5月29日(月) 仏光寺派で法話

  • 会場の本光寺
  • 法話の様子。お寺の周りは水田地帯で心地よい風が入ってきました

仏光寺派新潟教区からの御依頼で、寺泊にある本光寺様を会場として開かれた「聞法の集い」で法話をした。大谷派の三条別院での親鸞聖人750回御遠忌讃仰講演会での小生の法話を聞いた仏光寺派の方々がおり、また、その法話が後に冊子となったことから、それを読んだ仏光寺の方々がいて、小生の招聘となったようだ。宗派外から、このような形で御依頼されることは正直とても嬉しい思いがした。

仏光寺派ということで、すぐ頭に浮かんだことは蓮如上人のことであった。蓮如上人に関係することは法話ではしないほうがいいのではなど考えたりもした。

蓮如上人の幼少の頃の本願寺といえば、参詣者もほとんどいないような実にさびれた状況であった。本願寺に対し、仏光寺は最大勢力を誇っていた。本願寺と仏光寺との勢力逆転の端緒は蓮如上人が山科に本願寺を建立してからである。山科に本願寺が建立されてから全国各地から参詣者が集まりだしたのは、蓮如上人の伝道活動の賜物であった。それだけではなく、本願寺以外の真宗諸派の門徒までが蓮如上人のもとに集まっていったのであった。勿論、仏光寺の門徒も本願寺の門徒となっていったわけである。この事態に、仏光寺第14代法主の経豪上人は、門徒が仏光寺から離れる理由を確かめようと、蓮如上人の法話を聴聞し始めた。ところが、蓮如上人の法話を聞き続けていくうちに、経豪上人自身が蓮如上人を慕うようになった。経豪上人は法主の座を捨て蓮如上人のもとへ、そして仏光寺門徒のほとんどが蓮如上人に帰属したのであった。こうして本願寺と仏光寺の勢力地図は完全に逆転したのであった。こういう歴史があることから、小生は、仏光寺派や高田派などでは蓮如上人のことは話しにくいという感覚を持っていた。

ところが、である。小生が何も言わないうちに、燕三条駅にお迎えに来てくださった仏光寺派のご住職が「蓮如上人のことは気にせず、お話しくださってもいいのですよ」とおっしゃった。その時、小生もそうか!と思い出した。それでご住職に「江戸時代、越後では、少子往生の問題で、大谷派から仏光寺派に転派した寺院がかなりあったと聞いていますが」とお尋ねしたら、「そうなんです。私のお寺ももともとは大谷派です。その後、大谷派や本願寺派に戻った寺院もあります。そういうことであまり蓮如上人を意識する地域ではありません。」と言われた。確かにこの地域は仏光寺派と東西本願寺との交流はさかんであった。

本光寺は大きなお寺であった。さがり藤の灯明と、阿弥陀如来の頭の部分が少しお隠れになっているところは西本願寺、鶴亀の燭台は東本願寺の流れだと感じた。正信偈の節が大谷派とまったくちがうのであるが、いっしょに唱和していると、とても新鮮で親しみが湧いてきた。正信偈の世界にふれれば、仏光寺派と大谷派というちがいなどまったくない。仏光寺派に親しみを感じた瞬間でもあった。

お念仏の声は大谷派より数段大きく、熱心に念仏を称えられていた。声に出せばいいというものではないという人もいるだろうが、声に出さずにおられないということが基本にあるのではないか。故百々海玲先生は小生に「五分でも十分でも念仏を声に出して称えなさい」と教え続けてくださった。その念仏は小生の口から出た諸仏の称名であることを気付かせていただいたのだった。念仏の発音で救われるのではない。諸仏のすすめによって、念仏の言われを聞くことが念仏申すこと、つまり衆生聞名である。念仏の声が聞こえなくなったと言われるが、少なくとも仏光寺派新潟教区のご門徒はお念仏を声に出して称えていた。見習いたいものである。

小生の法話に、ご門徒、僧侶、坊守が熱心に聞かれる姿には心を打たれた。班別座談後の全体での質疑応答も活発であった。結果的に蓮如上人の言葉にふれることはなかったが、そうしたわだかまりも全くなくなっていた。大谷派しか知らなかった小生は、仏光寺派で法話することによって、何か一皮むけたような気がした。

〔2017年6月25日公開〕