蓮光寺報恩講2022 大逮夜法要法話 11月5日(土)
「生きることの意味づけ・価値づけからの解放
─かけがえのない存在の回復─」
蓮光寺住職
今回の法話のテーマについて

ようこそ、お参りいただきました。まだ人数制限をしての報恩講ですが、今年は人数を多少オーバーしまして、50名以上の参詣をいただきました。Zoomでの参加もいただいております。明日の結願日中も同じような参詣数で、コロナ下において、一昨年より昨年、昨年より今年と参詣者が増えてまいりましたことはまことにありがたいことと思います。親鸞聖人の御恩に応えるということは聴聞ひとつに極まります。ごいっしょに親鸞聖人が明らかにされた本願念仏の教えを聴聞してまいりたいと思います。
さて、仏教、殊に浄土真宗の教えは人間の自我を問題としているのです。自我というと難しいように聞こえますが、自分の思いとか自分の考え方、ものさしと言ったらいいでしょうか。もっと簡単に言うと「私」ということです。「私」と言ったら、それは自我といっていいでしょう。
自我は分別をしますから、意味があるかないか、価値があるかないか、役に立つか立たないと、日々自分にとって都合のいいものばかりを追い求め、思い通りになることばかりを考えていますから、かえって自分というものがわからなくなってくるのです。自我は常に迷いの構造と差別の構造を持ち合わせています。いつも申し上げていますが、特に近現代に入ってからは、自我が絶対化され、人間そのものを深く問うということがほとんどなくなってしまいました。
今日のテーマは「生きることへの意味づけ・価値づけからの解放」です。このテーマは、ずっと私の大きな課題なっているので、寺の聞法会でも時折お話ししていますので、お聞きになっているご門徒もおられると思います。「意味」というのは幅広く使われており、例えば、この漢字の意味は何ですかという使い方は別に問題ありません。ただ「生きることの意味」ということになると、やっかいな問題になります。さらに意味を固定化させるような「意味づけ」、この「づけ」が大問題なのです。
さらに言えば、「生きることへの~」の前に、「自我による」をつけたほうがはっきりしますね。やはり自我の問題に極まるわけです。そして副題は「かけがえのない存在の回復」です。生きることへの意味づけ、価値づけから解放されて、かけがえのない存在として生きることが私たちの大切な課題だということですね。
存在根拠の喪失
『大無量寿経』に「吾当に世において無上尊となるべし」とあります。「無上」とは比較を超えているということです。誰もが比較を超えて尊い、かけがえのない存在であるということです。私たちは、さまざまな縁によって、かけがえのない存在として生まれてきたのに、現実は、存在よりも何ができるかという行為が優先されています。特に経済至上主義のなかで生産性があれば生きる意味があるという現代の価値観に大きな問題があります。生産性があれば生きる意味があり、それを失えば意味がないという風潮が誰の上にも多かれ少なかれ蔓延し、かけがえのない存在、尊さが見失われているのではないでしょうか。
生きることの意味を経済にからめて考えると、簡単に言えば、使えるか、使えないかで、生きる意味づけ、価値づけをしていくということなのです。行為で人間の生きることへ意味、それも生産性に規定されて、労働力の担い手として経済的価値で人間の優劣が決められてしまいます。ですから、何か役割を果たすことで、それを自分として、自分の存在意義にしていくのです。「責任を果たす主体」を自分として生きることをアイデンティティの確立などと言われていますが、ここでいう「自分・自己」とは、経済社会のなかで評価される自己を指すのです。意味づけ、価値づけ、条件づけに適合した自分、それは立場を自己としているだけで、自分に付加価値をつけて、他人が自分をどう評価しているかが最大の関心事になってしまっています。評価される自己、それは自分なのでしょうか。自分でないものを自分として生きているのではないでしょうか。なぜなら、うまくいっているうちはいいですが、うまくいかなくなると自己責任として問われ、見捨てられてしまうのです。そうすると自分がなくなってしまうような錯覚が起こしてしまうのです。
そして「生まれてきた意味はない。生まれてこなければよかった」ということになっていくのです。
くり返しますが、その背景にはどんな人間も、かけがえのない存在ということが忘れ去られているのです。自我によって、かけがえのないいのちが見失われているということは、存在根拠、真のよりどころをもっていないのが多くの現代人ではないかと思うのです。ここに存在の孤独という問題があります。
こうして生きることの意味を求めて迷い続けている私たちを解放し、その私たちのあり方が愚かな凡夫であると気づきを与え、その気づきを通して生きる意欲(本願の意欲)を与えて、かけがえのないいのち、存在の尊さに帰らしめるのが、阿弥陀さんの教えなのですが、なかなか受け取れないのです。それほど自我は根深いのです。
