あなかしこ 第74号

聞法の用意

櫻橋淳 (釋淳心 52歳 蓮光寺衆徒)

明治に生まれた念仏者蜂屋賢喜代師に出遇ったのは、2018年8月のことである。この夏私は、大谷派教師試験を受験するために10日あまりを京都で過ごした。月末に行われる試験に向けて、京都教区で行われる直前の準備学習会に参加していたのだ。毎日、京都教務所と宿を行き来し、遅くまで部屋で勉強をしていた。

2日目の講義が終わり、参考書を買いに本山の向かいにある法蔵館に立ち寄った。法蔵館は慶長7年創業の老舗仏教系出版社で、ひととおりの仏教書が揃っている。1階の書店でお目当ての書籍を見つけた後、すぐ近くに『聞法の用意』と表紙に大きく書かれた本を見つけた。開いて読んでみると、書店であることを忘れて引き込まれていくような本であった。

たとい大千世界に
みてらん火をもゆきすぎて
仏の御名をきくひとは
ながく不退にかなうなり
(『浄土和讃』聖典481頁)

これは

設満世界火、必過要聞法
会当成仏道、広済生死流

とある経典の意味を、誰人にも解し易いように親鸞聖人が和讃せられたのであります。(中略)

食事の準備もせねばならぬ、孫の世話もせねばならぬ、来客がある、用事が積み重なっておる、労作に疲れて余力がない、身支度もせにゃならぬ、ちとでも休養をとりたいとも思うのであろうし、その上に、家の者は不自由であるから出ることを喜ばぬ。それで自然自分の脚は前へ進み兼ね、家の者や用事は後から引っぱっているというのですから、それらを切り抜けて聞法に出るという事は、まことに大千世界の火の中を通り抜ける程の勇猛心がなくては、できぬことであります。

ある信徒の一人は申されました。

「働きざかりの私共が、こうして聞法に出かけるのは容易なことではありません。働いても働いても幸福になれないのでありますから、もっともっと働かねばならぬと思うばかりであります、そのために心は何時も焦燥していまして、夜も昼も心身を働かし通しでいるのです。働いても働いても金が儲からぬのですもの、もっともっと働いてと考えています。それゆえ、とても一応や二応のことでは聞法の時間は得られません。(中略)」

と話されたことがあります。目前の都合や幸福に心を奪われて、根本の幸福について道を求めようとしないため、家事を切り抜けて聞法するという事は、世界に満つる火を超えてゆく心がなければ、なかなかできないものであります。

(『聞法の用意』9-12頁)

そのまま師の本を購入して、夕食を摂ることもせず、教師試験の勉強もせず、最後まで読んだ。聞法とは一体何なのか、師の考えがそこにいきいきと描かれていた。

折しも準備学習会にて、真宗学を教えてくださった平原晃宗先生から、「教師とは教えを師とし、先頭に立って聞法するものである」と教わったばかりである。「聞法こそ我が人生」と強く思ったものである。

あれから4年以上が経つ。さていまの私はどうであろうか。相も変わらず「忙しい忙しい」と仕事に追われ、仕事に行かなければならないからと聞法会を後回しにする。そのくせ「真宗というのは難しいものだなぁ」と訳知り顔で言ったりする。

先日、久しぶりに『聞法の用意』を開いた。そこにはこんな賢喜代師の言葉があった。

なんぼ聞いても解りませんと、よく人はいいますけれども、なんぼ聞いてもという、そのなんぼというは、どれだけのことをいうのでしょうか。一月に一日聞いて、一年聞いたって、十二日ではありませんか。二年聞いたって二十四日です。三年聞いたって三十六日です。そしてその一日といっても二、三時間であって、ことによると、朝早くから自分の生活のために使い古した心身をもって、残った滓の夜の一時間や二時間費やして聞いたのが、いくら積もったって何程になると思っているのでしょうか。(中略)たとえ五年聞いた十年聞いたといっても、何を聞いてきたのか、どんな心でもって聞いていたのかは問題であります。聞法について不用意に聞いていては、だめです。

(『聞法の用意』62-63頁)

蓮如上人は「ただ、仏法は、聴聞にきわまることなり。」(『蓮如上人御一代記聞書』)と言われた。聞法して聞法して、そしてまた聞法して、自分にそれを引き当てていくならば自ら頭も下がっていくのだろう。

聞法の用意をしている様ですけれども、聴聞に出る前にそうばたばた働いては、それは用意ではなくて聞法の不用意であります、本当に用意するのならば、前日にでも働いて置いて、その前には余り働かんでもよいようにしておくべきであります。用意するならば、聴聞はその時から始まっているのであります。それ程に用意するならば家の中にあっても、何かよい事を考えられて、自然に得るところのあるものであります。それが、聴聞といえば仏像の前に坐って、講師が声を出して話しかける時から始まると思っているのであります。

(『聞法の用意』82-83頁)

聞法して聞法して、そしてまた聞法して、「生活のなかの聞法」ではなく、「聞法のなかの生活」となったときに、自力我慢の方向転換をして、他力救済の道が開けてくるのだと思う。

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