報恩講写真特集
2018年11月17日公開
今年から報恩講は11月の第1土日(今年は3日、4日)に行われることになりました。
報恩講は、清掃奉仕から始まります。清掃奉仕は10月27日(土)に行われました。掃除を徹底し、立派なお荘厳になると、いよいよ報恩講です。両日とも沢山の参詣者で満堂となりました。
今年は北海道で地震があり、胆振地方は大きな被害を受け報恩講の中止を余儀なくされた寺院や、準備不十分の中、ご門徒との協力で何とか報恩講を勤めた寺院もありました。当たり前のように、毎年報恩講が勤まると思い込んでいた私たちは大きな衝撃を受け、何でもない日常があたりまえではないことを教えられ、懺悔に満ちた報恩講になりました。報恩講の参詣者で、北海道のお寺に寄付活動を行い、私たちの気持ちを伝えることにしました。寄付は、おかげさまで100,742円集まり、安平町の大谷派寺院に郵送し、寺院や地域のために使っていただこうと思っています。
3日の大逮夜法要では、「縁を生きぬく意欲が与えられる教え」をテーマに蓮光寺住職が法話。むなしさや孤独を抱える迷い深き私たちに、念仏の大きないのちのはたらきに出遇うとは、どういうことかを問いかけました。
その後の「報恩講の夕べ」では、津軽三味線ユニットの“あんみ通”のトーク&コンサートが開かれ、参加型の楽しく、かつユーモラスなコンサートになりました。終了後、ご門徒は、お持ち帰り用弁当を手にお帰りになりました。
4日の晨朝法要では、8月に大谷派教師試験に合格した櫻橋淳さんが2年連続の感話、そして、北海道函館の萬年寺坊守の鷲山澄江さんが感話。従来2名の感話ですが、鷲山さんの「蓮光寺さんのご門徒の感話をもっと聞きたい」との願いに応え、河村和也総代と原惠子総代が、それぞれ感話。サプライズに満ちた晨朝らしい法要でした。
日中法要(ご満座)では、「弥陀の本願信ずべし」をテーマに、福井市託願寺住職の牧野豊丸先生が、去年の真夏の法話会、蓮光寺旅行会に続いてのご法話。真宗門徒の生活、宗風とはどういうものかを改めて問われ、弥陀の本願から一人ひとりが照らされて生きていくことの大切さを痛感したことです。
御礼言上は、河村総代が蓮光寺門徒を代表して御礼の言葉を述べました。蓮光寺住職、坊守、草間総代、原総代、櫻橋蓮光寺衆徒が、河村総代を囲むように座り、河村総代は、報恩講の総括と、牧野先生をはじめ、出仕してくださったご僧侶にお礼を申し上げました。ご僧侶方は「おめでとうございます」と言葉を返され、「恩徳讃」にて、報恩講が円成いたしました。
その後、お斎があり、ご門徒は手作り精進料理を食べながら、報恩講をふり返っておられました。法話は後日掲載しますが、まずは写真でお楽しみください。
なお、来年(2019年)の報恩講は11月2日(土)、3日(日)です。
報恩講「大逮夜法要」 11月3日(土)
2019年3月14日公開
法話: 蓮光寺住職
「縁を生き抜く意欲が与えられる教え」
縁を生きる存在
皆さん、ようこそお参りくださいました。今年から報恩講は11月の第1土日に変更になりました。
実はまちがえて、今までの2日、3日と勘違いをしてお寺に来られたご門徒が数名おられました。第1土日が浸透するのは少し時間がかかるように思いますが、わざわざ足をお運びくださっていただいておりますので、くれぐれもお間違えのないよう、よろしくお願いいたします。
毎回、色々とテーマを掲げていますが、どんなテーマであっても、根本問題は同じです。私たちは生きている限り、迷わざるを得ないし、苦悩せざるを得ないのです。ですからその私たちの迷いの根本的なあり方を自覚せしめ、ご縁によって与えられたいのちを貫徹していく、それが南無阿弥陀仏の教えだと思います。
私たちは、縁を生きる存在、縁に出遇う存在なのですね。すべてご縁なのです。今日、お寺に来られたのは風邪をひかなかったからかもしれません。葬儀で死すべき身をどう生きるかを問われ、今日来られたご門徒もいらっしゃいます。それは大切な方の死が縁となっているわけです。北海道では地震の影響で報恩講が勤められないお寺もあるそうです。とてもつらいことですが、これも縁ですね。北海道の状況を見ていると、こうして毎年報恩講を勤めることがあたりまえになっている私は、その傲慢さに気がつかされました。これもご縁です。報恩講で無二の勤行を勤めるありがたさを北海道のご門徒から教えていただいきました。ですから恩返しというわけではありませんが、2日にわたる報恩講に参詣くださったご門徒、そしてご僧侶の方々にも北海道安平町のお寺に寄付をお願いしたことです。
私たちは縁を生きる存在です。でも自分にとって都合の悪い縁に出遇った時はどうでしょうか。とても受け入れられないのが、悲しいかな、私たちのすがたではないでしょうか。事実を受け止めて生きるということは、言うは易しで、本当は受け入れがたいのではないでしょうか。その程度が重くなればなるほど受け入れられないのです。しかし、それは道理(真実)から外れているわけです。
大きないのちのはたらきの世界
お念仏の教えは、その事実から出発しなさいと呼びかけるのです。生きるということは私たちの思い通りにはならないのです。ですから、どんな縁が与えられようと、自分の身の事実に立って生きていくことが救いなのです。これが本当のご利益です。ところが、思い通りになったことがこまらなくなることがご利益だという我執が根深く、自分の思いに振り回されている私たちには「はい、そうですね」とはなかなか言えません。
でも、よくよく胸に手をあてて考えてみましょう。思い通りにならないことのほうがはるかに多いのが人生はないでしょうか。もちろん可能な対策は必要でしょうが、対策では間に合わないことが次々と起こってくるのが人生です。だとするならば、誰もが心の奥底では、どんなご縁に出遇っても、その事実を受け止めて、本当に生き抜いていくような、そういう励まし、そういう意欲を与えてくれるような大きないのちのはたらきの世界(真のよりどころ)を求めているのではないでしょうか。
そのいのちのはたらきの世界を感じた人の歴史が、そのまま仏教なのです。この世界は目に見えないし、色も形もありません。というと、もうわからなくなりますね。たとえば、こう考えてみたらどうでしょうか。愛情の世界はどこかにあるわけではないでしょう。色も形もありません。それを感じた人が、それを「愛情」とか「愛している」と言葉にしてきたのです。愛情のそれを感じた人、受け取った人の上にはたらいているわけです。それと同じで、いのちの大きなはたらきの世界を感じた人たちが、阿弥陀如来とか本願、念仏、浄土という言葉を使いながら、教えとして伝えてきたのです。
そこがはっきりしないと、例えば、浄土というと、どこかにあると考える。あの世のことだとかね。そういうことではないのです。どこまでも私たちの迷いを自覚させ、どんな縁に出遇っても生きていける意欲をあたえてくださる、そういうはたらきの世界を浄土と表現したのです。言葉は難しいですね。浄土に生まれると表現すると、どこかにあるように聞こえますからね。浄土に生まれるというのは、浄土の世界にふれる、浄土の世界につつまれて生きる、そういうふうに自分の言葉で表現してみるといいと思います。
親鸞聖人は760年近く前に亡くなっています。ですから私は会ったことなどもちろんありません。親鸞聖人の命、この漢字の「命」はとっくに尽きてしまいましたが、親鸞聖人が伝えてくださった教え、つまり、ひらがなの「いのち」は、多くの人の支えとなって私にまで届けられているのです。だから、親鸞聖人のいのちといつも出遇い直しをさせていただいているのです。その親鸞聖人もいのちの大きなはたらきの世界のなかで生きられたのです。そういうようなご縁をいただいていると感じることはとても大切ですね。ですから、私は皆さんに、特に葬儀の時の法話では、亡くなった人と出遇い直しをしてくださいと申し上げるわけです。
「いのち」は根源的につながっていて合っている一つの世界であり、この私を無条件に支え、そして生きる意欲を与える、それが「大きないのちのはたらきの世界」と言えるでしょう。自分のせまい思いではなく、もっと大いなる世界に出遇っていくことが願われているのでしょう。
苦悩することの大切さ ―本願に出遇う―