人間の自我分別によって、生きることの意味づけや価値づけをしてしまうと、そうでない人、そこからもれてしまう人は生きている意味がないのでしょうか。生まれたことの意味はないということなのでしょうか。大問題です。
親鸞聖人が顕らかにされた阿弥陀さんの教えは、無分別の世界です。私たちみたいに分別はしないのです。無条件の世界、ありのまま、そのままの世界です。どんな人も、もっと言えば、動植物もみな存在そのものが尊いと教えられています。
私たちのいのちはどこから始まったかわからないぐらい、無始以来のいのちの営みのなかで、奇跡ともいうべく何一つ無駄もなくこの私になって生きているわけです。ですから人間も動植物もその大きないのちの世界から生まれて来た。無分別の無量寿の世界から生まれて来た。だからどのいのちも尊いのです。ところが人間だけが自我分別を持ってしまった。なぜでしょうかね。これは解明できませんけれども、でも自我分別を持ってしまったからこそ、迷いの私に気づかされて、懺悔(さんげ)と御恩を感じて生きていくことができるのは人間だけなのです。しかし、このことがなかなかいただけないのです。それぐらい私たちの自我はやっかいなのです。
今、ロシアがウクライナを侵略しています。戦争はいけないと言いながら、戦争を続けてきたのは人間なのです。そのうえ、核を広げてはいけないということが「善」として叫ばれていたのに、核を持たないと国を守れないから、核を保有することが「善」になりつつあります。人間の自我は、縁によって善悪の基準をコロコロ変えていくのです。まさに業縁を生きる愚かな凡夫です。そのことに気づかされないと、戦争はけっしてなくならないでしょう。自我では戦争をやめることはできないのではないでしょうか。人間に正義などないのです。そして、ここにも生きることへの意味づけ、価値づけがなされているのです。
罪福心と真実信心


自我で教えを聞けば、それはすべて罪福心です。宮戸道雄先生は「罪福心とは、災いをおそれ、幸福を招こうとする心で、自我の投影だ」と教えてくださいました。阿弥陀さんの教えはその自我を翻す教えです。ですから、思わず、教えが聞こえてくる、頭が下がるということがおこるかどうかですね。そこには自我が介在しないのです。
誰もが大きな病気に罹れば、完治しますようにと祈らざるを得ませんが、これは、やはり罪福心ですね。完治しても、病気をする身であることは何も変わらないのです。また病気をするのです。ですから阿弥陀さんの教えは、病気であっても、けっしてかけがえのない存在を失わずして、ありのままの自分を生きる力を与えてくださる。ただ治ってよかったという話ではなくのです。「病気をする身であっても、かけがえのない存在を失わずして生きるということがあるから、病気が治れば、それを本当に喜べるのです」と宮城顗先生のご著書に書かれておりました。私たちが求める宗教心はすべて罪福信です。ですから私たちが求める宗教心ではなく、私たちに求められる宗教心が本願念仏、つまり真実信心なのでしょう。だから教えが聞こえてくるとか、身に響くとか、そういう受け止めになるのです。
親鸞聖人は、本当に「救われがたき身である」と教えてくださいます。この人間の相(すがた)を「罪悪深重の凡夫」だと教えられてきたわけです。救われがたい身であることが救いに与る。論理的に矛盾しているようですが、要するに、救われがたき身であるとうなずかされたということは、真実にふれたからです。自分の今のあり方では救われないのだということが気づかされるのです。
親鸞聖人が凡夫の身である自分について、こう表現されています。「いずれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」という『歎異抄』第2章のお言葉です。
本来、どのような努力によっても、仏になることのできない身でありますから、どうもがいても地獄は私の必然的な居場所なのです。地獄が自分の必然的な居場所というのは絶望して言われているのではありません。また努力は無駄と言っているわけでもなく、凡夫性の深さを表現しているのです。地獄が必然的居場所と受け止めているということは、実は親鸞聖人の中から地獄は消え去っているのです。阿弥陀さんの呼びかけによって、自分の正体に気づかされ、その自分を受け止めたということです。それが教えが聞こえてきたということなのです。ですから、照らされた凡夫なのです。これが私たちに求められる宗教心(真実信心)なのです。

親鸞聖人から地獄が消え去っているということは、安田理深先生のお言葉で言えば、夢を見る必要もないし、絶望する必要もない、という世界をたまわっているのですね。そういう凡夫の自覚が、この言葉に表れていることを感じます。
