あなかしこ 第73号

法話

テーマ 孤独とむなしさの正体
講師 伊東恵深先生 三重県松阪市・西弘寺住職 45歳

自主聞法会〈下町聞法会〉
2022年3月12日(土) 於:蓮光寺(葛飾区)

はじめに

  • 伊東恵深先生

ただいまご紹介いただきました伊東恵深と申します。この下町聞法会は連続4回ですが、昨年9月の3回目は、東京で新型コロナウィルスの感染者が多かったことから、都内のご講師をお呼びして開催されました。ですから私は前回からちょうど1年ぶりで、今回は通算で3回目となります。

お手元の今日のレジュメに、「本当の幸せとは ―親鸞聖人の救い―」と書いてあります。このタイトルは全4回の法話を通底する課題です。単なる幸せではない、本当の幸せとは一体何なのか。しかもそれを、親鸞聖人の教えによりながら、親鸞聖人が明らかにしてくださった救いを手掛かりにしながら、学んでいきたいと思います。

レジュメには次のように書いてあります。「私たちは毎日、『幸せだ』とか『不幸せだ』とか、いろいろな感情をいだきながら生活しています。人間だから当たり前ですが、しかし、その感情に〈必要以上に〉振り回されてしまうと、途端に自分自身が見えなくなってしまうのではないでしょうか。『みんなと同じは不満 みんなと違うと不安 どうなりゃ満足?』という『佛光寺八行標語』がありますが、これが私たちの現実でしょう。 『本当の幸せ』 『本当の満足』『本当の安心』ということが分からないから、いつまでも心が落ち着かないのです。この連続講座をとおして、親鸞聖人が明らかにされた『浄土真宗の救い』に、私たちの『本当の幸せ』を尋ねたいと思います。」

第1回のテーマは「ハダカで生まれてきた意味」、第2回は「幸せを見失った現代」でした。今回は「孤独とむなしさの正体」をテーマとしてお話しさせていただきます。ちなみに、最終回の第4回は「不安を超える道」というテーマです。今日は「孤独とむなしさの正体」をテーマとして、お話しさせていただこうと思います。

コロナ下で問われるお寺の姿勢

まずは、私が最近、少しカチンときたことをお話しさせていただきます。私は一昨年に『法話のきほん』(法蔵館)という本を出版しました。それで、この本の紹介記事が中日新聞(東京新聞)に掲載されたのですが、それをご覧になった、ある教区の組長を務めているご住職から、組(そ)の育成員研修への出講依頼を頂戴しました。「育成員」とは住職や坊守、寺族を指しますが、その研修会で、「法話」について話してほしいというご依頼でした。そこで、20ヶ寺くらいで構成されている、ある教区の組へ出講したのです。

お話が始まる前に、控室に組長さんが訪ねてこられて、「今日の話の中で、『コロナ終息後の寺院の教化活動のあり方』についても話してほしい」という依頼を受けました。つまり、コロナウィルスの蔓延により、寺参りや法事が中止や延期となり、葬儀の規模も小さくなっています。そういった状況の中で、今後、どうやったらコロナ以前の状態に戻すことができるか、その方途や可能性を話してほしいというご依頼でした。

しかし、ご依頼の趣旨として、真摯に教化活動を再構築していきたいというのではなくて、むしろ、減った寺の収入をどうにかして元に戻したいという要望が見え隠れしていました。そういう魂胆が、組長であるご住職の言葉から透けて見えてきたのです。「ご門徒さんと、もう一度一緒に聞法していきたいのだが、どこから始めたらいいか」という願いではなくて、「減ったお6参りやお布施を元に戻すには、どうしたらいいだろうか」と、私にはそのように感じられて、少しカチンときました。

そこで、講話の前半は「法話の基本」に関するお話をおこない、後半に、控え室で要望を受けた話をしました。

後半の話を始めるにあたり、聴講のご住職方に、「コロナが流行し始めてから、お寺の行事である報恩講や永代経、春・秋の彼岸会や盂蘭盆会等を、一度も中止にしなかったお寺は、どれくらいありますか?」と尋ねたのです。その組が所属する教区は都会でしたので、コロナ感染者も非常に多く、お寺の行事を一度や二度は中止にされたことがあるだろうと思いました。ですから、中止にしなかったお寺は一ヶ寺もないことを見越して、少し意地悪な質問をしたわけです。みなさん、下を向いておられました。

「何も中止にしたことがいけないと申したいわけではありません。そうではなくて、行事を中止にしたことに対して、何かしらの痛みを感じていらっしゃいますか? もし痛みも感じずに、コロナで収入が減ったから元に戻すにはどうしたらいいかという関心だけなら、そんなお寺はなくなっていいと思います」と、かなり強い調子で話しました。

