あなかしこ 第74号

法話

テーマ 不安を超える道
講師 伊東恵深先生 三重県松阪市・西弘寺住職 45歳

自主聞法会〈下町聞法会〉
2022年9月3日(土) 於:光明寺(荒川区)

人生に何一つ 無駄はない

  • 伊東恵深先生

みなさん、こんにちは。四回連続の聞法会も、コロナ下のなかで今回が最終回です。連続講座のテーマ(「本当の幸せとは ―親鸞聖人の救い―」)に応え得るようなお話をして、総括できればと思っております。

前回のお話のまとめを、蓮光寺さんの機関誌『あなかしこ』に掲載していただいておりまして、それをいつも拝見しています。そのなかで、蓮光寺のご門徒さんの篠﨑一朗さんがお亡くなりになったという記事を拝見しました。私も東京にいた時に、何度かお会いして、ご一緒に仏法を聞かせていただきました。篠崎さんが出版された『人生に何一つ無駄はない』(東本願寺出版)という冊子があります。それを通して癌を患っている多くの方々が、お念仏の教えに出遇う機縁となったと書かれていました。この記事を拝見して、「私は、本当に『人生に何一つ無駄はない』というような生き方をしているか」ということを問われながら、今日は東京に参りました。

この『人生に何一つ無駄はない』ということですが、清沢満之先生が、家に盗賊が入って、物を盗まれたとしても、それによってお念仏の教えに目覚めたならば、その盗賊というのは自分にとっては善知識(教えに導く先生)であり、如来のお使いであるというお話をされています(「精神主義〔明治三十五年講話〕」参照)。ですから、清沢先生の場合は結核ですが、病によってお念仏の教えや阿弥陀の光明に値遇することができたならば、それはけっして無駄なことではなく、それこそが如来のおはたらきなのでしょう。

しかし「言うのは安し」で、このように頂けるようになるまでには、艱難辛苦(かんなんしんく)を経なければならないと思います。

レジュメの「講師からのメッセージ」に、「私たちは毎日、『幸せだ』とか『不幸せだ』とか、いろいろな感情をいだきながら生活しています。人間だから当たり前ですが、しかし、その感情に〈必要以上に〉振り回されてしまうと、途端に自分自身が見えなくなってしまいます。佛光寺の八行標語に、『みんなと同じは不満 みんなと違うと不安 どうなりゃ満足?』という言葉があります。これが私たちの現実ではないでしょうか。『本当の幸せ』『本当の満足』『本当の安心』ということがわからないから、いつまでも心が落ち着かないのです。」

と書いていますが、本日の最終回では、本当の幸せ、浄土真宗の救いとは、いったいどういう救いなのか、ということを尋ねてまいりたいと思います。

不安に立つ

安田理深先生は晩年、老衰に加えて、片方の肺しか機能していないということで、「老衰 片肺 『不安に立つ』の外なし」というメモ書きをしておられたことが伝わっています。さらに安田先生には、「本願の智慧が〈不安〉という形で人間にきているんです。不安が如来なんです」というお言葉もあります。私たちは、不安をどうにかして抑えつけようとか、趣味やお酒などで忘れてしまおうと考えがちです。しかし、そうではなくて、安田先生は「不安こそが如来だ」と教えてくださっています。蓮光寺さんの教化テーマになっている「安心して迷うことができる世界」というのも、不安に立つ仏教といえます。これらの言葉は、浄土真宗の救いを的確に表していると思います。

不安の具体相というのは、人によって千差万別です。「あなたの日常生活において、いま不安なことは何ですか」とお尋ねしたら、老後のこと、健康のこと、お金のこと、子どものこと、死後の不安、あるいは漠然とした不安など、いろいろな不安があると思います。

「不安」ということを聞くと、いつも思い出す逸話があるのですが、禅宗の開祖である達磨と、弟子の慧可という方がいらっしゃいました。達磨大師が坐禅を組んでいるところに、慧可が訪ねていきます。慧可は「私は不安なのです」と達磨に言います。すると、達磨大師は「私がその不安を取り払ってやるから、不安を出してみろ」と慧可に言うわけです。

