宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌関連ニュース

2006年2月26日掲載

住職ラジオ出演 6回目の放送内容

おはようございます。「今、いのちがあなたを生きている」というテーマでお話をさせていただいて、今日が最後になります。今、ここにある、かけがえのないいのちは、はかり知れない条件によって成り立っています。その計り知れない大きないのちの営みが、この私となり、この私を包んでいるのです。結局のところ、私たちは自分のすべてを無条件に包み、認めてくれるよりどころに出遇わなければ、自分の現実を受け止められず、むなしく生きていくほかはありません。このはかり知れないいのちの営みの世界を、私たちは阿弥陀のいのち、浄土と表現して敬い続けてきたのでしょう。そういう「本当に尊いこと」を回復していく道として、私たち真宗門徒はご本尊(阿弥陀如来・南無阿弥陀仏)を中心としたお内仏のある生活を大切にしてきました。現代の欲望中心の合理的な生活形態の中で、お内仏が家庭の中心からなくなっていく状況にありますが、一見平凡な、お内仏のある生活の中に、かけがえのないいのちの回復していく道があることをあらためていただき直したいと思います。

7年ほど前のことですが、私が住職をさせていただいている寺の聞法会に、過酷な競争に苦しむ一人のエリート青年が出席するようになりました。今、多くのサラリーマンが成果主義やリストラでうつ状態だと言われていますが、企業の合理的経営の中で苦しむこの青年、橋口茂さんもその例外ではありませんでした。宗教書を読みあさり、座禅までして自分を鍛えようとしたのですが、何をやってもどうにもならず、うつ状態から抜け出せませんでした。万策尽き果てたと思ったとき、子どもの頃、いなかのおばあさんが小さな背中を丸めて、お内仏で手を合わせて「南無阿弥陀仏」と念仏を称えている姿をふと思い出されたそうです。時を越えて、おばあさんの念仏が彼に響いてきたのです。そのことがきっかけとなって、彼は私のお寺に足を運び、教えを聞く生活が始まったのです。その中で、橋口さんは「競争に何とか勝って生き残っていくために、浅ましい生き方をせざるを得ない私です。本当におろかな自分、精一杯の自分だと思います。しかし、弱肉強食の過酷な世の中にあっても、親鸞聖人の教えにふれると、私たちの人生における様々な出来事や苦悩も無駄なことは何一つないと意味が与えられてくるのです。親鸞聖人の教えは、どんな自分であっても決して見捨てず、これが私だと、自分を引き受けさせていただける教えだと思います。教えに出遇うまでの私は、自分の思いにとらわれた生き方によって、間違いなく行き詰まっていました。そんな私が、汝、凡夫よ、阿弥陀仏に南無せよとの呼びかけに導かれることによって、自分の生きる基盤が与えられたことは本当に大きな救いだと思います」としみじみ語ってくれました。人間にとって、本当に尊いこととは何かを呼びかけ続けるはたらきがお念仏です。橋口さんは、不思議としか言いようのない、はかり知れないたくさんの条件によって、今、ここに、かけがえのないいのちが与えられていることに気づかされたのです。苛酷な競争社会という状況に振り回される生き方がひっくりかえって、「この私に何の不足なし」という、自分を丸ごと包む基盤を見出され、凡夫のままで安心して立ちあがっていける道を歩き始めたのです。

しかし、橋口さんは「年度後半の多忙な時期になると、聞法の場に足を運ぶことも、本を読むこともほとんどなくなり、教えから遠ざかって、元の木阿弥のようになってしまいます。実に悲しいことだと思います。そのような私だからこそ、繰り返し、繰り返し、教えに自分を見つめさせていただきながら人生を歩んでいきたいと思います」と言われました。そのような生活状況の中で、橋口さんは自宅にご本尊をお迎えし、家庭の中心に置かれました。橋口さんがどんな忙しい生活をしていても、必ず生活の中に、かけがえのないいのちを回復する場が与えられているのです。今日も橋口さんは「今、いのちがあなたを生きている」とご本尊から呼びかけられ、励まされながら生活をされているのです。

△ 「宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌関連ニュース」トップ