」と宣言していることになるのです。

「門徒」とは、「教えを聞きます」という名前です。教えを聞くということによって、どういう生き方をするかということが「門徒」の名のりです。その門徒の生活そのものが発言や行動に表れたりするのです。

阿弥陀さまのおすがたは「方便」(ほうべん)というおすがたなのです。方便というのは「真実に導く手だて」ということです。本当は色も形もないのです。「法性法身」(ほっしょうほっしん)と言います。色も形もない「はたらき」ということです。そのはたらきが私をして生かしめる原動力となる。それが「宗」です。

私たちは何によって生きるのか、どこへ向かって生きるのか、なぜ生まれてきたのかということが、「宗」という問題に関わるわけです。そして、それによって生きた方のすがたこそが、阿弥陀さまのすがたを表しているのです。

北陸では、生活文化の言葉として色々な言葉があります。その一つに「おはたらきさま」という言葉があります。阿弥陀さまのことです。それから「ありがたい」「もったいない」「おかげさま」「お育て」「お気づかしめ」という言葉。お年寄りがよく口にされていたのです。私は、これは大事な念仏生活の言葉だと思っています。

「ありがたい」をサンキューという言葉に置き換えて今は軽く使っていますけど、「有ること難し」ということが「有り難い」ということです。「ありがたい」とは、私にいただけるはずのものでないことが、いただけたという驚きと喜び、感動の言葉です。それは、私の力では、阿弥陀さまの世界に近づくことはこれっぽっちもできない、この私のところに、阿弥陀さまの方から、そのおはたらきが私のところに届きましたと。私では知るはずのないことを知らせていただく、そのおはたらきを感じた、そのことの喜びと驚きを「ありがたい」というのです。

「正信偈」は、私にはいただけるはずのないことがいただけたという喜びの詩なのです。

今はちょっとお休みになっていますけども、日曜学校というのがありましてね。子どもたちが毎週来て、8時半から9時半ぐらいまで「正信偈」のお勤めをして、お話を聞いて、お菓子を食べて、ゲームしてという、そういうことをやっていました。小学校一年生の子もすぐ読めるようになる。歌を歌うようにね。すごいなと思います。

そういう子が、大人になって、しばらく「正信偈」から離れていたとしても、おじいちゃんやおばあちゃんのお葬儀だとかご法事に、お参りに来て「正信偈」を一緒にお勤めすると、きちんとできるのです。それが身につくということなのでしょう。小さいうちにそれが身についていると、年を取ってからもお勤めができるのです。

大人になって覚えることが難しいのは、頭で覚えようとするからです。子どもたちは「身」で覚えているのです。

「仏法は毛穴から」ということを言いますけども、難しい理論を理解して説明ができたとしても、その人がその教えによって生き生きとすることがなかったら、それは「宗」になっていないのです。皆さんも浄土真宗という「宗」をこれからいただいて生きていこうということを確認していただくのが、真宗門徒にとって一番大切な「報恩講」という御仏事の一番要となるところです。

恩ということ

「報恩講」という字そのものを考えてみますとね、「報」というのは「報いる」でしょう。「報いる」というのは「応える」ということ。「恩」というのは「めぐみ」とも読みますけれども、「恩」というのは、売ったり買ったりするものではないのです。恩は感ずるというところで成り立つのです。

では、どこで恩を感じられるか。これは宮城顗先生が、福井で私が関わっている教学研究所で講義をされたときに、こういう話をされたのです。「恩」という言葉は、「因」という言葉と「心」という言葉がくっついているんだと。「因」というのは、「もと」「種」ですね。

宮城顗先生は、長いこと教学研究所という京都の所長された後に、九州の大谷短期大学の学長を就任されました。その時、こういう経験をされたそうです。親御さんから学生に現金封筒が届いたときのことです。多くの学生は喜んで飲みに行ったりするのです。