これから、このいのちのはたらきの世界を「如来のいのち(本願)」と表現していきます。如来の「如」は、ありのまま、そのまま、つまり無分別ということです。平たくに言えば、「ほんとうのこと」といいうことです。「来」はこの私に来るということです。では、どういう時に「如来のいのち」にふれることができるのか? それは自分の思いがまったく間に合わない時に本願が私の上に上陸するのですが、そのことに気づかされるかどうかは、苦悩を抱えたままで、日々の聞法に勤めること以外にないと思います。苦悩が「如来のいのち」と出遇う機縁になっていきます。だから、苦悩の身に帰って、もっと言うと、凡夫の身に帰って生きることにおいて、開かれていく世界なのでしょう。
非常に平たい例をひとつ出しますとね、先月、北海道の雨竜郡秩父別のお寺の仏前結婚式で記念法話をしてきました。前日入りして、披露宴会場となる旭川のホテルに泊めていただきました。結婚式は仏前で行いますから、当然お寺が式場です。披露宴はホテルでもどこでもいいわけです。
その日、残念なことに台風25号が直撃する予報が出ていたのです。飛行機が飛ぶかどうかわからなかったのですが、何とか飛行機は飛びました。翌朝、旭川のホテルのカーテンを開けて、景色を見た瞬間に愕然としました。台風が少しそれたので、期待をしていたのですが、まだ大粒な雨と強い風が吹いていたのです。私はこんな天気で、新郎新婦が可哀想だなと思って落胆しました。縁とはいってもね、たった一回の結婚式なのに、何でこんな天気なんだということから頭が離れないのです。
人間の自己中心の分別する心から言えば、雨が結婚式を台無しにすると考えるわけです。ところが、この時、本願が南無阿弥陀仏と言葉になって、呼びかけてきたのを感じたのです。もう少し丁寧に言うと、私の心の内側から、呼びかけが沸きあがってきたのです。「雨もまたいいではないか。それもあなたの人生や」と。私の心根とまったくちがって、悪天候を無条件に受け入れる世界のはたらきにふれた瞬間でした。自分はなんと愚かな人間なのだろうか。悪天候が結婚式を台無しにすると決めつけていた私が、実は結婚式に水を差していたのです。結婚式を台無しにしているのは私の思い、分別する心にあったのです。
雨もまたよしという無分別の世界にふれると、自分の愚かさ(凡夫)に気づかされます。自分のあり方に悲しみと痛みを感じました。結婚式に雨が降るということはご縁ですね。こういう縁をいただいて、どこまでも凡夫の身を生きていると自覚されると、志願、本当の願いが生まれるのです。結婚式に向かう自分が明るくなっていったのです。
落胆して結婚式を台無しにしたのは私だったのです。雨というご縁をいただいて気づかされたことです。縁を生きるということは、道理に生きるといってもいいでしょう。記念法話は今話していることをそのまま話しました。人間は、如来のいのち、呼びかけをいただかないと、自分の思いに沈んでいく。自分の思いが自分を苦しめているわけです。雨であったけど、仏前での結婚式が、むしろ雨によって厳粛なものとなりました。新郎新婦も深くうなずかれていました。素敵な雨の結婚式でした。結婚式が終わるころ、雨もすっかり止んでいました。
如来の世界がこの私を支えているということを、人間はすぐ忘れ、自分の思いを善しとして生きるわけです。教えが難しいのではなく、人間が難しいのです。だからくり返し、くり返し聞法しかありませんね。
明日のご満座で、ご法話される牧野先生は、前日からいらっしゃって、皆さんと同じ場に座って聞法をされています。先生も親鸞聖人も私たちもみな愚かな凡夫なやという世界をいただいているわけのご法話で、牧野先生が「仏法を聞くということは自分の顔を知るということです。教えというのは、例えていうと鏡のようなものです。鏡は自分の顔を映し出します。ですから教えを聞くということは自分の顔が照らされるということ、つまり、自分のあり方に気づかされることです。私たちにはたらき続ける普遍性を本願というのです」と言われていたことを思い出します。思いに沈んだ自分ではなく、本願に照らされた自分に出遇っていくということですね。
仏前結婚式当日にも雨が降っていて落胆したということはどういうことかというと、縁を無視して生きているわけです。縁を無視して生きていることを自力と言うのです。他力本願という言葉は完全に誤解されています。他人まかせという意味ではありません。縁を無視して自分の思いに沈む私に、縁を生き抜く意欲を与えるのが本願です。真実に目覚めるはたらき。他力とは本願力のことです。言葉を変えると、本願は、私にすれば、愚かな凡夫だなと自覚を与えるはたらきだと思っています。
だから何もしないのではなく、苦悩する凡夫の身を堂々と生きていく。それは本願がはたらく世界(浄土)をよりどころとしているからです。「天命に安んじて人事を尽くす」という清沢満之の言葉がありますが、天命とは浄土と置き換えられます。浄土を真の宗(よりどころ)として生きる人を「真宗門徒」と言います。浄土真宗とは宗派名になっていますが、宗派を超えた人間が生きる上での真のよりどころなのです。自分の思いをよりどころとして生きていたら、人事なんて尽くせませんね。末通らないですね。
今年の真夏の法話会で法話された税理士の安徳先生は「全ては縁によって起こります。失敗も成功もすべて私を教える縁です。仏の目から見たら成功も失敗もありません。全て自己の正体に気づかせる縁であり、自己の正体に気づかされることが本願の世界にふれるということなのです」と言われておりました。こういう言葉は自覚用語なのです。頭で理解して言えることではありません。本願にふれた人の自覚の言葉です。安徳さんも「やっぱり忘れる」と言っていましたが、「自分中心に生きているのが私の実態ですが、あくまでも阿弥陀さんはいつも私を照らしている」ことを実感されておられます。
絶対化された私からの解放
人間の自我分別の問題は、ずっと昔からの人間の課題でありましたが、現代はその極致です。簡単に言うと、人間がトップになってしまったのです。自然の恩恵を忘れ、自然を破壊し、大いなる宗教世界を後ろにおいやってしまったのです。そして豊かな社会を作り上げることで幸せを実現できると思い込んで進んできたのが近現代という時代です。人間を見つめ直す眼を失った時代と言ってもいいでしょう。
しかし、豊さの追求は、地球温暖化を生み出し生態系を破壊し続けています、今夏の猛暑とゲリラ豪雨はその象徴です。生き物が住めない地球になりつつあります。それでも止まらずAI(人工知能)を作り出しました。2045年にはAIが人間の知能を完全に上回ると言われています。もしAIが人間に戦争を仕掛けてきたら負けてしまいます。囲碁、将棋で負けるならともかく、戦争になったら大変なことになります。人類滅亡の危機になるかもしれません。今のうちに、人間を見直す眼が回復されないとならないと思います。これから生まれてくる子に「おめでとう」と果たして言えるでしょうか。生まれてくるといえば、遺伝子も操作して、自分の都合の良い子どもを誕生させることもできる時代に入りました。すべてが経済的価値ではかられるようになってしまいました。人間の価値すらもそうです。「生産性があるか、ないか」という言葉が氾濫しているではありませんか。
経済至上主義の競争社会では勝たなくてはならない。勝っていい生活をして、人から評価されることに皆縛られています。でもほとんどが負け組です。しかし、勝っても、例えば「老病死」の前にはまったく無力ではないですか。子どものころから競争させられ、その結果、できる子、できない子と峻別されて序列ができていきます。そこで劣等感や優越感が植え付けられていくのです。人間は比較心で生きていますから、自分より下と思う人には優越感、上から目線を持ち、自分よりも優れた人がいると、やっかみを持つのです。評価を気にして、比較心だけで生きていて、それが社会に投げ出されて、社会でまた競争です。自然との関係、大いなる世界との関係、そして人間と人間の関係が崩壊しつつあります。
人間は人の間と書きます。何度も申し上げていることですが、関係を自己として生きているのです。ところが実体化した私が生きていると思い込んでいます。例えば「あの人に出遇わなければ、今の私はなかった」ということがあるでしょう。だから関係を自己として生きているのです。あらゆる関係のなかで私が生まれ、関係のなかで私に出遇い続けていくのです。そういう大きないのちのはたらきの世界が、この私のすがたをとって生きているにもかかわらず、その世界がまったく見えず、あてにならない自分の思いを当てにして苦しんでいるのが現代に生きる多くの人の有り様ではないかと思います。どうでしょうか。
このような社会で生きざるを得ないのですが、それで本当に生きたと言えるのかどうかです。私が絶対化されていますから、真宗の教えが皆目わからないのです。しかし、こういう時代だからこそ、わかりにくさをくぐり抜けて、親鸞聖人のみ教が響いてくるということが起こるのでしょう。さきほども言いましたように、教えは苦悩の身に響くのです。聞こえてくるのです。