親鸞聖人も比叡山で20年間も修行努力されたのです。一年や二年で山を下りたわけではありません。20年間修業をしても煩悩はなくならないのです。ですから、親鸞聖人ほど人間の正体を誤魔化さなかった宗教者はいないのではないかと思います。そして法然上人お念仏の教えに出遇われるわけです。
ですから、深い煩悩性に目覚めて、自分から出発する仏教から、本願から出発する仏教への転換が親鸞聖人の中に起こったのです。自分の思いが転じられて、阿弥陀さんの眼から人生を見直していくような、そういうような方向性が生まれてくるわけです。真宗の教えの要は、機法二種深信だと思いますね。機(阿弥陀さんの教化の対象となる衆生)の自覚からいえば救われない身であるけれども、法の上から言ったら救われがたき身と自覚することを通して本願の救いにあずかっていくのだと。そういうことだと思いますね。ですから、自我分別をやめて救われるということではないのです。自我分別を抱えたままで、それを超えた無分別(そのまま、ありのまま、無条件)の阿弥陀さんの本願念仏の世界(浄土)が私の上に開かれてくるのです。
人間関係の喪失と存在の孤独

一人ひとりがかけがえのない存在なのですが、生きることへの意味づけ・価値づけは、本来の人間関係をさらに崩壊させていきます。これにコロナがからんで益々関係性が見えなくなっていきます。
以前から、立てこもり事件はありましたが、ここ数年、数十件の立てこもり事件が起きています。ああいう立てこもり事件は、計画性がなく、単独犯行なのですが、必ず人を巻き込んでいくのです。事件を起こす背景に、定職がないとか、学力が上がらないなど、まさに、経済的価値による人間の優劣によって、生きることの意味づけから放り出された人が多いことが感じられます。
一つ代表的な例を挙げておきます。今年の1月に東京の渋谷の焼肉屋の立てこもり事件を起こした青年の言葉です。端的に言うと「生きている意味が見いだせず、人生に絶望したことが動機です」。この青年は、すごく真面目な人間だと報道されていました。どうもバイト生活をしていて、東京に職を探しに来たのだけれど見つからなかったのでしょう。だから「死刑になるために、立てこもり事件をおこして警察につかまろうと思った」ようです。彼は、焼き肉屋で悪さをする気はなく、悪さをするようにみせかけて捕まろうと思ったのでしょう。ですから彼は執行猶予で済んでいます。
しかし、なぜ人を巻き込むのでしょうか。彼を対象化してみるのではなく、私たちも縁さえあれば、彼と同じような気持ちになるかもしれません。それが人間なのです。まさに業縁存在です。
私が感じることですが、一つは「状況の孤独」ということがあります。彼の状況は孤独なのです。だから人との交わりの中でと考えたのかもしれません。しかし、その根には「存在の孤独」という問題があるのです。なぜなら、裸の王様と化した自我を絶対化して生きていますが、その自我が、人間の真の存在根拠にならないからです。
それから、「世間を恨んでいる」ということがあります。これは、むしろ秋葉原事件の犯人にあてはまるのかもしれません。勉強ばかりさせられ、人間関係が構築できず、SNSでも馬鹿にされて社会を恨んだわけです。また、学力が東大のレベルに上がらないから、東大前で受験生などを刺傷させた若者もいましたね。
そしてもう一つ、以前リストカットということが問題になりましたが、リストカットをすることによって、自分が生きているという実感が得られたのですね。そういう点から言えば、死刑になる前に、人を巻き込んで事件を起こすことによって生きている感覚を持ちたいと考えたのかもしれません。しかし、孤独であり、世間を恨み、生きている実感がないというのは、多かれ少なかれ、現代人が抱えている問題なのではないでしょうか。
その後、知ったのですが、焼き肉屋に立てこもった彼は「一時的に生きたというか、こういう人生を送ってしまったということを残したい」と言っていたのです。あとは警察に捕まって人生を終わりにしたかった。死んでしまいたかったということでしょう。3番目の理由でしたが、それ一色というわけでもないかと思います。いずれにしても生きている実感がないということは大変な問題です。「なんで生きているのか」と尋ねられると、ちょっとあとずさりしてしまいませんか。他人事ではありませんね。
一昨年でしたか、相模原事件のことをお話ししましたが、「障がい者は生産性がなく家畜同然だから、安楽死させろ」と生きることの意味づけをしてしまうと、そこまでできてしまう社会になってしまっています。いのちの峻別が行われているのです。
本当に、私たちは生まれた時から、「何ができるか」という行為に急き立てられて生きていて、存在そのものの尊さを学ぶことがほとんどなかったと痛感します。
