9月7日(木)〜8日(金) 田口弘君と行くはずだった北海道法願寺報恩講

  • 蓮光寺報恩講で法話する田口君(2014)
  • 田口君の通夜での感話
  • 葬儀後の出棺の様子
  • 還骨勤行後の狐野秀存先生のご法話

田口弘君(釋弘願)は、2年前母親の死を縁として、品川旗の台から亀有に引っ越してきた。目が見えなくても、家族が一人もいなくなっても、全国に法話に出かけ、坊主バーではサラリーマンをはじめとしたお客さんの悩みを聞く生活を続けていた。

その田口君・・・去る8月15日(火)の夜、帰宅途中の亀有の路上で倒れ急逝した。19時43分に彼からメールをもらっているので、おそらく帰りの電車のなかでメールをうったのだろう。たぶん、それから15分〜40分の間に倒れたのであろうと思われる。救急車で病院に運ばれ、心臓が動き出すよう様々な治療を行ったようであるが、21時21分に息を引き取った。肥大性心筋症(推定)と診断されていた。亀有警察から田口君の叔父夫婦と小生が連絡を受け、門徒と僧侶仲間1人も加わって、亀有警察で病院からもどってくる田口君を待った。0時ごろ田口君の遺体が警察署の霊安室に安置された。彼の顔を見て、現実を受け入れがたく、あまりにも悲しすぎて涙も出なかった。

だが、次の瞬間、田口君は、目が見えなくても、生きる意欲を南無阿弥陀仏からいただいて人生を完全燃焼して全うしたのだということを感じた。尊い56年間であった。本当によく生きた。「本多さん、念仏申す生活を続けてください」すでに彼の還相回向が小生に強烈にはたらいていた。

彼は翌日検視を行い、午後に蓮光寺に遺体が安置された。小生はお盆参りと一心寺さん(さいたま市)のお盆法要の法話に出ていたので、夜7時に、何人かの仲間僧侶と枕経を勤めたのであった。

24、25日の通夜葬儀までの間、田口君の遺体とともに生活をした。その間も法話に出かけた。一心寺さんの翌日は西念寺さん(坂東市)の夏季永代経法要、23日は岡崎教区第24、25、26組連盟の「夏季講習会」(愛知県豊田市 挙母支院)に出講した。田口君が還浄する前の9日に金沢教区の夏季仏教講座「聞」で法話したが、田口君が還浄後の法話と何かちがいがあったのだろうかとふり返ってみると、表面的には何も変わらなかった。しかし、田口君が後押しをしてくれて「存在の尊さの自覚」について話している感覚があった。南無阿弥陀仏の世界のなかでは、彼は諸仏の一人として小生のなかに生きていることを感じたことだった。

  • 旭山動物園坂東園長との対話
  • 特急が停まる無人の生田原駅
  • 田口君と合流するはずだった法願寺さん
  • 法願寺さんの掲示板
  • 法話の様子

法願寺さん(北海道紋別郡遠軽町生田原)の報恩講(9月7〜8日)の前々日の5日、旭川の旭山動物園の園長さんに同朋新聞のインタビューをした。坂東元園長は、動物や自然を通して、人間のあり方を深く見つめられている方である。坂東さんの「ありのままの中に素晴らしさやすごさがあります。ありのままの中に尊厳を感じてほしいということを理念しています。動物園は、人間の価値観や生き方を基準にして動物を見せるのではなく、動物のありのままの生態を通して、それがいかに尊くすばらしいものであるかを伝える場だと考えています。どのいのちも皆尊いのです。ヒトは自分たちにとって都合のいい愛し方や関わり方をする一方で不利益になる生き物は排除してきたのです」という言葉は、言葉使いはちがうが、田口君がいつも言っていることと同じで、園長さんが田口君とダブって見えたのであった。

6日、旭川から特急大雪に乗った。生田原まで2時間25分。午後3時すぎに到着した。特急が停まる無人駅を初めて経験した。埴山住職はお出迎えしてくださり、それから生田原を案内してくだった。夜は総代さんたちと食事をいただいたのであった。明日からのために、ゆっくりくつろいでほしい温泉付きのホテルをご用意してくださった。

電車大好き、いわゆる“鉄ちゃん”の田口君は、網走方面を観光し、7日の法願寺さんで合流する予定であった。埴山住職は専修学院で田口君の一つ上の先輩であることから、小生に随行(?)という名目で報恩講に参詣し、8日には小生と二人で夕方に旭川に入り、田口君が旭川別院の列座時代からよく行った店などて飲みかわすことになっていた。9日(土)たまたま法事が入っていなかったので、旭川で泊まって、門徒倶楽部に間に合うように帰京する計画をばっちり立てていた。