慧可はそう言われて、あれやこれや考えるのですが、どこを探してみても自分の心のなかの不安というものを、外に出すことができない。出してみろと言われて、いったい何が自分の不安だったのか、自分を問い尋ねてみると、「あれ、何だったのだろうか」と思い至って「そういったものはありません」と言うと、達磨大師は「ほら見ろ、なくなっただろう」というやりとりの、「達磨安心」という禅問答があります。不安、不安というけれども、「その不安を出してみろ。それは本当に不安なのか」という確かめが必要なのではないでしょうか。

先月の8月の自坊掲示板に、「過去を引きずり 未来に囚われ 今が宙ぶらりん それを幽霊という」と掲げました。いろいろなところで目にする有名な言葉ですが、ここでいう「幽霊」とは私たちの姿です。幽霊の髪の毛が長いのは、過去を引きずり後ろ髪を引かれているしるし。手を前に出しているのは、未来に囚われているしるし。そして、足元が消えて描かれているのは、いまが宙ぶらりん、不安定であることのしるしです。

これは第3回のテーマであった「孤独とむなしさの正体」と同じで幽霊みたいなものかもしれません。実体のない影を自分で作り出して、それに怯えている。実体はないのに、それに苦しめられている。そういう私たちの姿が、日々の生活で感ずる「孤独とむなしさの正体」です。自分は孤独だとか、むなしいと感じるのは、他者との比較で生じた相対的な孤独やむなしさではないでしょうか。絶対的な孤独やむなしさであれば、それは宗教的課題であり、宗教的欲求でありましょう。しかし、相対的なものであれば、それは幽霊の姿と一緒です。過去を引きずり、未来に囚われて、現在が疎かになっている、宙ぶらりんになってしまっているのではないでしょうか。

阿弥陀の本願力に乗托する

安藤州一という清沢満之先生のお弟子さんが、『信念の人 清沢満之』という書物で、先生のお話の聞書を残してくださっています。

「精神主義によって安心を得た者は、どんな時も決して失敗ということがない。失敗というものは、自分が失敗だと思って、落胆する時に失敗というのである。自分が失敗と思わぬ限り、どんなことも失敗ではない。世間の人は、親鸞聖人が流し者にあわれたことを聖人の失敗だというけれど、聖人にとってはそれが少しも失敗ではない。(中略)失敗というものは決して外にあるのではない。一つのことを失敗と認めるか認めないかは、こちらの心が決めることである。精神主義によって安心する者は、どんなに苦しい事件にであっても、どんな惨めな境遇におかれても、決してそれを失敗とは思わない。眼に映り心に思うところ、ただ如来の働きがあるばかり、不思議な力の導きがあるばかりである。この力の導きに感謝する者には不平なくうらみがない。不平なくうらみなき者にどうして失敗ということがあろうか。」

さらに清沢先生は、「我は此の如く如来を信ず(我信念)」で、

「何が善だやら、何が悪だやら、何が真理だやら、何が非真理だやら、何が幸福だやら、何が不幸だやら、何にも知り分る能力のない私、したがって善だの悪だの、真理だの非真理だの、幸福だの不幸だの、と云うことのある世界には、左へも右へも、前へも後へも、どちらへも身動き一つもすることを得ぬ私。この私をして、虚心平気に、この世界に生死することを得せしむる能力の根本本体が、即ち私の信ずる如来である。私はこの如来を信ぜずしては、生きても居られず、死んで往くことも出来ぬ。私はこの如来を信ぜずしては居られない。この如来は、私が信ぜざるを得ざる所の如来である」

と述べられています。

この苦悩が満ちみちた世界において、生死することを得させてくださる、その根本本体は、私が信ずる如来、すなわち阿弥陀如来である。南無阿弥陀仏の信念である。それがなかったならば、私は生きてもいられないし、死んでもいくこともできない。にっちもさっちもいかない。前へも後ろへも進んでいくことができない。先ほどの言葉で言えば、幽霊になっていかざるを得ないという受け止めだと思います。さらに、

「私は只この如来を信ずるのみにて、常に平安に住することが出来る。如来の能力は無限である。如来の能力は無上である。如来の能力は一切の場合に遍満してある。如来の能力は十方に亘りて、自由自在無障無礙に活動したまう。私はこの如来の威神力に乗托して大安楽と大平穏とを得ることである。私は私の死生の大事をこの如来に寄托して、少しも不安や不平を感ずることがない。」(同)