別に悪いことではありませんが「大人になったら何になりたい」と言われたことがありますよね。また、そういうことを言ったりしていますね。悪いことではありませんが、やはり、気をつけないと、社会のレールに乗った言葉になってしまいます。
今日も出仕をしてくださったTさんが、ある学習会でしみじみ語っていたことを思い出しました。小学校でTさんの息子さんが、担任の先生に「あなたは将来何になりたいの?」と聞かれ、答えなかったそうです。帰宅してり、ご両親に「先生にああ言われたけど、特に何もなりたくないから困ってしまった。すぐ何になりたいって聞かれるんだ」と言ったそうです。私はそれを聞いて、Tさんの息子さんのほうが自然だと共感しましたね。それでいいのではないですか。もう10年以上前になりますか、朝日新聞の投書に「君は何になりたいですか」と尋ねられた5歳の男の子は、「僕は何にもならないよ。僕は僕になるんだ。」と答えました。当時大きな反響がありましたね。この男の子は、かけがえのない存在として大事に育てられたんでしょうね。まず存在ということがしっかりあって初めて行為ができるのではないでしょうか。存在の確かさがないところで行為をしてもむなしくなるだけではないでしょうか。男の子の言葉は、「うまくいってもいかなくても、すべてそれがありのままの僕なんだ」と聞こえます。子どもながら、存在根拠がしっかりしていますね。私たちの言葉で言えば、如来のいのちの世界に支えられ生かされているということでしょう。
『PLAN(プラン)75』の映画から教えられること

ところで、これだけ少子化が進んで超高齢化社会になっていくと、人間関係の歪みがさらに増してきます。非寛容な社会がさらに進んでいます。
そんな日本の近未来を描いた『PLAN(プラン)75』という映画が6月から8月にかけて上映されました。私も観ました。早川千絵さんという方が監督で、カンヌ国際映画祭の入賞作品にもなりました。こんな大切な映画は、ぜひ若い人といっしょに観てほしいのです。というより、若い人こそ観てほしい映画です。
「PLAN75」という名前から何が想像できますか。実は、75歳になったら死を選べる制度ができ、それをリアルに描いた映画です。死を選ぶということは、使えない人間には生きる意味がないということが「意味づけ」されていることが背景にあるのです。あきらかにいのちの峻別です。
倍賞千恵子さんが主役で、彼女はホテルの掃除婦として働いていましたが、同年代の人が掃除をしながら倒れてしまったことがきっかけとなって、年寄りはいらんと、ホテル側から年配の掃除婦が解雇されるのです。もちろん倍賞さんもその一人でした。彼女は子どもがいないし、夫は亡くなっていて、一人で生活していたので、なんとしても働かなければならないのです。一生懸命職を探すのですが、見つからない。それで「PLAN75」に応募してしまうのです。死ぬまでの間に、楽しいこととかいろんなことをスタッフがサポートしてあげるのです。そして死ぬ時期を決心した時に、要するに安楽死です(安楽死や尊厳死の世界共通の定義や概念はありません)。ベッドに横になって管をつけられて、死に至るための何か薬物を入れられているのでしょう。こうして高齢者が死んでいくのです。ところがこの制度に関わった若いスタッフたちが次々と疑問を感じていくのです。倍賞さんを担当した若い女性スタッフは、倍賞さんが死を選択した日に、必死に止めようと電話をするのですが、つながらなかった。この女性スタッフはがっくり肩を落とすのです。このように高齢者と接したこの女性スタッフは、いのちの尊さを痛感していくのです。
また別の若い男性スタッフは、20年来会ってなかった叔父、自分の父親の弟ですよね。父親の葬式にもこなかった叔父さんですが、「PLAN75」に応募してきたのです。親族関係にあるから、その叔父の担当はできなかったけれども、個人的に叔父と接していくうちに、叔父が死んでいくことについて、だんだん疑問を持つようになっていくのです。安楽死した叔父は、集団火葬されるのです。彼は、せめて集団火葬はさせたくないと、叔父の遺体を車に乗せて火葬場に向かうのです。
このように 「PLAN75」の若いスタッフたちが、存在の尊さを痛感していくのです。倍賞さんは自分から管を抜いて、生きようと、「PLAN75」から去っていき、夕日を眺めながら歌を歌っているところで映画が終わるのです。そろそろYouTubeやアマゾンプライムなどで上映されるかもしれませんので、ぜひ視聴してください。
この映画を通じて、早川千絵監督は何を伝えたかったか、もうおわかりだと思います。
早川さんは「社会的に弱い立場にいる人に差別的な発言があったり、自己責任という言葉が幅をきかせたりして、なかなか人に助けを求められない社会になっている実感があるので、生きている価値とか意味ではなく、生きていること自体が尊いということを伝えたかった」と力説されています。「生きている価値とか意味ではなく、生きていること自体が尊い」とはっきり言い切られています。「無上尊」ですね。どのいのちもつながり合い支え合っていかされているのです。自我を超えた真実が早川さんの上にはたらき出ているように感じます。この映画は非常に現代の歪みとつながっている内容ですから 、どんな人たちも実感できる映画なのです。