7日、ホテルに埴山住職が迎えに来て下さり、法願寺に到着した。「やっぱり田口君はいないのか」と思った。諸仏として田口君と付き合う自分と、凡夫であるがゆえに彼の死を受け止められない自分が同居していた。でも今日、明日の4回の法話は念仏の世界では常に田口君といっしょだということを大切にしながら話そうと決着したのだった。埴山住職もご法中と門徒さんの前で田口君の急逝のことを話し「田口君といっしょにこの報恩講を勤めていきたい」と言われ、小生と願いはいっしょであった。人間は自分の存在を全面的に受け止めてくれる世界を持たないと、むなしい人生になることを、田口君を通じて、繰り返し法話でお伝えしたのであった。

あっという間の2日間であったが、埴山住職とご門徒、そして田口君を知る出仕された法中と心を一つにして厳修した報恩講であった。

帰りの電車に田口君が乗るはずだったと思いながら、北海道の雄大な景色をぼーと見ていた。夜は小生一人になってしまうので、仲のよい住職さんが小生と夕食を共にしてくれた。翌日、飛行機に乗ったが、田口君が座る席にはサラリーマンの男性が座っていた。やはりつらい。凡夫とはまさにこの小生のことであった。やはりなかなか現実を受け止められない。その小生に死はいつ訪れるかわからない。だからこそ、「今、ここにあるかけがえのないいのちを生きてください」という南無阿弥陀仏となった田口君の励ましが聞こえてくる。雲海を見ながら、田口君を想うばかりであった。

田口君のマンションは9月中に引き払うことになっている。叔父さまご夫婦も後片付けで大変である。小生は、僧侶仲間の協力を得て、田口君の法話を録音したCDや書物の整理し、京都専修学院の青草びとの会に送ることにしている。

  • 修正会で聞法する田口君(どこにいるでしょう?)
  • 修正会後に有志でお雑煮、お節を食べ、酒を飲みかわす
  • 成人の日法話会後の新年懇親会で鍋を楽しむ田口君
  • 法友会での田口君
  • 門徒倶楽部研修会(沢渡)
  • 真夏の法話会後の蓮光寺ビアガーデンで語る田口君
  • 秋彼岸「無量寿廟」での雨の永代経法要に出仕する田口君
  • 報恩講ご満座に出仕する田口君
  • 亀有の町

田口君とは23年の付き合いであった。特に8月15日に田口君が急逝するまでの約2年8カ月は、田口君と非常に濃い、濃いという言葉では語りきれないほど深い付き合いをさせてもらった。

前述したとおり、2015年1月1日に田口君のお母様が亡くなった。元旦の朝の10時半ごろだっただろうか。「母が台所で倒れていて亡くなった。自分は目が見えないからどうしていいかわかりません。助けてください」とメールが来た。こんな悲痛のメールをもらったのは初めてであった。修正会の後、門徒と酒を飲んでいた私は、たまたま酒を飲んでいなかった門徒の日野宮さんに運転をお願いし、品川区旗の台にある昭和女子医大病院に向かった。その時に、両親を亡くし一人っ子の田口君を支えてくださっている叔父の田口さん夫婦ともお会いしたのであった。田口君が私にメールをくれたのは、叔父さまたちに支えられながらも、私に友人僧侶としてすがりたかったのだと思う。

田口君は友人がたくさんいるのに、なぜ小生にメールをくれたのだろうかとふと思った。正直、小生を頼りにしてくれたことがとても嬉しく感じた。ふりかえってみると1994年、櫟先生の『歎異抄聴記輪読会』で彼とはじめて出遇ったのだった。当時、高校教師をしていて、親鸞聖人の教えを中途半端にしか聞いていなかった小生は、目が見えないのに楽しそうに聴聞している姿に衝撃を受けた。その姿を通して、小生もより一層聴聞したいと思うようになった。ほぼ同年代(小生がひとつ上)ということもあって、田口君とよく会話をするようになり、小生の寺の聞法会にも出席してくれるようになり、亀有にもちょくちょく来てくれるようになった。96年3月に教員を辞めて、教化活動に専念するようになった背景に、田口君の聞法する姿があったことはまちがい。そういう意味で、彼は小生の善知識であった。

聞法の深まりとともに、お互いに個人的な悩みとかも打ち明け語るようになった。色々な思い出があるが、ネットに流れるので具体的なことは避けたい。ただ、彼が悩んでいる時に「目が見えたらな・・」ということを落ち込むこともあった。彼も凡夫である。しかし、そう言いつつも、何か南無阿弥陀仏のなかで出来事として私は受け取ることができた。愚痴を言っても、南無阿弥陀仏が彼を包み「かけがえのないいのちを生きてほしい」と願われていることを彼は痛いほどいただいていたからだ。