とおっしゃっています。

ただし、「少しも不安や不平を感ずることがない」と言えるには、前提条件がありまして、この如来の威神力に乗托して、すなわち死生の問題を阿弥陀如来の本願力に乗托することによって、いま現在の不安や不平を感じることがない、と述べられています。

正定聚に住する

今日が最後ですので、爪痕を残すといいますか、みなさんのお心に何か引っかかればいいなという思いで、あえて厳しいことを申し上げます。

清沢先生がおっしゃるように、「少しも不安や不平を感ずることがない」ということは、清沢先生の了解が間違っているか、私たちが真剣に聞法していないかのどちらかです。清沢先生は特殊な人だったという話なのか、私たちの聞きようが足りないのか、あるいは間違っているのか、ということに尽きます。同じように、浄土真宗のお話をいろいろな所で聞かれていて、なかなか腑に落ちないということがあるとすれば、答えは2つだけです。講師の話が悪いか、みなさんの聞き方が悪いか、どちらかしかありません。あとは「面々の御はからい」(『歎異抄』第2条)です。

では親鸞聖人は、阿弥陀如来の救いをどのようにいただかれたかというと、「正信偈」には、

「あまねく、無量・無辺光、無碍・無対・光炎王、清浄・歓喜・智慧光、不断・難思・無称光、超日月光を放って、塵刹(じんせつ)を照らす。一切の群生、光照を蒙(かぶ)る。」(『真宗聖典』204頁)

というお言葉で、阿弥陀如来のはたらきを12の光として表してくださっています。お念仏の教えに出遇うということ、阿弥陀さまの教えにお遇いするということは、このようなはたらきを持っている12の光にお遇いするということです。

阿弥陀仏はさまざまな光を放ち、塵刹つまり塵ほど多い国々や国土を照らしてくださいます。そして一切の衆生、生きとし生けるものは、その光のお照らしをこの身に賜るのです。たとえば「無量光」とは、私たち人間は何でも量るような有り様を知らせてくださる光です。「清浄光」とは、私たちの貪欲の心を除く。「歓喜光」は、いかり・腹立ちの心を除く。「智慧光」は、私たちの愚痴、無明の闇の心を除く。このように、仏の光明に照らされるということは、阿弥陀さまの教えをいただいていくということです。

そして親鸞聖人は、お念仏の教えに出遇ったならば、どのような生活が成就するかということを、「正信偈」に続けて書いてくださっています。

「本願の名号は正定の業なり。至心信楽の願を因とす。等覚を成り、大涅槃を証することは、必至滅度の願成就なり」(同)

私なりに拙い訳をつけると、「第十七願のおこころ、お念仏の教えを通して、第十八願の真実の信心を得れば、正定聚(しょうじょうじゅ)、等覚に住する。これは不退のくらい。つまり、この土(此土・此岸・娑婆)の利益である。大涅槃(滅度)は、かの土(彼土・彼岸・浄土)の利益であるが、その未来の利益を、この土において得る(必至)のである」という意味になります。

お念仏の教えによって、真実の信心を得れば、それは正定聚の位である。正定聚とは、お浄土で恵まれる功徳を、いまいただくことができる位です。死んだら救われるという話ではありません。その救いの内実を、現生でいただいていくことができる。信心獲得さえすれば、正定聚に住することができると親鸞聖人はおっしゃっています。

正信の内実

私は今日、三重県松阪市から出てきました。名古屋駅で乗り換えて、東京駅まで行こうとするときに何が大切かといえば、当たり前ですが東京行きの新幹線に乗ることです。名古屋駅で東京駅行きの新幹線に乗ることが、いうなれば私の大切な仕事です。あとは車内で寝ていようが、本を読んでいようが、新幹線が私を東京へ運んでくれます。これを間違えて、新大阪や博多行きの新幹線に乗れば、東京にはたどり着きません。

私の仕事は、名古屋駅で東京行きの新幹線をちゃんと確認して乗ることです。それと同様にというと、少し誤解があるかもしれませんが、あえて分かりやすく言うと、お念仏の教えによって、お浄土へ行き生まれていく、必ずお浄土の功徳に至り着くということは、もうその浄土の功徳を、新幹線に乗った時点で手に入れているのと同じようなものだということです。