早川さんは、阿弥陀さんという言葉を使っているわけではないけれども、真実のはたらきというものを感ずる人がやっぱりいるのですね。自我だけでは、早川さんの言うようなことは、言えないと思いますね。人間は愚かさに対する懺悔というか、早川さん自身が感じていないと、こういう映画は作れないと思います。意味つけや価値づけによって、生死流転(迷い続けること)している衆生を解放していくのは、生きていること自体が尊いということに目覚めることなのだということが強烈に伝わってきます。ですから浄土真宗の人であるかないかは全然問題ではないのです。
私たちにとって、存在の尊さを回復していくには、教えに生きている人、やはり得道の人に遇うことが大切です。 聴聞し、得道の人に遇うことを大切にしていきたいものです。
作家青木新門さんの生きざま

これに関連して、世の中ではじき者になっても存在根拠を持っていれば生きていけるということを証明した作家の青木新門さんが8月6日に亡くなったのです。すぐ弔電打ちました。お別れ会は都合がつかず失礼しました。青木新門さんとはもう20年来のお付き合いで、このお寺にも4、5回も来ていただきました。『納棺夫日記』が代表作品で、映画『おくりびと』はこの本が原版として制作されました。でも新門さんは『おくりびと』で自分の名前を出なさいでほしいと言ったそうです。なぜかというと「いのちのバトンタッチ」が描かれていなかったからです。でも新門さんを尊敬する本木雅弘君(もっくん)によって、その名を広く世に知られることになります。真宗の葬儀はいのちのバトンタッチです。私の中に亡くなった父の存在が生きているということは、いのちのバトンタッチをしているからです。
NHK「こころの時代」の番組を収録する時に、インタビュア金光寿郎さん(2020年1月還浄)が、「新門さんとのインタビューはお寺が似合う」と言われ、新門さんが「では、東京の亀有の蓮光寺でやりましょう」ということで、うちの寺で収録しました。見に来た人もいるかと思いますけれども、まだホームページに載っていますから、関心のある人は見てください。
新門さんのすごいところは、仏法を知的理解せず、生活の中からいただいていった人なのです。その新門さんも、生きることの意味づけ、価値づけという点で言えば、世の中に見捨てられた人なのです。それがどのように存在根拠を持ったかということですね。彼は失業中に、好きな人ができて子供が生まれました。だからすぐにでも仕事を探さなければなりません。これも縁ですね。たまたま新聞を見たら、葬儀社が社員を募集していたのです。そして入社しました。職務は、遺体を洗うことでした。納棺夫という名前は彼の時につけられたのではないかと記憶しています。
富山というと真宗王国ですが、真宗だけではなく色々な宗派も俗信もあります。それで新門さんが遺体を洗う仕事をはじめたことで親戚は総スカン。付き合っていた人も離れていくんです。死をタブー視している社会、そこには死に対する穢れ感などを持ち合わせていますから、遺体を洗う新門さんから遠ざかっていったのです。何も悪いことをしていないのにつらかったのだと思います。
ところがそこに自分の存在を丸ごと包むそういう世界に次々出遇っていって、その世界は、実は親鸞聖人が最初から言っていたことだったと、あとからそれは気がつくのです。
『納棺夫日記』に「人を恨み、自分の不遇を恨み、すべてが他者の所為だと思っていた人間が、己をまるごと認めてくれるものがこの世にあると分かっただけで生きていける。死をタブー視する社会通念を云々していながら、自分自身その社会通念の延長線上にいることに気づいていなかった。」
こう自覚された最初の出遇いは、昔の彼女のお父さんの遺体を洗っていた時のことです。新門さんもお金のためにいやいやしていた仕事でしたが、遺体を洗いながら汗がぽたぽたしたたりおちてくるのです。それを彼女が、そっと新門さんの汗を拭き続けてくれ、洗い終わると丁寧に新門さんにお礼を言われたのです。遺体を洗うことで差別を受けていた新門さんにとって、彼女は死穢などまるで感じずに、父の体を洗ってくれる新門さんに感謝の気持ちをもって汗を拭いてくれたのです。そこには交換条件も、取引もありません。自分が無条件に包まれている世界に出遇い、それだけで生きていけると感じられたのです。存在根拠をいただいたわけです。実は、その部屋には、死の穢れなど一切ない世界である浄土を新門さんは感じ取ったのです。このはたらきが阿弥陀さんだったということはあとから知るのです。それだけにとどまらず、世間を恨んでいた自分も社会通念の延長上で生きていたことに気づかされ、愚かな凡夫と自覚されたのです。