田口君と小生の関係は聞法を抜きにしては考えられず、それこそ仏法聴聞の法友として親しくなっていった。彼との聞法の歩みが、小生にメールをくれることにつながっていることがとても嬉しくありがたいことだった。

母親の死によって、叔父様夫妻が支えてくれるにしても、品川の旗の台の静かな住宅街で生活することは、彼にとってきわめて大変なことだと感じ、「よかったら亀有に来ないか」と勧めた。彼もそれを強く望んだ。彼は亀有にはよく来ていたこと、蓮光寺の門徒とも親しく、旗の台にくらべてお店の数も多く生活しやすいと考えたのだと思う。こうして母親の死を縁に亀有に住むことになったのであった。亀有在住の門徒には田口君を町で見たら「蓮光寺の門徒です」と声をかけてくださいとお願いすると皆喜んでうなずいてくれた。

家に帰れば、話をしてくれる、食事を作ってくれる最愛の母親が亡くなったことは彼にとっては青天の霹靂だったと思う。亀有の町が母親の代わりなどできないが、知り合いも多く、生活もしやすい。坊主バーにも旗の台からとほとんど変わらない通勤時間で行ける。そしてなんといっても私の寺の聞法会にすぐ行ける。現在、私の寺で行っている5つの聞法会に顔を出していたし、年中行事もすべて参加してくれた。真宗会館や親鸞講座に行く時も私や近くのお寺の住職が乗せていって送ってくれる。そして亀有に帰ってきたら一緒に酒を飲みかわすこともできる。さらに亀有の町の人たちはみな優しく彼に接してくれました。彼は亀有を第二の故郷として生活することを心から喜んでくれた。こうして彼と過ごしているうちに彼は「親友の本多さん」ということを口にするようになった。小生はなかなか親友という事が言えなかったが、彼の気持ちにおされて「親友の田口君」と言えるようになった。

でも、その田口君を本当に根底から支えたのは諸仏となった母親だと思う。彼は母親の葬儀の時「母親は諸仏となって念仏申せと勧めてくださるから」と言っていた。それが彼を根源から支えているのだと思う。田口君は、どんな状況だろうと、愚痴をこぼそうが、まるごと南無阿弥陀仏のお育てのなかで完全燃焼して生き抜き、浄土に還っていったのだ。

亀有の人たちのなかには、門徒以外の人でも田口君の姿を見て感動し、勇気づけらる人たちが多くいた。「私もがんばらないと」と感じる人や、人間存在そのものが尊いと教えられる人もいた。田口君がいると亀有に仏法の風が吹いてくる、そんな存在になりつつあった。

亀有では蓮光寺の門徒や私の僧侶仲間と聞法を続け、そしてよく食べよく飲んだ。しかし、昨年後半あたりから体調を崩しはじめ、亀有病院に通院しはじめた。小生は今年1月に人間ドッグに彼を誘い、二人で受診した。彼の検査結果は血管、心臓、尿酸値、内臓も成績がよくなかった。再び亀有病院で検査をし、日大病院で検査入院をして、まずは心筋梗塞の心配から開放されるためにカテーテルを入れることになった。カテーテルが入る前の食事制限は厳しいものがあったが、カテーテルを入れた後は食事制限も緩和され、次の内臓の精密検査を受け始めた矢先、15日夜に帰宅途中の亀有の路上で倒れたのであった。夏バテからの疲れもあったのであろうか。

田口君が倒れた場所は、彼がよく行くときわ食堂の前であった。通行人が食堂の店主に知らせ、店主は119番通報をしてくださり、救急車で運ばれた。そして21時21分に息を引き取った。

田口君は亀有を第2の故郷として、この地で生活することを大変喜んでくれた。拙寺の寺報に、彼は亀有を「念仏の聞こえる町」と題して寄稿してくれた。

彼は蓮光寺ファーストだと宣言してくれた。それは蓮光寺から念仏の教えをさらに発信し、亀有のみならず、少しずつ周辺に念仏の輪を広げていこう彼の願いであった。小生も将来的には亀有に坊主バーを開いて、年をとっていく田口君の活動を亀有で実現させたいと門徒と話していたものだ。

「本多住職、もし老人ホームに入るならいっしょに入ろう。もちろん亀有で」と言われたが、田口君は亀有で一生を終える気持ちでいただけに悲しくて仕方がない。亀有坊主バーも老人ホームも実現しなかった・・。

しかし、念仏の世界のなかでは彼と一緒だという呼び覚ましの声に励まされて生きていきたいと思う。くり返すが、目が見えなくても生きていける力を南無阿弥陀仏からいただいて完全燃焼して生き抜いた田口君のいのちの願いを我々一人ひとりが受け継ぎ、聞法に励んでいきたいと思う。念仏相続、換言すれば、これからも田口君を諸仏として出遇い直して生きたいと思う。

〔2017年9月13日公開〕