東本願寺では、夏に小中学生が奉仕団といって同朋会館で合宿をするのです。そこでお掃除したり、語り合ったりするのです。そのスタッフをされている人が言っていたことですが、毎年必ず来る子がたくさんいるのです。大きないのちのはたらきの世界からご縁によって生まれたということを、スタッフの皆さんは「仏さまの子ども」と教えているそうです。仏さまの世界では、背の小さい子も背の大きい子も、勉強のできる子もできない子も、みんな同じように尊い存在なのです。仏さまのいのちから生まれたから、皆尊い仏さまの子どもなのだよと、これだけで元気になるのは、自分の存在を丸ごと受け止めてくれる、比較を超えた世界に子どもがふれたからでしょう。つまり、ご本山が居場所になっているのです。劣等感や比較心を持つことなく、そのままの自分を受け止めてくれる。人目を気にしていい子を演じる必要がないのでしょう。その話を聞いて、子どもたちに、人間の根源的願いを教えられました。それは子どもに限らず、私たち大人もそうではありませんか。存在の尊さに目覚めることが何よりも願われていることなのです。
安徳さんに影響を与えた志慶眞文雄さんという沖縄在住の小児科の先生がいらっしゃいます。志慶眞さんは、おおきな如来のはたらきの世界に出遇い、現在、小児科の2階で「まなざし仏教塾」を開いていて、80人くらいの人たちが志慶眞さんのお話を聞きに来ています。志慶眞さんが教えに出遇うまでの格闘を話す時間がありませんので、同朋新聞10月、11月号を読んでいただきたいと思いますが、志慶眞さんは、「目標を掲げて達成しなければ意味がないと思って生きてきましたが、実は目標を掲げなくても、達成しなくても、「そのまま」でよいという世界が、誰の上にもひらかれていたのです。煩悩百パーセントの身を生きていますが、それは無分別の大きないのちに支えられています。その如来のはたらきに支えられ育まれ生かされていることに目が覚めた時、苦悩の人生は生きるに値すると確信しました。」と言い切られています。これは本山に奉仕団に行った子どもたちの喜びと通底していますね。
「教えを聞いたから少しは煩悩が減ったかな」という人がいます。煩悩は増えたり減ったりするものではあません。煩悩イコール私なのです。私そのものが煩悩なのです。縁があれば、いつだって煩悩が出てくるのです。だから煩悩があっていいと言っているのではなく、煩悩がなくならないという悲しみを持つ、痛みを持つということです。そういう世界が開かれるのです。やはり凡夫の自覚、このこと一つですね。凡夫であることに無自覚な現代、いよいよ親鸞聖人があきらかにされた教えは時機純熟の教えとして私たちに開かれているのだと感じるのです。本当の救いとは、絶対化された私から解放されることなのです。親鸞聖人がお亡くなりになって760年近く経っていますが、親鸞聖人の教えに感動し、生活の苦悩の中から本願の世界をいただいて来た無数の方々が、私が会ったことのない無数の方々のいのちがこの私の中ではたらいてくださっているということに気がつくかどうかですね。この方々によって、私も親鸞聖人と出遇い続けているのです。
多発性硬化症の雪絵ちゃんから学ぶ
志慶眞さんに続いて、同朋新聞の取材で山元加津子さんに出遇うご縁をいただきました。山元加津子さんは特別支援学校の養護の先生を長く勤められて、教師と生徒の関係を越えて、同じ人間として、友だちとして生徒に接し続けられ、いわゆる障がいの子どもたちから「なぜ私はここに存在するのか」「生きるとは何だろうか」「大好きって何だろう」といった問いが与えられ、人間が生きる深さを学んだ人です。今は執筆活動や講演などを主にされています。山元さんの話を聞いていると、浄土真宗はセクトではないとつくづく思わされました。どんな人にも、如来のいのちのはたらきの世界が開かれているのです。本願は誰にもでもはたらいているのです。
同朋新聞7月号に多発性硬化症の雪絵ちゃんという女の子の話が掲載されています。中学校2年の時に、脳の中が固まって、そのために体がしびれて固まってしまったり、視力が落ちていったり、さまざまな神経症状の再発がおきるのです。その彼女について、山元さんは「私は雪絵ちゃんとの出会いを通して、病気になることも、障がいがあることも、お金持ちになることも、生きることも、亡くなることも、大きなはたらきの中の出来事で、たぶん表れているすべてのことが、実は大切なのではないかということを感じさせてもらいました。雪絵ちゃんはおそらく、そのことを知っていたのだと思います。私は私で、大正解。私は私で大成功。私は私の人生を、力いっぱい、きらきら輝きながら生きて行く。そう教えてくれたのは、雪絵ちゃんでした。大きな世界が与えてくれた、今ここにいる自分を、自分が決めた条件を超えて好きでいられたらいいですね。なかなか気づけなくても、大きな世界は常に私たちを包んでくれているのだと思います」と語ってくれました。
印象的なことは、「大きなはたらきの中の出来事」「大きな世界は常に私たちを包んでくれている」と表現しています。仏教用語は使っていなくても、まさに如来の本願のはたらき、浄土のことを言っています。そのことを雪絵ちゃんから教えてもらったと。
さきほどの志慶眞さんの言葉を振り返りますと「煩悩百パーセントの身を生きていますが、それは無分別の大きないのちに支えられています。その如来のはたらきに支えられ育まれ生かされていることに目が覚めた時、苦悩の人生は生きるに値すると確信しました」と言われていましたが、まったく同じ世界です。志慶眞さんも雪絵ちゃんも、苦悩の上に本願がはたらいている。すべて如来のいのちの世界のなかの出来事として受け止めているのです。
雪絵ちゃんが、苦悩を通して、この世界にどう出遇っていったのか、これは同朋新聞には掲載されていませんが、山元さんから聞いたなか(『四分の一の軌跡』という本にも掲載されています)で、私なりに受け止めさせていただきました。それは、ある日、雪絵ちゃんがつらそうな顔をしていた時のことです。それはそうですね。がんばって生きようとしていても、やはり体の自由が利かないことはつらいことですし、落ち込むときも多々あったと思います。
生徒さんは山元さんのことを「かっこちゃん」と呼び親しんでいるのですが、その時、雪絵ちゃんから「かっこちゃん、何か楽しいお話をして」と言われたので、マラリアの話をしたそうです。マラリアという伝染病が流行っている村々で、一つも村が壊滅したところはないのです。私はどういうことなのか、大きな関心を持ちました。なぜかというとマラリアが流行する村にはマラリアに負けない遺伝子を持った人間が次々に生まれてくるからだそうです。で、ここからが大事です。マラリアより強い遺伝子を持った人間が生まれてくるだけではなく、強い遺伝子を持つ人が生まれるとき、高い確率で、そのきょうだいに重い障がいを持つ人が生まれくるのです。その確率は、4分の1です。その村を支えているのは強い遺伝子を持った人間だけではなくて、障がいを引き受ける人がいて、村は絶滅しないのです。しばらく黙っていて聞いていた雪絵ちゃんは、「私たちだけで、こんな素敵な話を知っているのはもったいないよ。かっこちゃん、病気や障がいがとても大切だということをみんなに伝えて。すべての人がこの宇宙から必要とされていることを世界中の人が当たり前に知っている世の中にかっこちゃんがしてほしい」と言ったそうです。宇宙という言葉を使っていますが、これは如来のはたらきの世界ですね。あらゆるいのちは根源的につながっていることを雪絵ちゃんは感じ取ったと思うのです。
そして雪絵ちゃんは、さらに深まりをみせていきます。それは入院している雪絵ちゃんが山元さんに出した手紙から次の私は感じ取ったのです。「私は、いつも、多発性硬化症(MS)である自分を、無駄にしたくない。MSである自分を後悔したくない。MSである自分を・・・好きだといいたい。そう思っているの。MSだって、う~んと笑えるし、楽しいことだっていっぱいある。MSになったからこそ、ボランティアに興味が持てた。MSを敵にせずに。とにかくMSの雪絵をそのまま、まるごと愛しています。」こんなことを。強がりでも言えることではありません。「そのまま、まるごと」に感動します。