「自分の全存在を丸ごと認めてくれるものに出遇うと生きていける」新門さんは何というすばらしい世界を賜ったのでしょうか。現代の社会はまるごと認めるという力が弱くなっているのではないでしょうか。
今まで、普段着で遺体を洗っていた新門さんが、ネクタイをして白衣を着てアタッシュケースを持っていくようになったのです。死は人間が必ず通る道であり尊いお姿といただいて、亡くなった人を丁寧に拭くのです。

その後の新門さんは「死者の顔が光って見えた」とおっしゃっています。光っているというのはピカッと光っているわけじゃないです。光とは自我がひっくり返るということです。「正信偈」にも十二光が出てまいりますね。十二の光明は、阿弥陀さんの智慧のはたらきですね。新門さんは、遺体を洗うたびに愚かな自分が照らされていたのです。さらに「蛆も生命なのだ、蛆も光って見えた」と書いてあります。死後、何日か経ったおばあちゃんの遺体を洗いに行ったときに、もう蛆がわいていたんですね。普通なら汚いと思うでしょう。ところが蛆も繋がり合ったいのちだと新門さんは教えられたのです。つながり合い支え合ったいのちの世界。無条件のいのちの世界。そう感じると蛆たちも光って見えたのです。
新門さんは「死者の顔が光っていた、蛆(うじ)も生命なのだ。そう思うと蛆たちが光って見えた。死者たちの顔の光顔巍巍(こうげんぎぎ)たる様子に気づくまで仏法に出遇うことがなかった。『大無量寿経』にある如来の光顔巍巍の様子と阿難がその光に気づいたことを如来が褒めたというそのことだけで、親鸞聖人はこの『大無量寿経』を真実の教えであると断定される。私は、この親鸞聖人のとらえ方に、言い知れぬ感動を覚えました。そして親鸞聖人の思想が、実践に裏打ちされていることを確信しました。どんなことがあっても平気で生きていける(ありのままの自分を生きる)ということは、光に出遇う、つまり自我(自分の思い)がひっくり返るということがなければ言えません。それは阿弥陀さんと共にあるからできるのであって、自分の力ではけっしてできないのです。」と語っておられました。
新門さんは、苦悩を通して、阿弥陀さんの教えに出遇い、真の存在根拠を与えられた人生でした。
新門さんが一番嫌いな親戚のボスのおじさんが危篤となり、しぶしぶお見舞いに行ったら、ちょうど目がさめていて、そのおじさんは新門さんに手を差し伸べて「ありがとう」と言われました。自分が死を受け入れたときに、死の穢れが消えていたのでしょう。だから嫌っていた新門さんに「ありがとう」と言ったのでしょう。新門さんは「おじさん、ごめんなさい」と土下座したそうです。それは自分も死をタブー視していた人間の一人であり、おじさんを恨むどころか、死を受け入れたもの同士が感応道交する世界が開かれていたのでしょう。どっちがいい、どっちが悪いという自我世界を超えています。病室はまさに浄土の世界でありました。
「生と死が限りなく近づくか、あるいは生きていながら死を百パーセント受け入れられたときに、まったく今まで見えていた世界と違う世界、蛆も砂利も雑草もあらゆるものが光って見える世界(つながり合ういのちの世界)が眼前にあらわれるのではないでしょうか。そのとき、人は必ず柔和になって、必ず『ありがとう』という言葉が出てくるのですね」と新門さんは語っておられました。
ですから、葬儀はいのちのつながりを感じ、いのちのバトンタッチをするところです。例えて言うと、駅伝で、あれはタスキですけれども、一人の先頭ランナーが走っても、そのランナーの人生があって、そのランナーを支える人、いろんな人がタスキにこめられている。そのいのちのタスキを次のランナーが受け継ぎ、最後にアンカーがそのいのちを全部いただいて走り抜くんでしょう。こういういのちのつながりの中に私たちは生かされているわけです。ですから死とはいのち存在の故郷である浄土に還っていくことですが、新門さんの存在は私の中に生き続けています。なぜなら私のいのちは如来のいのち世界(浄土)とつながっているからです。
自分の存在に感動して、人生を全うした篠﨑一郎さん

この5年間で同年代の大切な法友が2人亡くなりました。一人は田口弘さんでもう何度もお話をさせていただいております。そして、もう一人は、住職の片腕と言われた篠﨑一朗さんです。今年の6月10日に63歳で浄土に還られました。代々蓮光寺の門徒で、念仏者のおばさんに影響を受けた方です。念仏相続は大切ですね。蓮光寺の教化委員幹事として、私を支え、多くの人に影響を与えた人です。篠﨑さんは37歳の時にステージ4の末期の胃がんが発見され、生存率が0%に近い状況だったでしょうか、有名な病院のお医者さんですら「1年間、自由に楽しませてあげてください」と言われたほどです。とにかく必死に治療に専念され、ホリスティック医学の第一人者の帯津良一先生とも出遇い、奇跡的に快復されました。その時は治療で頭がいっぱいで、もし亡くなっても阿弥陀さんが救ってくれるだろうという程度にしか考えられなかったそうです。