ところが、そうではない子がいたというのです。その現金書留の封筒を見て、じっと考えながら大事にポケットにしまって、飲みに行ったりはしなかったそうです。その親元は、おそらくその学生にお金を送るのが大変だったのしょう。薄い封筒を大切に持って帰ったんだと。たぶんこの学生は、お金をもらうよりももっと大事なものをもらったんでしょう。私のために苦労してくれている親の、あるいは家族のことを思ったんでしょう。私を学校に通わせるために、どれだけ家族が無理したんかもしれません。お父さん・お母さんも普段の収入では送れないから、残業したのかもしれない。どんな苦労をしてくれたのかということが、そこから受け取られたのです。僕に現金を送ってくれた、そのもとを感じたのでしょう。それを「恩」というのです。お金をもらうという結果ではなくて、そのもとをいただいたのです。

そのもとを感じた人は、「さあ、飲みにいこうか」と、そんなことはできなかったのでしょう。だからそのもとを感じたものは、そのもとに応えていかなければいけないという生き方を、その学生さんは大事にされたのでしょう。「恩」という字の深い意味を、宮城先生は、このように話されておられました。

私たちも今、「恩」という言葉で、「報恩講」という御仏事をいただいていますけども、これは「仏恩」です。阿弥陀さまは、「はたらき」です。そして、そのはたらきは「すがた」として現れるというのです。

福井に吉崎という地名があります。そこに蓮如上人という方が4年間ほどおられました。その蓮如上人が、そこでたくさんのお手紙によるご教化をされました。これが『御文』です。今日拝読された「御俗姓」も、その御文の一つです。

今日ご紹介したい『御文』は、五帖目の第五通です。

「信心獲得すといふは第十八の願をこころうるなり。この願をこころうるといふは、南無阿弥陀仏のすがたをこころうるなり」というお言葉があります。

この『御文』は吉崎ではなくて、今の和歌山県の清水というところで書かれたといわれています。

面白い伝承がありまして、「信心獲得すといふは第十八の願をこころうるなり」と書いたら、そこから先が出てこなかったと。筆が止まってしまって、蓮如上人は悩んでおられたら、どこかから声が聞こえてきた。それは親鸞聖人の声だったというのです。その親鸞聖人ご自身がそこから続けられ「この願をこころうるといふは、南無阿弥陀仏のすがたをこころうるなり」と。だから五帖目の第五通の『御文』は、親鸞聖人と蓮如上人がお二人でつくった『御文』だといわれているのです。

何が言いたいかというと、蓮如上人の『御文』は、「当流」とか「聖人一流」とかいう書き方が非常にたくさんあります。それは、蓮如上人は親鸞聖人の教えを多くの人に伝えたいということです。その一つが「信心獲得すといふは第十八の願をこころうるなり。この願をこころうるといふは、南無阿弥陀仏のすがたをこころうるなり」の『御文』なのです。

ここで「南無阿弥陀仏のすがた」は、阿弥陀さまのおはたらきを表すおすがたです。阿弥陀さまは手が長いのです。長くて、手のひらに水かきがある。それは、一人も漏らさずに救うということです。そういうすがたとして表してある。それは、「方便」、つまり真実に導く手だてです。それが生きた人間の上にはたらくことが、そのすがたということなのです。

阿弥陀さまという仏像をご覧になっても、そのおはたらきに遇っているでしょうか。こういう仏像が、「これは鎌倉時代のものです」「室町時代のものです」と言って珍重がられて、美術館なんかに置かれるでしょう。ここにあるものと美術館にあるものと、どう違うのでしょうか。物だったら値段がつくのです。「なんでも鑑定団」に出したら、「ああ、鎌倉時代だから、これは何百万」というように値段がつくでしょう。つかんのですよ、本当のおすがたはね。

大事なことは、私自身がそこに手が合わさって念仏申すかどうかです。だから私自身がどう生き、どう手を合わせておるかということにおいて、「南無阿弥陀仏のすがた」というのが知らされるのです。

私たちも、800年も前に親鸞聖人の教えを聞いた方々がおられて、それが今日までそういうすがたに出遇ってくださった方々がいらっしゃったということが大事なことなのでしょう。そういうことが「おかげさま」、「ありがたい」、「お育て」とかいうことで表されているのです。