これは私の想像にすぎないかもしれませんが、雪絵ちゃんが、マラリアの話を聞いた時、障がいのある者でも、誰かのためになっている。役割があるということにまず喜びをもったと思うのです。それはとても大きなご縁だったと思います。そしてそれがさらに深まって、無条件に自分の存在の尊さを感じ取るようになったわけです。人間は分別の世界を生きていますから、「そのまま、まるごと」自分を受け止めることはできないのです。山元さんが言われるように、大きなはたらきの世界が常に無条件にまるごと雪絵ちゃんを包んでくれていたのでしょう。私たちの言葉で言うと、すべてが南無阿弥陀仏の出来事なのでしょう。
田口弘君が、自分の思いでは、目が見えない自分を受け止められなかったけれど、南無阿弥陀仏の世界に無条件に支えられていると深くいただいた時に、「阿弥陀さんが、僕にふさわしい人生をくれた」と言ったことを思い出します。田口君は立派だという人もいますが、不安は消えなかったのです。阿弥陀さんの教えが聞こえてこない時もあったし、そういう自分に深い悲しみと痛みをもって、教えに訪ねていったのが、田口君の人生そのものなのです。
雪絵ちゃんに話をもどしますが、その後、雪絵ちゃんは目が見えにくくなり、足も動かなくなっていくのですが、自分の人生をまるごと受け止めて亡くなっていかれました。雪絵ちゃんが「そのまま、まるごと」自分を受け止めた詩を紹介したいと思います。「ありがとう」という詩です。
「ありがとう」
私、決めていることがあるの。
この目が、ものを映さなくなったら、目に、
そしてこの足が動かなくなったら、足に。
「ありがとう」って言おうって決めているの。
今まで、見えにくい目が、
一生懸命、見よう見ようとしてくれたんだもん。
いっぱい、いろんなもの、素敵なものを見せてくれた。
夜の道も、暗いのにがんばってくれた。
足もそう、私のために信じられないほど歩いてくれた。
一緒に、いっぱいいろんなところへ行った。
私を一日でも長く、喜ばせようとして、
目も足もがんばってくれた。
なのに、見えなくなったり、歩けなくなったとき、
「なんでよー」なんて言っては、あんまりだと思う。
今まで、弱い弱い目、足が、
どれだけ私を強くしてくれたか。
だからちゃんと「ありがとう」って言うの。
大好きな目、足だから、こんなに弱いけど、
大好きだから。「ありがとう、もういいよ。休もうね」
って言ってあげるの。
私が何か語らなくても、十分雪絵ちゃんの生きざまは皆さんに届いていると思いますが、「なのに、見えなくなったり、歩けなくなったとき、「なんでよー」なんて言っては、あんまりだと思う」と書いてありましたね。ここですね。
私は、よく「なんで自分がこんな目に」と思うことがあります。皆さんはどうですか。雪絵ちゃんは縁を受け入れて、そのまま、まるごと、自分の存在の尊さを感じていたのだと思います。山元さんは「私は私で大成功」と言って亡くなっていかれた雪絵ちゃんから、条件をこえて、誰もが尊いいのちを生きていることを教えられたのだと思います。
宮田俊也さんとの出遇い
山元さんとのインタビューが終わった後、山元さんが会わせたい人がいると言われるので、彼女に言われるままに、出版部の牧野君と一所に車に乗せてもらいました。行先は、2009年に重度の脳幹出血で倒れた宮田俊也さんの家でした。宮田さんは山元さんの同僚で、生徒から「宮ぷー」の愛称で呼ばれる人気者だったそうです。
脳内出血した人は大体一日で80%の人が死ぬと言われています。翌日、生きている場合は植物人間になっている場合が多いようです。宮田さんが倒れて、次の日まで生きていた。生きていて8日目に目を開けたんです。お医者さんは「目は明けても、意識はない」と言われたようですが、山元さんたちはあきらめることなく、宮本さんが快復することを願い、仲間でリハビリを続けられました。
現在、宮田さんは、意識が戻り、右手が動き、首も回るようになりました。喋れないけれども、相手の事は理解できます。ですから意思伝達装置を付けて、相手に伝達しているのです。
彼は、相模原の事件(元障がい者福祉施設職員が19人を刺殺、入所者・職員計26人に重軽傷を負わせた事件)があった時、「僕は体が動かないけれども、とても幸せだよ。楽しいことや嬉しいことが、いっぱいあるよ。みんなで一緒に生きていこうと、僕はもっともっと伝えていかなくてはいけないと思う」とメッセージを送っています。この姿勢は、雪絵ちゃんと同じ世界を持っている人だと感銘しました。
彼のブログを見ても、病気のことなどを深刻に書いたりしていないのです。「僕の好きなスポーツの季節がやってきた。」とか、「ラグビーが始まった」とかね、彼はスポーツが大好きなのですね。今の状態を受け入れて、人生を謳歌しているのです。
宮田さんの家に着くと、ちょうど、お医者さんから帰って来たのです。山元さんのお仲間も来ていて、宮田さんをベッドに寝かせました。山元さんたちは、食事を管から流したり、おむつを取り替えたり、一通りのことが終わると、山元さんは、今日あった出来事などスマホを使って宮田さんに話していました。横にはお仲間が、宮田さんの足が固まらないようさすっていました。2時間もやるそうです。そうしているうちに、なぜか宮田さんが私の顔をずっと見ているのです。山元さんに「雅人さん、宮ぷーが話をしたがっているから、お話しして」と言われました。意思伝達装置も何等かの役割をしているのかどうかわかりませんが、人間はやっぱり関係存在だから顔と顔を見て話したいですから、装置がどうのということより、彼との直接対話という感じがとてもしました。彼は私の顔を見てにこっと笑って、私も笑って、これは挨拶代わりです。その後、彼は何と言ったでしょうか。「俺って海老蔵に似ているだろう」と言ったのです。どうして、話せない宮田さんが言ったことが私に伝わったかというと、「俺」で始まりましたが、まず、俺の「お」は、「あかさたな、はまやらわ」と私が言うと、彼が「あ行」で頷くのです。あ行とわかると、今度は「あいうえお」と私が言う。「お」で頷いたので「お」だとわかるんです。「れ」も、ら行でうなずいて、「らりるれろ」の「れ」で頷く。それで「俺」と理解するのです。時間がかかりますが、お互いにつながり合おうとしているその空間がなんとも言えませんでした。第一声が「俺、海老蔵に似ているだろう」ですよ。(写真を皆に見せる)確かに似ていると言えば、似ていますが、日常の何でもない会話が、こんなに光って感じたのははじめてでした。
宮田さんは皆に支えられなければ生きていけませんが、支えられている宮田さんに実は山元さんたちが支えられていることを強く感じました。なぜなら、初対面の私が宮田さんに支えられていたからです。縁を受け止め、ありのままの自分を生き抜く姿に、なかなか自分を受け止められない私の小さな殻が破れて、ひとつのおおきないのちの世界で共に生きていることを実感しました。私は震えがでるほど感動しました。宮田さんの部屋は、まさしく浄土の功徳が充満している空間であったと思います。これがご縁を生き抜く意欲が与えられていく世界ですね。いつも言いますが、苦悩するところに本願が顔を出すのですね。成人の日法話会に、山元さんがお話をされますので、ぜひ皆さん、聞きに来てください。
時間が来ましたのでここまでにします。。とにかく仏法を聞き続けていくことです。そして、教えに生きている人に出遇っていくことです。最後にくどいようですが、寄付活動にご参加ください。音が聞こえるお金を入れてくださってもいいですが、もしよかったら、音のしないお金(紙幣)を入れていただければ、なおありがたいです(笑)。
この後、「報恩講の夕べ」がございます。「あんみ通」の津軽三味線の味わいをご堪能ください。こ清聴ありがとうございました。(了)
報恩講「日中法要」(ご満座) 11月4日(日)
2019年2月10日公開
法話: 牧野豊丸先生(福井市・託願寺住職、65歳)
「弥陀の本願信ずべし」
牧野豊丸先生
田口弘さんと出遇い続ける
皆さん、こんにちは。私は福井から参りました牧野と申します。昨年の8月に、蓮光寺さんの真夏の法話会でお話を申し上げ、その後、蓮光寺さんの聞法旅行会で福井県においでいただきまして、吉崎別院や私のお寺にご参詣くださり、お話を申し上げたことです。そして今日で3回目のご法話となります。わずかな期間に3回もご縁をいただくというのも珍しいことだと思います。蓮光寺ご住職とは、もう12年ほど前になりますか、私の福井教区においでいただくというお願いをしたのが最初のご縁であったかと思います。それから、私が駐在教導を辞めましたとお葉書を出したら、「東京で、ご法話をいただけませんでしょうか」というご案内をいただきまして、それから、こうして寄せていただいているというようなことであります。