しかし快復後、再発の危険性が非常に高かったので、この不安が篠﨑さんを聞法の世界に呼び寄せたと言ってもいいかもしれません。不安の中で聞法を続けていくうちに、彼は大切なことを教えからいただいたのです。再発の不安の中で、阿弥陀さんの教えが響いてきました。癌生活から阿弥陀さんの教えとの出遇いを書き綴った『人生に何一つ無駄はない』(東本願寺出版)は多くの癌患者が阿弥陀さんの教えにふれる縁を生み出し、どんな人生を歩もうとも、かけがえのない人生を生き抜く相(すがた)を私たちに示してくださいました。「どんな状況にあっても、だれにも代わってもらえない、代わる必要のない、尊い存在として、そのままの私を引き受けよ」という阿弥陀さんからの呼びかけをよりどころとして、聞法ひとすじの人生でした。
篠﨑さんは昨年6月以降急激に体調が低下し、酸素吸入の生活を余儀なくされました。今まで年中お寺に顔を出していたことが適わなくなり、それでも一番大切な報恩講に一座だけでも参詣したいと、なんとか大逮夜法要だけ対面で参加してくださいました。
報恩講の準備も運営にも携わることができない悔しさもあったでしょうが、篠崎さんは「そこで感じたことは、今まで当然と思っていたことが、こんなにも有難い事だったんだと再認識させられたことです。大逮夜法要や法話のリアル参列の空間というか、その空気は何にもまして厳かな気にさせられ、一年を振りかえり、自分の置かれた現在の身が不自由を抱えながらも、こうやって蓮光寺の阿弥陀様の前に立つ厳かな空間という〝場〟が、人間を育てていくのだと実感させていただきました」と語られています。
この言葉は、篠崎さんとの出遇い直しを通して、その真意が明らかになってきました。まちがいなく、篠崎さんは最後の報恩講になるという覚悟で参詣に来られました。蓮光寺の本堂という場で、いっしょに聞法してきた法友と語り合うことで、自分の人生を振り返り、どんなぼろぼろになった自分でも、やっぱり阿弥陀さんはそのまま受け止めてくださる。だから、今の自分のままで「これでよし」という深い感動を覚えたのでしょう。「人生に何も無駄はない」ということを、報恩講でいただき直した篠崎さんの慶びの相(すがた)が目に浮かびます。阿弥陀さんの願いに生きた篠﨑さの死は、生の円成、やはり存在の成就であったと教えられました。これからも篠崎さんとともに生きていきたいと強く感じたことです。

篠崎さんは真宗門徒ですが、早川千絵さんのように、やはり自我を翻す世界をもっている人がいますから、如来は一切衆生にはたらきかけていると思うわけです。如来は群生海の心ですからね。苦悩するすべての人間の上に本願がはたらいているのですね
くり返しますが、生きること(意味づけ、価値づけをして、迷い続けている私たちを解放し、その私たちの在り方が愚かな凡夫であると気づきを与え、その気づきを通して生きる意欲(本願の意欲)を与えて、存在の尊さに帰らしめるのが、阿弥陀さんの教えなのです。
今日のテーマの総括は、志慶眞先生のお言葉、これに尽きると思います。「如来の呼びかけに出遇うことによって、自分の思い、つまり『意味』を超えた世界が開かれるのです。私も長年、何が問題かということがわからないまま『意味』を求めて苦しんできました。しかし仏教にうなずくということは、意味を求める必要のない、そのままでいいという世界が開かれるということだったんです。その如来のはたらきに支えられ育まれ生かされていることに目が覚めた時、苦悩の人生は生きるに値すると確信しました」
苦悩の人生は生きるに値するんだと。素晴らしいですね。苦悩するということが本願に出遇っていくことなのです。自我分別の上に本願の世界、浄土が開かれてくるのです。誰もが意味を超えて、存在の尊さを感じられるということを私は確信したということは、自分が救われるということは、全ての人が救われているということなのです。個人の救いではない。一切衆生の救いが阿弥陀さんの願いなのです。
ですから「吾(われ)当(まさ)に世において無上尊となるべし」と、『大無量寿経』に教えの要が述べられているのです。
安田理深先生「いちいちの衆生に唯我独尊の自覚を与える、それが仏教です」と言い切られておられます。ただ私が一人尊いというのは、つながり合って、支えあっているいのちですから。どのいのちも尊いということですね。それが私自身の上に感じるということでしょう。その自覚が与えられることが仏教です。困ったことが困らなくなるとか、そういうことは一言も言ってない。どこまでも苦悩の人生を、罪悪深重の凡夫と自覚することを通して、生きる意欲が与えられてくる。それは存在の尊さ、どんな状況にあっても見失うことはない、そういう世界を賜わり続けるということでしょう。終わりなき歩みをさせていただくことが大切ですね。