もう一つ、「もったいない」という言葉があるでしょう。この「もったいない」という言葉は深い言葉だと思うのです。「もったいない」は二重否定の言葉なのです。「勿体」というのは「体がない」ということですね。「体がない」というのは、そういう実体があるわけではない。だからこの木像に手を合わせても、木像を物だと思っていると、それは木の塊でしかないのです。それを「霊験あらたかである」とか、「これにお参りしたらご利益がある」とか、勝手に決めているのではないでしょうか。実体としては何もないよというのが「勿体」なのです。

その上にもう一つ否定の言葉をつけるのが「勿体ない」ということです。「勿体ない」というのは、実体があるわけではないけれども、そうだけではないといただく。つまり、手が合わさるということは、そこに南無阿弥陀仏のはたらきを感ずるという世界があるわけです。はたらきとしてここにましますのです。そして手が合わさって、「なんまんだぶつ」という声を私の上に呼び出してくださる。それが「もったいない」です。だから私の生活と私との関係を外して、阿弥陀さまがいらっしゃるわけではないのです。

自分を見ることができない

皆さんの家にもお内仏(お仏壇)があって、毎日生活しているしょう。福井とか北陸は、とても大きなお内仏があるのです。家を建てると、まずお内仏を新調した。それからいろんなものをそろえた。家を新築したらお内仏さんをまず入れるのだと。お内仏を入れて、初めて人間の家になると北陸では言われてきました。みんな朝には必ず手を合わせて頭が下がる。誰もが頭が下がる場所がある。それが「宗」です。その生きる中心を明らかにしてきたのが、真宗門徒の伝統的なお家のすがたでした。目が覚めたら、まずお内仏に手を合わせて、それから一日が始まるんだと。これは、私は大事な生活の順番だと思います。今は、家を建てたら、その次にガレージをつくって、車を入れてと、お内仏は優先順位が下がっているのが現状です。それは、悲しいかな、生活の中心がだんだん変わったということです。

私たちの耳は目や身は、娑婆のいろんなものを見ます。私たちの目は外を向いていますから、他人のことはよくわかるんです。皆さん、他人の悪口が上手でしょう。他人のことはよく見えるのです。

ところが、この目は一つだけ見えないものがあるのです、生涯。自分を見るということがない。お内仏に座るということは、鏡で自分を照らすようなものです。

「正信偈」で「邪見驕慢悪衆生(じゃけんきょうまんあくしゅじょう)」という言葉がありますね。どこかにひどいやつがいるなんてことを、親鸞聖人はおっしゃっていません。親鸞聖人は、これはまず私のことだとうなづかれたのです。

「邪見」というのは、傾いているよ、真っすぐではないということです。自分が傾いていることがわからんのです。傾いているよということを教えてもらうには、傾いてない人の言葉に出遇わないといけないのです。

昔、ビートたけしという人が「赤信号 みんなで渡れば 怖くない」という言葉をはやらせましたけどね。赤信号はみんなで渡ったら怖くないんだと。世間というのは、隣近所を見て、これで私の行動を決めるんです。だけどね、赤信号は赤信号です。怖くないというのは、麻痺しているということです。麻痺していることが普通だと思っているのを、傾いていると言うのです。阿弥陀さまはその私たちのあり方に問いかけるのです。その問いかけを聞き取ったということが、「おかげさま」「お育て」「おはたらき」「お気づかしめ」。それが阿弥陀さまのおはたらきに出遇ったということです。

幽霊になるために生まれてきたのか

葬儀は、遺体処理の場ではないのです。亡くなった方から大事なことを教えていただく、生きている者に対する大切なチャンスなのです。自分が生きているということを考え直す、大切な時間です、自分自身を問う時間です。

墓地というのは、昔は「南無阿弥陀仏」とか「先祖代々」とか、彫られていました。今や、「愛」だ、「月」だ、「星」と、自分の好き勝手な言葉をいっぱい書いているでしょう。