昨年の真夏の法話会の直後に田口弘さんがお亡くなりになったのですが、ビアガーデン後も2次会がありまして、田口さんと隣同士になって、鉄道の話で盛り上がったのです。田口さんは無類の鉄道好きで、私もそれによく似たものですから、法話についても語り合いましたが、鉄道の話がだんだん増えてまいりました。その時に、私が自慢げに田口さんに話したことがあります。金沢まで北陸新幹線が延びまして、福井は金沢の先ですね。ですから金沢からサンダーバードに乗り換えて、福井に行きます。東京から東海道新幹線で行くと、米原で北陸線に乗り換えて福井に行くわけです。北陸新幹線経由と東海道新幹線経由を利用すると東京をちょうど一周する形になるのです。往復料金より一周した方が、乗車券が安いという特典があると、田口さんに話しておりましたら、「いや、牧野さん。まだまだ甘いよ」と言われてしまいましてね。なぜかというと、私は3日後の7日に、四ツ谷のお寺の報恩講で法話をすることになっておりまして、1週間の間に2回も東京に来るのです。最初、私は東京にいた方が楽かと思いましが、かみさんから「帰ってきてください」と言われてしまいました。2回東京に来る場合、逆回りをすると、さらに運賃が安くなるという奥の手を田口さんが教えてくれまして、それで今回それを使ったのです。みどりの窓口へ行って、その方法で発券をお願いしたら、窓口のお姉さんが知らなかったのです。「そんな割引はありません」と言われたので、「ちょっと調べてください」と言ったら、コンピューターで調べ始め、「割引になります。知りませんでした。失礼いたしました」と言って、その子が感謝していました。田口さんが亡くなって1年以上たちますが、田口さんは今でも貢献しているなあとしみじみ思いました。田口さんとのお付き合いはそれほど長くはありませんでしたが、亡くなった後、いよいよこうして田口さんと出遇い続けさせていただいていることでございます。
お荘厳
草間総代の挨拶
司会の篠﨑さん
法要の様子
「御俗姓」拝読
法話
住職の挨拶
御礼言上
お斎の様子
報恩講とは
報恩講は、私ども真宗門徒にとりましては最大の行事です。今では報恩講というと親鸞聖人のご命日のお勤めであると一般的に思われるようになってきたことであります。
さて、一体何をもって「真宗門徒」と言うのかといえば、報恩講を勤める者を真宗門徒だと言っても過言ではありません。ですから今日は、お内陣は一番丁寧なお飾りになっているのです。真ん中にろうそくが1対、2本あるでしょう。普通は1本ですね。お花も1対、2杯ありますね。これを「五具足」といいます。これは一番重いお勤めのときのお飾りです。
「打敷」(うちしき)も掛けます。打敷というのは特別に掛けるもので、年がら年中掛けるものではありません。打敷とは、われわれの服装で言ったら、一張羅のモーニングみたいなものです。一張羅のモーニングを着て日ごろの生活をしないでしょう。だから、特別なときに、打敷を掛けると思っていただいたらいいと思います。
そしてお勤めも、昨日の大逮夜法要では「正信偈」草四句目下という日常のお勤めでした。これは、蓮光寺ご住職がご門徒の皆さんが読み慣れている草四句目下をいっしょに勤めようという願いでそうされたと思います。今日の日中法要(ご満座)は「正信偈」真四句目下という非常に丁寧なお勤めでした。これも重いお勤めという言い方をしますが、丁寧な一番大きな仏事だということで、ゆっくり大きな声で、皆さんには少し難しかったかもしれませんが、いっしょにお勤めをさせていただいたことでございます。
真宗では、報恩講は親の年忌法事よりも重いのです。昔は報恩講を勤めるついでに、付け法事といって、年忌法事をしたので。今でもそういう伝統が残っているところもあります。北陸地方では、報恩講は、お寺だけではなくて、一般のご門徒宅でも勤めるのです。今、秋回りといって、お寺の住職が全部の門徒さん宅を回って、お勤めをするのです。今では年忌法要のついでに報恩講が勤まることが多くなってきたのは残念なことです。
真宗門徒の3つのたしなみ
赤尾の道宗という蓮如上人のお弟子さんがおられました。岐阜と、今の高山の奥、富山県の境ぐらいの所に赤尾という在所がありますが、面白い人でね、阿弥陀さまのご苦労を忘れないようにと、阿弥陀さまのご本願は48あるので、48の割り木の上に寝ていたというのです。今、そのゆかりのお寺に行きますと、そういう木像があります。非常に熱心なお弟子でした。その道宗が、門徒の3つのたしなみをもって真宗門徒であると言われています。
1つは、一日のたしなみです。「たしなむ」という言葉は強制するとか義務という意味ではないですね。酒をたしなむとか、たばこをたしなむという方がいらっしゃるでしょう。無理やりさせられているわけではないでしょう。せずにはおられんから、赤ちょうちんへ行くとかね。高くなっても、税金を納めてもすぱすぱとたばこを吸うのでしょう。私の方から自発的にせずにはおられんということが「たしなむ」ということです。
道宗は、「一日たしなみには、朝つとめにかかさじとたしなむべし」と言うのです。真宗門徒というのは、朝、目が覚めたら、生活の順番が決まっています。まず目が覚めたら、身繕いを整えて顔を洗ったら、ご飯を食べる前にまずお内仏(仏壇)に手を合わせてお念仏を称え、「正信偈」のお勤めをするのです。そしてお仏飯をお供えしてから、はじめてご飯を頂くのです。
皆さん、頭の中で私は真宗門徒だと言ってみても、内実が伴わないと門徒とは言えないのではないでしょうか。お勤めをせずにご飯を食べるのはいかがなものでしょうか。飯を食べるというでしょう。飯を食べる生活か、ご飯を頂く生活なのかというのが真宗門徒かどうかということです。「頂く」ということはこういうことです。
お仏飯(ぶっぱん)ですが、皆さんがお供えするときに、昨日の炊いた残りをお供えする方はいらっしゃらないでしょう。お初をお供えするのです。丁寧な方は別のお釜で炊いて、別にお供えするのです。
私たちはお仏飯を供えることによって、「私はいのちを奪って生きているものだ」ということを、そこで教えてもらっているのです。私が生きているということは、この身を支えているということは、いのちを奪わずにはおられないのです。
米であろうと野菜であろうと、いのちを奪っているのです。肉や魚を食べないから私は精進しているという言い方をしますが、もちろん報恩講で精進ということはしますが、身の事実はいのちを奪って生きておるんだということに、まず出遇ってからご飯を頂くんです。いのちを頂いているという教育です。
もう数年前ですが、あるお母さんがこう言ったそうです。給食費を払う、払わんという問題があったときに、「うちはちゃんと給食費を払っています。うちの子には、『いただきます』なんて卑屈な言葉を言わせないでちょうだい」と。いのちを頂いているということを子どもに伝えないで、そのことをしっかりと受け止めないで、どうやって子どもが育つのでしょうか。ご飯を頂くという生活は、いのちを頂いているということを自覚する生活です。日々の暮らしで手を合わせて、そこから一日が始まるというのが門徒だと。これが一日のたしなみです。
2つ目のたしなみは、一月のたしなみです。「ちかきところ御開山上人(親鸞聖人)のましますところへ参るとたしなめ」と。ご開山上人のましますのはお寺ということ。月に一度はお寺へ足を運んで、仏法を聞きなさい。それを門徒というのです。お寺は仏法を聴聞に来るところです。仏法聴聞が生きる中心になる、これを門徒というのです。
3つ目のたしなみは、一年のたしなみです。「御本寺へ参るべしとたしなむべし」と。私はこれを、報恩講に参ることだと頂戴しています。だから、一年には必ず報恩講を勤め、一月に一度はお寺で聞法し、一日一度はお内仏で手を合わせて、私のいのちを問う場を頂いていくというのを「真宗門徒」というのです。
ですから今日は、この一年私は本当に門徒だったのだろうかと問い、この一年のあらゆる生き方に思いを致し、「ああ、人間を失っておったな」ということから、今日は新しいいのちの誕生だと、今日からまたそのいのちを丁寧に歩んでまいりましょうよと、そのことを胸に刻ませていただく日が、私は「報恩講」の仏事の大事な内容だと思います。正月よりも、私どもにとっては報恩講が大事な区切りなのです。
庶民に伝わる念仏者、生活者としての親鸞聖人