中止したこと自体が問題なのではなく、中止にしたことに対して深い自己反省や痛みをもって考えたかということが大切なのです。その痛みがないまま、コロナが不安だからお寺の行事を中止したということなら、その程度で取り止めるような行事であるいうことを、寺自身が証明したということです。そんな程度の熱意しかない行事に、どの面をさげて「熱心にお寺参りしましょうね」と誘えるというのでしょうか。

たしかにお寺にお参りくださる方々はご高齢の方が多いので、クラスターの発生や亡くなった方が出たら大変ですから、苦渋の決断で中止にされたことでしょう。そこに、住職としての痛みや申し訳なさを感じた上での、先ほどのご質問であれば、私も精一杯お答えさせていただきます。しかし、「隣のお寺も中止にしたし、うちも右ならえで、中止にしよう」という安易な考えで中止しておいて、「収入が減ってきたから、元に戻す方法を教えてもらおう」という程度の質問だとしたら、とてもお答えできません。そんなふうにお話ししました。

昨年9月の下町聞法会は、私の出講は遠方だからということで見合されましたが、会自体は都内のご講師に代わりをお願いして開催されたことは、非常に大切なことだと思います。何とかして聞法を続けたいという願いだけが、お寺がお寺たる所以であると思います。

東京都と三重県という人口の違い、コロナ感染者数の違いは、確かにありますけれども、うちのお寺はコロナが流行し始めてから、緊急事態宣言下であっても、お寺の行事を一度も中止にしていません。いわゆる内勤めにもしていません。一つも欠かすことなく、例年の行事や法事を勤めております。

これは私の覚悟はすごいと誇っているのではなくて、私自身、このように法話をして、ご飯を食べさせていただいている身だからです。赤字になるような行事は、コロナを言い訳にしてやめた方が、経済的には楽なわけです。しかし、それをしてしまっては、タコが自分で自分の足を食べるようなものと一緒だと思います。

法話で「真宗の教えは大切だから、聞きましょうね」と言っておきながら、いざとなれば、その大切な教えを聞く行事や法事を、自ら率先して止めてしまうとすれば、それは私自身の立脚地を自分で否定するようなものでしょう。ですから私のお寺では、もちろん「体調にご不安があったら無理してお参りしなくて大丈夫ですからね」とお声がけしながら、お寺の行事をずっと続けております。

先ほどの研修会に参加された住職のみなさんに、どれだけ伝わったか分かりませんが、宗教とか仏教に触れるということは、本当はズバッと斬られるくらいの鋭さがあるのです。やんわり優しくお話をしていくことも大切ですが、教えにズバッと一刀両断にされてしまうという、そういう厳しい世界が親鸞聖人の教えにあることも、知らなければなりません。

孤独とむなしさの正体

さて、今回のテーマは「孤独とむなしさの正体」です。孤独やむなしさというものは一体どういうものか、お聖教(しょうぎょう)の言葉を確かめていきましょう。

『大無量寿経』下巻に「人、世間の愛欲の中にありて、独り生じ独り死し独り去り独り来りて、行に当り苦楽の地に至り趣く。身、自らこれを当くるに、有(たれ)も代わる者なし。」(『真宗聖典』60頁)とあります。

私たちはこの娑婆の中にあって、ひとりで生まれて、ひとりで死に、ひとりで去っていくものである。そして、自らの行いによって、苦であったり楽であったり、それぞれの世界へ至るものです。その苦楽を受けるのは、ほかならぬ自分自身であり、誰も代わってくれません。漢文で書くと「独生、独死、独去、独来」ですがここに「孤独」の「独」の字が使われています。

そして、「むなしさ」ということですが、仏教では「虚空」「虚無」「虚 (うつ) ろ」「空過」と表現できます。天親菩薩の『浄土論』の「観仏本願力 遇無空過者 能令速満足 功徳大宝海」(同137頁)、書き下すと「仏の本願力を観ずるに、遇うて空しく過ぐる者なし、能く速やかに功徳の大宝海を満足せしむ」。このお言葉について、親鸞聖人が『尊号真像銘文』と『一念多念文意』で註釈してくださっています。

「『観仏本願力 遇無空過者』というは、如来の本願力をみそなわすに、願力を信ずるひとはむなしく、ここにとどまらずとなり。」(『尊号真像銘文』同519頁)

阿弥陀如来の本願力を信ずる人は、むなしくここにとどまることはない、とおっしゃっています。

さらに『一念多念文意』では、「『浄土論』に曰わく、『観仏本願力 遇無空過者能令速満足 功徳大宝海』とのたまえり。この文のこころは、仏の本願力を観ずるに、もうおうてむなしくすぐるひとなし。よくすみやかに功徳の大宝海を満足せしむとのたまえり。『観』は、願力をこころにうかべみるともうす、またしるというこころなり。『遇』は、もうあうという。もうあうともうすは、本願力を信ずるなり。『無』は、なしという。『空』は、むなしくという。『過』は、すぐるという。『者』は、ひとという。むなしくすぐるひとなしというは、信心あらんひと、むなしく生死にとどまることなしとなり。」(同543頁)