数学の記号でいうと、「= (イコール) 」とはいえないけれども「≒(ニアリーイコール)」です。イコールというと、仏さんと一緒になってしまいます。しかし仏さまの功徳を、いまいただいていくことができる。同一ではなくて、如来と等しい (≒) ということです。

たとえば、百万円の宝くじが当たったとしましょう。まだ換金していなくても、当選していたら、それは百万円を手に入れたのと同じようなものでしょう。手元にはまだ百万円はないけれども、当選券を持っていれば、それが百万円に変わることが約束されているわけです。手に入れたとは言えないけれども、必然として約束されています。このたとえでは、不十分かもしれませんが、浄土真宗の救いを理解する上で手がかりになると思います。未来をあてにしなくてもよい。未来の功徳がいま現在に来ているという救いです。

正しい新幹線に乗るのが私たちの仕事であって、反対行きの新幹線に乗ってしまうことが邪信、不信でしょう。正しい方向に乗ることが正信です。『歎異抄』という書物は、親鸞聖人の教えを同じく頂いていたにもかかわらず、異なった領解をしている門弟たちに向けて、泣く泣く筆を染めて記したものです。『歎異抄』は、他宗を批判する書物ではなくて、同じお念仏の教えを頂く者のなかに、邪信や不信というあり方があることを歎いて記された書物です。

ですから、「真実の信心を得れば」というのは、私たちの仕事です。これを抜きにしては、救いは開けてきません。それは教えのほうが悪いのか、私たちの聞き方が悪いのか、どちらかです。

本当に聞くということ

浄土真宗の救いのありさまが、「高僧和讃」の曇鸞讃に端的に記されています。

無碍光の利益より
威徳広大の信をえて
かならず煩悩のこおりとけ
すなわち菩提のみずとなる
罪障功徳の体となる
こおりとみずのごとくにて
こおりおおきにみずおおし
さわりおおきに徳おおし」
(『真宗聖典』493頁)

私の拙い訳をつけますと、「無碍光である阿弥陀仏の光によって、お念仏の信心をえたならば、煩悩の氷というのは、転じられて功徳の水になっていきます。罪障は功徳の体です。それは氷と水のような関係で、たくさんの氷が溶ければたくさんの水が生じるように、多くの不安が転じられたならば、そこに得られる安心は非常に大きなものなのです」となります。

私たちは、人生における障りは少ない方がよいと思いますが、けっしてそうではありません。障り多い人が、お念仏の教えに遇い、転ぜられたならば、その分だけ功徳は大きくなるのでしょう。もし現実がそういかないのであれば、先に申し上げたように、教えが悪いのか、聞き方が悪いのかのどちらかしかありません。教えのほうが悪いと思うならば、他の教えを求めればいいでしょう。しかし、「教えは正しいはずだけど、一向に…」ということならば、私の聞き方ははたして正しいのかを確かめてみることが大切ではないでしょうか。

『一念多念文意』に、

「『聞其名号』というは、本願の名号をきくとのたまえるなり。きくというは、本願をききてうたがうこころなきを『聞』というなり。また、きくというは信心をあらわす御のりなり。」(『真宗聖典』534頁)

と教えられているように、真宗の聞法は、聞いて「いい話だった」では終われないものがあるのです。また、『安心決定鈔』にも、

「きくというは、ただおおように名号をきくにあらず、本願他力の不思議をききて、うたがわざるをきくとはいうなり。(『真宗聖典』947頁)

と示されています。「おおように」とは「おおざっぱに」という意味です。

「聞即信」という言葉がありますが、疑わずに聞くことが本当に聞くということです。聞いて、「本当かな」とか「いい話を聞いたな」という程度では、本当に聞いたことにはならない。親鸞聖人の教えが間違っているのか。それとも、私たちの聞きようが足りなかったり間違ったりしているのか。これはどうやら後者に問題があるように思います。もちろん、真宗や仏教の言葉自体が難しいとか、そもそも講師の話が分かりづらいという問題もあるでしょうが、最終的には、私自身が問われているのではないでしょうか。