先ほど「御俗姓」という「御文」が勤まりましたが、このお内陣の左手に4幅の絵が掛かっています。「御絵伝」といいまして、親鸞聖人の生涯が描いてあるのです。聖人の生涯を、文章を書かれたものを「御伝鈔」と言います。それを本山では11月25日の夕方に拝読をします。お寺で拝読をする場合もあります。それを聞いて、親鸞聖人のご生涯を確かめながら、大切なことを聞かせていただくということを、毎年毎年繰り返してきたのが報恩講です。
親鸞聖人のご生涯を考える一つの手掛かりとして、「正像末和讃」の最初に掲載されている「弥陀の本願信ずべし」の「和讃」に訪ねていこうと思います。「和讃」とは「和の讃嘆」と書きます。和というのは「日本語の」、讃嘆というのは「褒める、たたえる詩(うた)です。
親鸞聖人は関東に42歳ぐらいに来られて、20年ほど筑波山の近くにいらっしゃいました。いろんな伝承も伝説もそこに生まれました。『教行信証』は、52歳ぐらいにその草稿が書き上がったと言われていますが、その後は、お書き物は70代ぐらいから再び書き始められます。親鸞聖人は京都へお帰りになられたのは、62、3歳であろうと言われております。その間の行動はよく知られていないのですが、70を過ぎてからいろいろ書写をされたり、お書き物をされます。「ご和讃」は350首ほどありますが、そのうちの「浄土和讃」「高僧和讃」という「ご和讃」がつくられたのが76歳の時です。
「弥陀の本願信ずべし」の「ご和讃」は、「正像末和讃」の最初に書かれています。85歳の時にお書きになった「ご和讃」です。「正信偈」の場合は和語ではなくて漢語、漢文でしょう。だから「漢讃」という言い方をします。漢語の讃嘆。それに対して「ご和讃」というのは和の讃嘆です。
「正信偈」も詩(うた)です。「偈」というのは詩ということです。「正信偈」の後に「念仏」と「和讃」が6首ずつ読まれ、これは蓮如上人が出版して、今の勤行のかたちで私たちに伝わっているのです。それをお朝事として勤めるんですね。昔は、ご門徒もみんなそれで繰り読みされたものです。今は「同朋奉讃」で読まれることもあります。「正信偈」と「ご和讃」、そして「御文」で、親鸞聖人と蓮如上人のお言葉に毎日触れていたのが門徒なのです。「正信偈」と「和讃」は、昔の人は本を見なくても読めるほど読んでいたのです。昔から、教えというのは毛穴から入ると言いますね。毛穴から入るというのは、いちいち本を開いて文字を読むということではありませんね。明治になるまで、お百姓さんとかほとんど字が読めないでしょう。字が読めないのに言葉を知っていたのです。すごいことです。その言葉を知っているだけでなく、言葉というものがきちんと生きてはたらいていて、生活そのものを規定していたんですね。真宗門徒の生きざまがあったのです。今はどうですかね。
ですから、家庭で教えをずっと聞いていたということです。月に一度はお寺へ行く。両度ご命日といって、親鸞聖人のご命日と前住職のご命日がお寺では仏事をする日になっています。少なくとも月に2回はお寺へみんながお参りして、ご法話を聞くということがお寺の伝統的な教化のスタイルでした。今はそこまではできませんから、大きな行事、あるいは同朋の会、聞法会とか、そういうかたちで月1回、2回、教えを聞く場をつくっておられるお寺は多くあろうかと思います。
話が前後しますが、明治になってから、学者の間では親鸞聖人は実在しなかったという説があったのです。明治になってからヨーロッパの学問が入って来ると、実証主義といって、証拠がないと証明されないのです。近代の私たちのものの考え方はみなそうです。ところが親鸞聖人は、生涯、高僧になったわけでもないし、大きな寺の住職になったわけでもないのです。一人の念仏者として生きて、死んでいった方です。だから国に残っている資料には名前が出てこないのです。出てくるのはお寺のこういう伝記とか、あるいは伝承、そういったものでは名前が出てくるけれども、国の資料には出てこないのです。たまたまお西さんの蔵から奥さまである恵信尼さまのお手紙が発見されて、ようやく実在していることが証明されたのです。
ところが、公では有名ではなかったけれども、民衆の間では知られていたのです。仏教の大嫌いな太宰春台という学者が「聖学問答」という書物の中でこういう文章を残しているのです。「日本の仏者の中に、一向宗(真宗のこと)の門徒は、弥陀一仏を信ずること専にして、他の仏神を信ぜず、如何なる事ありても、祈祷などすること無く、病苦ありても呪術・符水を用いず」。呪術・符水とはおまじないの水です。おまじないをしたり、祈祷をしたりということをしないと。「愚なる小民・婦女・奴婢の類まで、皆然なり、是親鸞氏の教の力なり」。仏教が大嫌いな儒学者が、「親鸞氏の力なり」と名前をきちんと言っているのです。つまり、親鸞という名前は、庶民が生活で伝えた名前です。親鸞という名前は、生活となって伝わったのです。浄土真宗という門徒は、生活をもって真宗門徒であるということを証明してきたのです。
「あなた、門徒ですか」と言われても、べつに証明書があるわけでもなしね。もちろん、檀家制度というのがありましたから、「どこどこの寺の檀家です」と言うことがあったとしてもね。「真宗門徒であります」ということは、真宗門徒の生活があるということです。真宗門徒の生活は、具体的に私の宗(むね)という意味を持つのです。「宗」というのは、中心、背骨ということです。中心、背骨は一つでしょう。扇子に一つくぎがあるでしょう。あれを要と言いますね。あれがあるから扇子が役に立つでしょう。あれがなかったら、ばらばらでしょう。宗とはそういうものです。私たちの生活を一つにする、私の生活はそこをよりどころとする。「あなたの宗は何ですか」と問われるということは、私が何によって生きるかということです。
「私は浄土真宗の門徒です」と言いながら阿弥陀さんを拝むよりも、阿弥陀さんの下の引き出しにある貯金通帳を大事にしている人は、真宗門徒ではなくて預金通帳教の信徒です(笑)。仏教によって、何を明らかにするかといったら、方向を明らかにするのです。私はどっちに向かって生きているのか。それを問われたときに、さっぱりわからないと初めて気づいたときに、それを「人間」と言うのです。わからないといって迷いだしたら人間なのです。迷わなかったら人間ではありません。これを地獄、餓鬼、畜生の三悪道といいます。人間が三悪道だったと気がついたときに、自分はこれでよかったのかなと自分の生き方を問うことが始まって、人間が始まっていくのです。だから、どれだけ通帳にお金がたまろうと、それがはっきりしなかったら、それは地獄、餓鬼、畜生というのです。
仏法を聞かないと、やっぱりお金がないとだめだということで、うろうろして、私はどこへ向かっているのかがわからずに、いのちを終わっていかねばなりません。これを「流転生死(るてんしょうじ)」と言うのです。
そういう教えに出遇って、迷った人が親鸞聖人なのです。親鸞聖人は9歳で青蓮院でお坊さんになりました。ところが二十年間も比叡山におられて、迷って、悩んで、ついに山を下りられた。そして29歳のときに法然上人のおられた吉水に行ったのです。吉水は、今でいうと、京都の東山の円山公園の上の方に時宗の安養寺というお寺がありますが、そこが昔の吉水の草庵と言われています。
親鸞聖人が9歳のころは、もうすでに吉水で法然上人はお念仏の教えを説いておられたのです。吉水へ直接行ったら、もっと早く法然上人の教えに出遇えたのではないかと。20分で行ける所を20年かかったわけです。でも、どうですかね、9歳の少年が法然上人の話を聞いて、「なるほど、雑行を棄(す)てて本願に帰す」といううなずきはあったでしょうかね。「この先生、何を言っているのだろう」と頭の上を通っていったのではないでしょうか。今日、私がお話している間にも皆さんのなかにそういう方もおられるでしょう。「あの坊さん、声はでかいけど、何を言っているのか、さっぱりわからない」と。
親鸞聖人が20年間比叡山にいたということが、実は法然上人の教えを聞いていけるような耳を開いていったのです。そこには迷いと苦悩があったのです。本当のことは何かということを問うということがあって初めて、「聞」ということが親鸞聖人の上に29歳のときに成り立ったのです。
親鸞聖人が比叡山でどんなことを学ばれたかというよりも、迷って、そこを下りて、絶望を際まで行かれた所で、念仏の教えが聞こえてきた親鸞聖人という方がいらっしゃったということが何よりも大切ではないかと思います。
29歳の時の親鸞聖人のお言葉は、「建仁辛の酉の暦(けんにんかのとのとりのれき)、雑行を棄てて本願に帰す」です。ご本願に帰す。「阿弥陀さまのおこころに、私は頭が下がりました。この生き方を私はしていきます」とうなずかれたのです。