慶讃テーマと御遠忌テーマ
来年の3月、4月に「宗祖親鸞聖人御誕生八百五十年・立教開宗八百年慶讃法要」が本山で厳修されますが、「南無阿弥陀仏 人と生まれたこと意味をたずねていこう」が慶讃テーマとなっています。この慶讃テーマですが、当初、私自身、これを見たときピンとこなかったというのが正直なところです。うちのお寺の聞法会でも、門徒さんが聞法を通して様々な受け止めをされております。その受け止めのいくつかを紹介しますと、「南無阿弥陀仏は、意味を超えた教えではないのか。意味がある、ないは人間の分別から出てくる言葉であるから、無分別の南無阿弥陀仏の教えが人間に意味を与えるということはないのではないか」

この受け止めは志慶眞先生の言葉に通底していますね。それから「念仏は自我の闇を照らし、自我を翻していく教えだから、人間に自覚を与えるのではないか」などです。
テーマに対して疑問や問いを持つことは大切なことです。では一体、この慶讃テーマは何を呼びかけているのか、さらに聞法を通して、明らかにしていくことが大切ですし、今日の私の法話からも、皆さん、感じられたことがあるのではないかと思います。
同朋新聞に連載されている「人間といういのちの相」の願いは、このテーマと宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌テーマ「いのちがあなたを生きている」の学びを深めるためと書かれています。一見、まったくちがったテーマに見えるのですが、この二つのテーマは深い不離の関係にあるということです。
意味(づけ)を求めて生きざるを得ない人間の関心に大悲をもって寄り添って、「人と生まれたことの意味をたずねていこう」と阿弥陀さん(南無阿弥陀仏)が呼びかける。そうすると、私たちは「阿弥陀さんは、何か意味をあたえてくれるのだろうか」と教えに訪ねていく。ところが教えを聞いていくうちに、阿弥陀さんは私たちに意味を与えてくださるのではなかったと気がつかされていくのです。それによって、意味(づけ)において流転する「機」があぶりだされ、「今、いのちがあなたを生きている」の世界に私たちを帰らしめてくださるのです。
「今、いのちがあなたを生きている」、このいのちは如来のいのち(本願念仏)といただいています。そこにうなずくかは一人ひとりの課題ですが。本願が私の主体となってくださるのですが、私たちはどこまでも自我分別をもった凡夫です。私が阿弥陀さんになるのではない。ここはまちがえてはなりませんね。曽我量深先生は「如来は我なり、我は如来にあらず。如来、我となって我を救いたもう」と的確に述べられておられます。無分別の世界にふれて、凡夫の自覚を通して、ありのまま、そのままの私を生き抜くていく力を賜る。それが「今、いのちがあなたを生きている」ということですね。ですから、意味(づけ)や価値(づけ)において、迷い続ける人間を、そこから解放し、凡夫の自覚を通して、かけがえのないいのちを生き切る意欲が与えられること、まさに無上尊をよびかけるのです。阿弥陀さんが意味を与えるなら、その意味からもれた人たちはどうなるのでしょうか。阿弥陀さんは、人間に意味を与えることはありません。
私たちは、もともと尊い存在として生まれてきていますが、人間は自我分別をもっているがゆえに「生苦」(生まれる苦しみ)を抱えて生まれてきます。だから意味づけや価値づけから一生出られず、意味(づけ)において、生死流転(迷い続けること)をくり返す私たちに、「気づき」、「目覚め」をあたえて、存在の尊さに帰らしめるはたらきが阿弥陀さんの教えです。
ですから、阿弥陀さんは、人間に意味を与えてくださるのではなく、「気づき」と「目覚め」を与えてくださるのです。

私は、慶讃テーマは如来の大悲による善巧(ぜんぎょう)方便とおさえ、方便を通して、宗祖御遠忌テーマに帰せしめるといただいているわけです。方便とは、うそも方便ということではありません。方便とは真実に導く手立てをいうのです。私たちのような凡夫は、方便なくして真実にふれることはできないのです。慶讃テーマと御遠忌テーマの不離の関係を見ればうなずかされることと思います。
「浄土三部経」がそうなっています。真実の教『大無量寿経』(第十八願)から、方便の教『観無量寿経』(第十九願)と『阿弥陀経』(第二十願)が説かれ、人間のあり方に合わせて、『観無量寿経』・『阿弥陀経』を説きながら、最終的に第18願に帰せしめるのです。
慶讃テーマは第十九願の世界であり、如来の大悲による方便(善巧方便)によって、宗祖御遠忌テーマ(第十八願)に帰せしめるのではないでしょうか。
最後は少し難しいことを話しましたが、今後も聞法生活を大切にしていきたいものです。ご清聴ありがとうございました。