私は葬儀に参らせていただきますと、「次はあんただよ」と言います。仏教は、そういう教えなんです。あんたはいつ死ぬかわからん今を生きている。それを全て、損だ得だ、好きだ嫌いだと、そんなことばかりにうつつを抜かして、本当に生きたと言えますか、本当に死んでいけますかという問いが、亡くなった方から私たちに投げかけられているのです。

私たちは、「生」というものに○をつけて、「死」というものに×をつけているのです。しかし、親鸞聖人も蓮如上人もそうではないのです。生きている人間がどう生きるかということが、そこで問われたのです。その中で一秒も待ったなしということが「生死」ということ。生まれたら必ず死ぬということです。

皆さん、嫌なこと聞きますけど、明日の朝、必ず目が覚めるって約束できる人は手を上げてください。ちょっと勇気が要りますけどね。だけど私もここまで上がっているのです。皆さんも、ここまで上がっているでしょう。そんなことはない、明日まで生きている。私の手帳には、明日の予定も入っていますしね。1週間後も入っています。皆さんもそうでしょう。一年後も入っているでしょう。ひょっとすると三年後ぐらい入っているでしょう。

だけど何か縁にあったら、そんなものは吹っ飛ぶという今を生きているんです。大事なことは、今を生きているということがどうなのかと問われることです。どこへ向かって生きるかということです。そんなことは知らないから他のもので代用しようとするのです。それは、損・得、好き・嫌いの○になること。普通は、長生きしたいとか、お金持ちになりたいとか、もっと頭がよくなりたいとか、それが人間の目的であり、それが人間の価値だと思っているのです。

親鸞聖人が書かれた『教行信証』「行巻」に、『目連所問経』の引用があり、「豪貴富楽自在なることありといえども、ことごとく生老病死を勉るることを得ず」とあります。

生死(しょうじ)というのは、「迷い」ということです。迷いを迷いとも気がつかずに、迷って死んでいくのです。「豪貴富楽」という言葉がありますね。この言葉で表されているのは、私たちが勝手に思い込んでいる人生の成功とか目的ということでしょう。豪華な貴族のような生活。お金持ちのような富。そして快適な生活。私たちが求めている幸せだという内容でしょう。それは、必ず「生老病死を勉(まぬか)るることを得ず」というのです。

「生老病死」生まれた、年を取って、病気になって、死んでいく。それを「生死」と言います。年を取ることも、病気になることも、死ぬことも、原因は一つなんです。原因は「生」なんです。生まれてきた。生まれてきたということは病気になるということだし、生まれてきたということは老人になるということだし、生まれてきたということは死なないとならんということです。「生死」は一つなのです。

それが私たちの人生におこれば、「豪貴富楽」なんて吹っ飛んでしまう。そうでしょう。死ぬ間際にお金がたくさん入って来て、楽しいですか。死ぬ前にお金がどんと入って来たら、心配で死んでも死にきれないでしょう。それを幽霊と言うのです。幽霊になるために生まれてきたのかと問うているのが「南無阿弥陀仏」です。

幽霊というのは、足がないでしょう。足がないというのは、自分が立つ場所がない。幽霊を「見た」と言う人と「見ない」と言う人がいるということは、存在がはっきりしていないということです。存在がはっきりしなくて、足がないということは、私がいる居場所がない、大地がないということです。  居場所がなくて、生きておるか死んでいるかわからんような、それが幽霊なら、死んでからの幽霊よりも、もっと怖い幽霊がいるということです。自分が、損だ得だ、好きだ嫌いだと、そればっかりでいのちが終わってしまったら、それを幽霊と言うのです。

私が幽霊でないか。「あなたは本当に人間に生まれてきたのか、問うてください」というはたらきを阿弥陀さまのすがたなのです。私の生き方そのものが阿弥陀さまのおはたらきとしてあるかどうか、私自身が阿弥陀仏の願いを生きているかどうかということが、「南無阿弥陀仏のすがたをこころうる」ということでしょう。