6年経った35歳のときに、親鸞聖人はお念仏に出遇ったがために大変なことに巻き込まれるのです。時の朝廷が念仏を禁止したのです。これは承元の法難と言われています。親鸞聖人のお友だち、同輩が4人首を切られた。親鸞聖人も5番目に切られる予定でしたが、そこは免れました。法然上人、親鸞聖人は遠流という流罪を受けます。親鸞聖人は新潟へ流されたわけです。4年余りで罪は許されたけれども、しばらくそこにおられてから関東の方に住まわれます。これがだいたい親鸞聖人の行実ですね。
弥陀の本願信ずべし
「弥陀の本願信ずべし 本願信ずる人はみな 摂取不捨の利益にて 無上覚をばさとるなり」(「正像末和讃」)この「ご和讃」は、康元2歳(年)、親鸞聖人は85歳の時に書かれたものです。その康元2年2月9日の夜、寅の時です。寅の時とはまだ未明といって、まだ暗いうちです。宗教的感得をする時間だと言われています。
2月9日という日は、承元の法難が発令して,吉水の念仏者が捕縛された日です。『明月記』という藤原定家の日記には、その日一日中、悲鳴が聞こえていたと書かれてあります。親鸞聖人にとって、忘れられない日なのです。でもけっしてお念仏をやめなかった。だから流罪になったのです。
法難の50年後の康元2年、85歳の年です。西暦1257年です。親鸞聖人が亡くなられる5年前です。夢の中で感得したのがこの「和讃」です。そういう意味ではこの「和讃」は、親鸞聖人の生涯を凝縮した「和讃」だと思います。親鸞聖人のご生涯は、法然さまに出遇い、生涯を貫いていただいたのは「弥陀の本願信ずべし」この一言です。
「本願信ずるひとはみな 摂取不捨の利益にて 無上覚をばさとるなり」。その本願を信ずる阿弥陀さまのおこころを信ずるということは、どんな人も分け隔てなく、南無阿弥陀仏に出遇った人は皆、そこに平等に「摂取不捨の利益」を頂かれる。この言葉は「観無量寿経」に出てくるお言葉でありますが、親鸞聖人はこの「摂取不捨」というお言葉、阿弥陀さまそのものを「摂取不捨」というお言葉で頂いておられます。
「摂取不捨」の「摂」というのは、「ものの逃ぐるを追はへ取るなり」と親鸞聖人が左訓、仮名を振っておられます。逃げていく人を、阿弥陀さまが追っかけて捕まえるというのを「摂取」というわけです。逃げていくとは誰のことでしょう。隣を見なくていいのです。私が阿弥陀さまに背を向けて、損だ得だ、好きだ嫌いだと、執着して生きている。逃げているのは自分自身ではないでしょうか。
阿弥陀さんが「こっち向きなさい」と呼びかけているけれども、なかなかこっちに向かないものだから、「しようがないな、追っかけてあなたを捕まえないと」というのが「摂取」ということです。
浄土真宗の阿弥陀さまは立っておられるでしょう。他宗では座っておられる阿弥陀さまもおられます。鎌倉の大仏さんも阿弥陀さまですが、座っておられるでしょう。立つには立つ理由があるのです。
だいたい、覚りを開いた姿を仏さまと言いますから、仏さまというのは、だいたい座っているのです。でも、この阿弥陀さまは自分で立っているのです。ということは、お仕事中ということです。私たちを救わんがためにね。しかも、正面のお宮殿(くうでん)には戸がないでしょう。戸がないということは閉めないから24時間営業中ということなのです。ずっと私たちに寄り添っているのです。
ところが私たちは四六時中、阿弥陀さまのことを思っていませんからね。時々、手を合わすぐらいでしょう。忘れているときには、阿弥陀さまのこころとは反対のことばかりやっているのではないですか。自分の関心事ばかりに心が奪われている。そして、人が悲しんでいようと、そんなことは私は関係ないと、日暮らしをしているのが私たちでしょう。それに気づかないのです。
それに気づかないまま、阿弥陀さまのことも知らないで生まれて死んでいく、これを幽霊というのです。
筑波山にそういう伝承があります。筑波山はご承知のとおり、お山がご神体の神社です。親鸞聖人が関東ご在住の時、たまたま筑波山にご用で、その麓で泊まったのです。夢の中で髪の毛の白いおばあちゃんが出て「坊さん、すまんけど、明日、目が覚めたら、この筑波山の奥の方のほこら来てくれや」と言ったのです。妙な夢を見たので何だったのだろうかなと、親鸞聖人はそこに行ったわけです。そうしたら、ほら穴の中からぞろぞろと、この世のものではない幽霊が出てきたのです。それは生きている間に餓鬼道の暮らしをしていた幽霊で、死んでから餓鬼道へ堕ちたのです。その代表者が「実は私はこの近くの、この神社の氏子だったのだけど、生きている間に、損だ得だ、好きだ嫌いだ、面白おかしく楽しくやっていた。ところがその間に、いのちが先に終わってしまったものだから、死んでからどこへ行っていいかわからんのや。だから、どうか行き先を教えてくれ」と言って親鸞聖人に頼んだと伝えられています。
親鸞聖人は餓鬼道に落ちた幽霊に「弥陀の誓願を申せ」と言われた。阿弥陀さまのご本願です。孫悟空のキン斗雲みたいな雲がもくもくと湧きだして、幽霊たちを乗っけて、西の方へ飛んで消えていったという話です。変な話でしょう。そういう軸がお寺にあるんですよ。
私も20代のころは、妙な話だと思ったのですが、年を取ると受け止めが変わるのです。あらためていただき直しますと、その幽霊とは誰のことだろうかと。仏法に遇わないで、自分の都合だけで生きておる者がいのちを終わったらどうなるか。何を言いたいかというと、「存在」がはっきりしないものを幽霊と言うのです。皆さんがここで自分のことを問題にしないで、幽霊がいるか、いないかわからんと思われる方がいたら、それは自分が幽霊ですね。だから、幽霊とは何かといったら、存在がはっきりしない。だから時と所がはっきりしないのです。いつ出てくるかわからない。どこに出てくるかわからない。つまり、足がないからふらふらしておるのです。幽霊でなくなるということは、幽霊に足が生えることでしょう。存在がはっきりするということです。弥陀の誓願を聞いたら、幽霊に足が生えてきて、本来行くべき所へ帰っていきましたということです。
死んでから柳の下へ出てくる幽霊は、結果の幽霊。結果の幽霊がいるなら、原因の幽霊は何ですか。もっと怖い幽霊です。結果の幽霊は、今の親鸞聖人の話をした「念仏を申しなさい、弥陀の誓願を聞きなさい」、それで消えていく者たちの話でしょう。
さて、そこでもっと怖い幽霊はどこにいるのでしょうか。隣を探さなくてもいいです。それは私だったと気付くことを仏法というのです。仏法を聞くとは、私は確かに人間に生まれさせていただいた。そのことは、かけがえのない尊いことであったということに気付く、それに出遇うということが、幽霊に足が生えるということです。足が生えたら何がわかりますか。大地があることに気付くでしょう。大地に支えられている自分がいるわけで、自分の力で、大地がなくても立てると思っているなら、それは幽霊ですね。
私たちが頂いていかないといけないのは、私ひとりを生きているのではないんだと。私が生きているということ以上に、生かさせていただいていた大地があった、世界があった、あなたがいた、私がいた、それは全体が私を生かしめているという世界に気がついたら、私は幽霊であるということから方向が変わっていくのです。
浄土という世界は、あなたがいるということが、かけがえのないことだと。これが私そのものだと言える世界を大地として踏みしめていく者になっていく。そのことを聞くことを仏法、仏道というのです。
承元の法難で、「念仏を申したらいのちを奪うぞ」と言われても、私は弥陀の本願に出遇ったら、この限られたいのちが多少短くなろうとも、出遇ったことの大切さを私は生きていきたいと言って、90年生きられたのが親鸞聖人でした。
85歳の時を経て、わが人生はいったい何であったのかと尋ねたら、弥陀の本願を頂いたという一生であったと。その一生はどんな一生か。どんな人も平等にうなずける本願の世界は、私を捕まえて離さないよというおこころに出遇ったことだったのです。これが「摂取不捨の利益」ですね。どんな人もそこで捕まえられるというか、どんな人もあなたは尊いよということに出遇えっていけるのです。
最後の一句は「無上覚をばさとるなり」です。無上覚は、この上ない目覚めです。みんな一人ひとりが尊ばれるということ。そういうことに目が覚めること。誰もが共に願われているいのちでしたと目が覚めていくことなのです。もっと言うと、愚かさに目が覚めるということです。愚かやだという目の覚め方は、けんかができないでしょう。私が一番だというときはけんかになりますね。愚かさに目覚めるということは、共に遂げる世界を開いていく扉だと私は思います。愚かさに気づくということは、友だちに出遇うことだと思います。一等賞を目指すと蹴落とさないと駄目でしょう。