評論家の若松英輔氏が、「『何か〈について知る〉』ことと、『何か〈を知る〉』ことは、まったく違う経験になる」(「二つの〈知る〉」『南御堂新聞』2022年6月号)とおっしゃっています。

車の運転でたとえるならば、運転免許を取り立ての頃は、運転の仕方や車が動く原理は知っていたとしても、あまり上手には運転できないでしょう。「本当にわかる」というのは、知識を学ぶことだけではなくて、実際にできるようになって、はじめてわかったといえるのでしょう。頭でわかっていても、自分の人生において再現できなければ、それは本当にわかったということにはならないと思います。

しばしば、「真宗の教えが言っていることはわかるけど、でも現実は簡単にそうはいかない」という言葉を聞きます。しかし、「けど」「でも」と言っている以上は、私自身の分別を立てている以上は、仏さまを疑っているのです(仏智疑惑)。浄土真宗には、いわゆる一般的な修行はありませんが、修行があるほうが、よっぽどわかりやすいとも言えます。修行したことを拠り処にできる、寄りかかることができるからです。しかし、浄土真宗は寄りかかれないのです。寄りかかろうとすると、スッと逃げていってしまう。

ですから、「本当の幸せ」「本当の満足」「本当の安心」というのは、頭ではなく、身を通してわからないと、自分にやってこない。知識で知っているだけでは、獲得できないのです。

聞法道即実践道

さて、そろそろ終わりの時間ですが、最後のまとめを、「浄土真宗は、聞法道であると同時に、実践の仏道である」と記しました。「浄土真宗は聞法が大切です」とか「生活すべてが聞法です」などとよく言われます。たしかに、聞くこと、聞き続けていくことは大切ですが、聞いたことを自分の身を通して実践していく、日々の生活のなかで聞いたように実際に生きていくことが、本当に大切なのではないでしょうか。

いまどきの言葉を使えば、インプットとアウトプットが大切だということです。インプットとは、聞法して教えを聞くことです。しかし、それだけは、わかったといっても頭だけでわかったつもりになりがちです。アウトプットとは、聞いたことが自分にとってどういう意味を持っているのか。浄土真宗の救いが具体的にどのように実ってくるのか。そのことを、自身の生活や心身を通してアウトプット、実践しながら確かめていかなければなりません。厳しいようですが、たんに聞くだけでは足りないということです。

メーテルリンクの童話『青い鳥』の話ではないですが、幸せ(青い鳥)を求めてさんざん歩きまわったあげく、幸せは自分の家の鳥カゴにあったということもあるでしょう。真宗の話をずっと聞き続けた結果、「なんだ、こんなことだったのか」というシンプルな教えに落着するかもしれません。でも、それは実際にやってみて、実践してみて見つかるわけです。ただ知っただけでは、自分自身の人生の答えにはならず、それでは落在しないのが私たち人間です。

苦悩して、実践して、一周回ったスタート地点に、本当の救いが見つかるかもしれません。あるいは、ずっと先に見つかるかもしれません。それはわかりませんが、浄土真宗の教えは、聞法道であると同時に、実践の仏道です。どのように歩むかは、それぞれの「面々の御はからい」ですが、実際の歩み、実践を抜きにすると、教えがよくわからないということになります。そして、不安はいつまでも不安のままです。それを断ち切る、決断するということがなかったならば、自分の仏道として、教えは聞こえてこないのです。

カルチャーセンターのような教養としてはわかったとしても、自分の生きざまには何ら関わってこない話になってしまいます。ここに、私が普段から申し上げている「仏教や真宗の教えは、シンプル(単純)だけれども、それを聞くのは簡単ではない。単純と簡単は決定的に違う」ということの意味があります。

コロナの影響で、私のお話は1度延期を挟んで、当初は2年のお約束が、2年半かかりましたが、コロナ下にもかかわらず、無事に4回を終えることができました。これもひとえに、法話を聞きたい願うみなさんや、スタッフの方々の熱意にほかならないと思います。私自身も、普段は接する機会の少ない、首都圏で生活されているご門徒さんの実際に触れることができて、学ぶことが多くて大変ありがたかったです。

コロナで、みなさんとの懇親ができなかったことはとても残念ですが、またご縁がありましたら、お会いできれば幸いです。2年半にわたりまして、誠にありがとうございました。

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