だから私自身が阿弥陀さまの教えを聞こうとするかしないかということが一番肝心だと思います。念仏申す人たちの伝統があればこそ、私たちは今、合わすはずのない手を合わせ、申すはずのない念仏を申す今をいただいているのです。

わからないからお互いに聞法して育ち合う

教えは、わかったようでわからないですね。「よくわからない」と思ったときに聞くところがあるのです。それがお寺です。だからわからないと思ったら、お寺へ来て、この住職に尋ねてください。たぶんこの住職は一生懸命答えてくれると思います。「お育て」と言うでしょう。この住職を育てるのは、皆さんです。訳のわからないこと聞いて、初めて住職は育つ。この住職さんはそういう方ですから、安心して聞いてください。そして、この住職も皆さんをお育てするのです。それが法話をするということです。お互いが育ち合う、これが私たち真宗門徒の関係です。そのお育てのもとは、阿弥陀さまのご本願です。ご本願を聞いて、感ずることを話し合える場がお寺ということです。

親鸞聖人は、お寺(道場・講堂)はお育てをいただく自分を習う家とおっしゃっています。阿弥陀さんのおはたらきは光明として語られます。その光が私を照らすと「三塗(さんず)の黒闇をひらく」のです。「三塗」というのは、ここでは地獄・餓鬼・畜生という生き方を表します。私たちが迷っていることに気づかないまま生きているすがたを六道といいます。その最も悲惨なあり方が地獄・餓鬼・畜生ということです。一言で言えば、自分さえよければいい、他人なんか知らないと生きている日ごろの私たちの生きているすがたです。それは暗闇をつくっているのです。その最たるものが戦争です。お互いが苦しみの中に沈んでおる世界を、今、目の当たりにしていますね。

私はいつも思いますけど、阿弥陀さまの願いをプーチンさんをはじめ、いろんな政治家に聞いてほしいです。何のために人のいのちを奪うのですか。人のいのちを奪って幸せになる者は一人もいません。それが悲しいと気がついたときに、初めてその世界は本当の世界になります。戦争をしているときは、悲しいということすら言えない、そんな世界でしょう。それが「三塗の黒闇」というのです。

阿弥陀さまのお名前を「大応供」(だいおうぐ)ともいいます。この「供」というのは供養、「応」は応えるということです。供養は、讃嘆(さんだん)供養といわれます。讃嘆というのは、褒めたたえる、喜びたたえることです。だから「ああ、そのとおりだったな」と、そのことに気がついた人が、本当に喜んですることを供養と言うのです。

供養、人間が本当に喜べる、本当に願っている、そのこころに応じるというのは、応えるということです。阿弥陀さまは、人間の深い本当のこころに応えてくださるんだと。

だから阿弥陀さまにお願いごとしても応えてくださらないでしょう。「阿弥陀さま、長生きさせてくださいね」とお願いしても、「あなたの寿命の限り」としかおっしゃいませんからね。だけど深いところで私たちが願っていることは、あらゆるものが平等に救われたいという願いなのです。

先ほど御文さまの五帖目の第五通のことを申しましたけれども、五帖目の第九通では、「一切が平等に助かるすがた」と書かれています。つまり、「南無阿弥陀仏のすがた」は、一切が平等に救われるすがただと。そのことに「ああ、そうですね」と喜ぶ。それが「応供」という名前の阿弥陀さまなのです。

また阿弥陀様のお名前を「光炎王」ともいいます。ここにお灯明が掲げておりましたけれども、光と炎というのは、明るさと暖かさ。それに触れて、初めて人間は自分の暗さと冷たさに気づくのです。阿弥陀さまに気づいて、初めて人間の冷たさと暗さに気づく。冷たさと暗さに気づいたときに、初めて明るさと暖かさを求めるという人生が始まるのです。

どうか、朝、目が覚めたら、まずご飯を食べる前にお仏壇に手を合わせて、阿弥陀さまの声を聞いて一日を始めてください。そこに、どう生きるか、あなたはどこへ向かって生きているのかと問われる人生が始まる。「南無阿弥陀仏のすがた」とは、そういうところから私どもの道となってくださるんでしょうね。  私ども真宗門徒にとりまして最大の御仏事といわれるこの報恩講は、私のいのちそのものを問われる、そういう御仏事でありましたと受け取っていただいて、今日から何を一番大切に生きていくんだろうかと、あらためて静かにご自身の上に問うていただける、そういう時間にしていただければ何よりかと存じます。