「ウサギとカメ」という話がありますが、あれも変な話ですね。ウサギはぴょんぴょん跳んで、四つ足のカメはのそのそ。もともと能力が違うのですから、そんなものを競争させようとすること自体が変な話です。
一番いやらしいのは、カメさんが、ウサギさんが寝ているときに黙って追い越していくでしょう。あのときにカメさんがウサギさんを起こしたらどうなりますか。多分、目が覚めたウサギさんは、1等賞になるでしょう。でも1等賞になっても、ウサギさんは威張れませんね。それはカメさんのおかげだからね。
そうするとね、1等賞であろうと何等賞であろうと、存在しているということが大事なことでしょう。あなたが勝たしてくれたんだという世界を頂いたら、自分だけが威張っていられんなという世界がそこから広がっていくのではないですかね。
私たちの価値観はみんな、カメさんのような努力をすることでしょう。でも、仏法で大事なのは、寝ているウサギさんを起こすことです。ところが私らは損得勘定がはたらきますからね。「ここで起こしてしまったら…」、そういう者も救うのが阿弥陀さまの教えです。
だから正直とか、立派になりなさいではないということではありません。そういう自分だと気づきなさいと。気づいてみたら、阿弥陀さまのおこころに触れたら、根性が悪い人は根性の悪いまま生きているということが認められるのです。そういうときに初めて、昨日のご住職のご法話にもありましたが、「悲しみ」ということが知らされるのでしょう。
晴天の報恩講の朝
如来大悲と師主知識の恩徳
「正像末浄土和讃」の巻頭の「弥陀の本願信ずべし」の「ご和讃」だけは節を付けてお勤めをしないのです。私の人生をそこで本当にうなずいたという一首が「弥陀の本願信ずべし」だったのです。85歳の50年前は、私はどんな人生を選んだんだろうかと。
もう一つ言うと、その2年ほど前に、善鸞という息子さんを義絶しています。80歳を過ぎてから息子を義絶したり、五十回忌を迎えるころに、昔の友だちのいのちのことが思い浮かぶ。おそらく2月9日は寝られない夜があったんでしょうね。そのときに浮かんだ「和讃」だと。そういうことを踏まえた上で私の人生がまことに尊いものだったなと喜びを書きつけられたのです。「正像末浄土和讃」には「如来の作願をたづぬれば 苦悩の有情をすてずして 回向を首としたまひて 大悲心をば成就せり」という「ご和讃」があります。「如来の作願」とは、阿弥陀さまがご本願を起こしてくださることです。そのおこころを尋ねてみるならば、それは苦悩の有情(衆生)を捨てない。苦悩の有情とは私たちのことです。苦悩することにおいて有情だということです。人間は苦悩する。その苦悩するという有情を捨てないんだと。捨てないどころか、それを追っかけて捕まえるのです。
「苦悩の有情をすてずして 回向を首としたまひて」と「回向」という言葉があります。回向という言葉は、如来が得られた全てを振り向ける、如来回向といいます。仏さまは、あらゆる功徳を自分のものにしないで、それを全部有情に振り向ける。私に全てを振り向けて、「首としたまひて」と。「首」とは、首相と言うでしょう、総理大臣。だから、首というのは第一番目という意味です。だけれども、もう一つ漢字の意味で考えたら、首というのは「首」でしょう。首をかけているのだと。手や足であったら、一本欠けてもいのちは失いませんが、首だったらいのちを失うわけです。阿弥陀さまが、いのちをかけて、全てを振り向けて、この私に呼びかけていてくださる。それが24時間営業の阿弥陀さまです。
お寺へ来て、阿弥陀さまに手を合わせたら、すごいなと思うでしょう。立たせているのですよ、阿弥陀さまを。誰が。横向かんでもいいです。ここにおる私たち一人ひとりです。私が手を合わすまで待っておられるのです。「ご苦労さまでした。阿弥陀さま、どうぞお座りください」と椅子の一つも持っていったら、阿弥陀さんは何と言うでしょうか。「椅子は要らんから、あんたも立ち上がりなさい」と言うでしょう。
救われるというのは、座り込むことではない。あなたと私といっしょに立ち上がって、一切衆生とともにを救われていく者として生きなさい。それにふれたら、座り込むということはないですね。
阿弥陀さまが救ってくださるということは、ただ救ってくださるのではないです。救ってくださるということに出遇ったら、私はまたそのお仕事をさせていただく者としてのいのちを頂いておるんだという、いのちの責任を頂いているんです。どういう責任を頂くかといったら、南無阿弥陀仏に生きて、いのちを終わっていくという責任です。これはお金では買えない責任です。そういう大事な宝を、私どもは頂いているということが、最初の三宝に帰依するという、仏法に帰依するということです。
この宝だけは誰にも取られる心配はない。欲しいという人にはどんどんあげればいい。この世のなかで、あげればあげるほど増える宝というのは、そうはないですよ。だから私どもの先輩は念仏を申して、そして次にまた念仏を申す人を生み出し、そして自らも仏という世界を頂いて、いのちを終わっていかれたのです。
そこで最後に「恩徳讃」を頂きますと、先ほど言いました「如来の作願をたづぬれば」の最後のところで、「大悲心をば成就せり」というでしょう。大悲心とは阿弥陀如来のおこころだと。それはいのちがけのこころです。それを聞いたら「如来大悲の恩徳は」となるでしょう。阿弥陀さまは私をいのちがけで呼びかけて、救おうとしてくださる。それを聞いて、あなたも立ち上がりなさいと言われた人がどういう生き方をするかといえば、「身を粉にしても報ずべし」だと。「報ずる」とは応える、報いるということですね。
皆さん、身を粉にすることは好きですか。だいたい文明は、身を楽にすることばかりを考えるでしょう。洗濯機がいい例でしょう。昔は手で洗っていた。身を楽にするために機械で洗濯するようになった。でもそれに慣れてしまうと、まだ面倒くさいと。今度はローラーをこうやってぐるぐる回して、ああ楽になったというけれど、3年ぐらいすると、もう今度は干すのが面倒くさいと。今度は脱水機ができた。脱水でもまだ干さないとならない。すると乾燥機ができた。これが私たちの在り方でしょう。
去年、「そのうちおたたみロボットというのが出てくるかもしれませんね」と言っていたら、今年、ちゃんとおたたみロボットが出てきましたね。ここから先、何を売るようになるか。そのうち、服を着るのも面倒くさい、着せ替えロボットというのが出てくるかもしれません。
だから、楽をすることには一生懸命に頭を使いますけれども、私は立ち上がる力を失っていくのです。それが私たちが楽になることでしょう。そうではない、どんなつらい中にあっても、私は立ち上がっていく力を頂いていると気づいて、どんなしんどい中でもこのいのちを生き抜いていく力を頂いていくということが「身を粉にしても報ずべし」です。
そして「師主知識の恩徳」。師主知識は私にまでその教えを届けてくださった方々。その代表が親鸞聖人。でも、親鸞聖人は750年以上前に亡くなられてから今日まで、なぜ私に教えが届いたんだろうかということを考えたら、それは私に届くまでにその教えに出遇った人が、私に伝えてくださったからです。そういうことからすれば、この報恩講は親鸞聖人を代表として、私に教えを伝えてくださったご先達も含めて、ありとあらゆるいのちが私をして手を合わさしめてくださるのです。その総体を阿弥陀さまというのです。そのことに気付かせていただいたら、この私が「骨を砕きても謝すべし」。この苦しい人生を、苦しいままでも、骨がどれだけ折れようとも大事な世界に出遇ったことで力強く生きていく。そういうことを人々は頂いていけるのです。あなたもそのことに出遇ってくださいねと呼びかけてくださっているのを、私は、報恩講ご満座の結讃「ご和讃」である「如来大悲の恩徳は」だと思います。
それを聞いた私たちは、今日からどう生きるのでしょうか。今までの生き方はちょっと恥ずかしいなということが私の上に始まるかどうかですね。
今日からのいのち一日一日をどのように生きていくかという問いかけを頂いて、これから丁寧に生かさせていただきましょうということを、報恩講のご満座で、私ども一人ひとりが頂いていくことです。こういう御仏事だと頂戴することでございます。
今日は親鸞聖人の「ご和讃」を手がかりとして、そのこころを尋ねさせていただいたことでございます。どうもありがとうございました。