今日のお話はこれで終わらせていただきます。どうもありがとうございました。南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。

御礼言上

2023年の報恩講が、例年と同様、土曜・日曜の一昼夜にわたり厳修されましたことは、わたくしども蓮光寺門徒一同、大きな喜びとするところでございます。

如来の御尊前、宗祖の御影前に、御満座の結願をご報告するにあたり、ご出仕・ご出講くださいましたみなさまに一言御礼を申し上げます。

ご法中のみなさまにおかれましては、懇ろなるお勤めを賜りまことにありがとうございました。日中法要では当派に伝わる本来の勤行が復活し、拙いながらもお勤めをともにしながら、その響きを懐かしくありがたく思ったことでございます。

昨日の大逮夜法要では、「私たちは阿弥陀さんの教えに遇うべき存在」の講題で当山住職の法話を聴聞いたしました。聞くことを通じてみ教えに触れ、これを日々の生活の中でいただき直すことの大切さを改めて思ったことでございます。地獄一定の凡夫としての歩みを堂々と進めて参りたく存じております。

報恩講の夕べでは、コンサートにシュガーシスターズをお招きしました。美しい歌声とハーモニーもさることながら、ことばの持つ大きな力に心動かされたことでございます。

本日、晨朝のお勤めでは、総代2名が感話をしました。日常の感懐や旅の感想をざっくばらんに語る空間のありがたさをしみじみと思った次第です。

また、満日中の法要では、福井県福井市より、託願寺ご住職の牧野豊丸先生にご出講いただき「南無阿弥陀仏のすがた」の講題でご法話をたまわりました。

「信心獲得すというは、第十八の願を心得るなり。この願を心得るというは、南無阿弥陀仏のすがたを心得るなり。」という御文をいただき直し、はたらきとしての仏に出遇うことは、わたくしたちの生活実践と不可分であり、わたくしたちが南無阿弥陀仏の願いを生きているかということが問われているのだということに気付かせていただいたことでございます。

「ありがたい」「もったいない」「おかげさま」「おそだて」「おはたらき」「おきづかしめ」といったことばに象徴されるものは、わたくしたちが弥陀のはたらきに出遇い、その光に照らされ、頭が下がり、手が合わさり、念仏申す姿なのだということを深く胸に刻んでまいります。

さて、今年の報恩講は、4年間続けてまいりましたオンライン配信を止め、完全に対面にて実施いたしました。のべでおよそ200人のご門徒におまいりいただき、もとの賑わいへの手がかりをつかめたものと確信しております。

個人的なことを申し上げることをお赦しいただければ、わたくしは、蓮光寺をおまいりするのは実に4年ぶりとなります。昨日・本日と、蓮光寺という空間に身を置き、わたくしがおまいりできずにいた間も、この寺は聞法の道場=ナラウイエとして確かにここに存在していたのだということを身体で確かめ、そのありがたさを痛切に感じております。

この4年のうちに、二度と会うことがかなわなくなってしまった法友もおります。悲しく寂しいことではありますが、ときは移り人はかわっても、なんとしてもこの寺を守り、南無阿弥陀仏の法灯を繋いでまいりたい、それが教えに生きた人とともにいつまでもあり続ける道であろうと思っております。この一念において、蓮光寺門徒一同、住職、坊守を先頭に、念仏三昧・聞法精進の生活を大切にしてまいります。ご出仕・ご出講のみなさま方には、変わらぬご指導とご鞭撻をたまわりたく、伏してお願い申し上げる次第でございます。

2023年の蓮光寺報恩講のご満座結願にあたり、ご出仕・ご出講くださいましたみなみなさまに重ねて御礼申し上げ、ごあいさつとさせていただきます。このたびはまことにありがとうございました。

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