傍線を引いた「むなしくすぐるひとなしというは、信心あらんひと、むなしく生死にとどまることなし」という言葉は、『尊号真像銘文』の「むなしく、ここにとどまらず」の「ここ」が、「生死」であることを明確に示しています。この「生死」というのは、迷いや苦しみ、煩悩や人生そのものでしょう。信心を頂戴したならば、むなしく迷いや苦しみにとどまることがないことを表しています。

いつも定期的に拝見している、東京教区の武田定光さんのブログ(「住職のつぶやき」)に、「孤独は事実、孤独感は幻想」という文章がありました。孤独と孤独感は位相が違うのだと書いてあります。私たちが感じる孤独というのは、実は孤独感のことを指しているのでしょう。武田さんは、「『孤独』は法性の〈真実〉を表現しているのだが、それを『寂しい』と『孤独感』で受け止めるのは位相の違う問題だ」とおっしゃっています。

仏さまが明らかにされた私たちの身の事実は、誰もが「孤独」です。一人ひとりが孤独の身を生きています。『大無量寿経』が説く「独り生じ独り死し独り去り独り来りて」という教言は真実であり、私たちの身の事実を見事に言い当ててくださっています。孤独とは、善いとか悪いとかではなく、私たちの事実そのものです。しかしながら、自らが「孤独な存在」だと気づけるかどうかは、それぞれ個々の問題や頂き方で分かれるでしょう。その頂き方として、宗教や仏教、そして真宗との出遇いが求められるのだと思います。

三木清の『人生論ノート』に、「孤独は山になく、街にある。一人の人間にあるのでなく、大勢の人間の『間』にあるのであ9る」という言葉があります。この文章は、私たちの孤独感を表しています。日頃から私たちが感じているのは孤独感の方でしょう。孤独と孤独感の違いがはっきりしていないので、経典の言葉がなかなか頂けないのではないでしょうか。

随筆家の若松英輔さんは「光であることば」の中で、「生活」と「人生」をごちゃまぜにするところに、問題の根があるのではないかと問いかけています。「私たちには『生活』だけでなく『人生』という世界がある。そして多くの場合、苦しみや悲しみは最初、『生活』の場で起こったとしても、かならず、その影響は『人生』の境域にも及ぶ。生活と人生は同じではない。」

昨日(2022年3月11日)は、東日本大震災から11年目の日でした。大震災は私たちの「生活の場」で起こりました。家が流されたり、大切な方が亡くなったりと、たいへん悲しい思いをしました。昨日の生活と今日の生活とが、震災によって一変してしまったわけです。

しかし、この東日本大震災は「生活の場」で起こった出来事だけではなく、その影響は私たちの「人生の境域」にも及んでいきます。震災によって人生や生きることに悲観し、自死された方々もいらっしゃいます。また原発によって住むところを去らねばならなくなり、仕事もなくなり、まったく違う人生を歩まなければならなくなった方々もたくさんいらっしゃいます。

ですから、一つの出来事が「生活の場」で起こったとしても、必ずその影響は私たちの「人生の境域」にも及んでくる。そういう意味で「生活」と「人生」は同じではないと、若松さんはおっしゃるのでしょう。

生活と人生、そして仏法聴聞

若松さんは、「人生とは生活の延長にあるものだと思い込んでいた。(しかし、)生活と人生は似たものではなく、似て非なるものである、という厳粛な事実だった。(中略) 生活は社会的なものであり、日常的なものである。ときには公共的であることを求められることもある。だが、人生は違う。それは個的なものであり、ある意味で日常の彼方、あるいは深部という場所を流れているものであり、容易に他者と分かち合うことができない何ものかなのである」(「光であることば」)と述べています。

生活とは、いわば私たちの日常です。生活の中の私は、社会的、日常的、または公共的であったりするわけです。生活とは、いわば共同体や関係性の中で生きるものです。しかし、人生とは個的、日常の彼方、あるいはもっと深い部分を流れているものであり、容易に他者と分かち合うことができない何ものかである。こういう言葉は、むなしさの正体を考える手がかりになるのではないかと思います。私たちは、生活と人生をあたかも延長線上にあるように、ごちゃまぜに思っていて、むなしさというものへ間違ったアプローチをしているのではないでしょうか。

「むなしさ」の正体を突き詰めていって、それが自分にとって「足りないもの探し」「充足感の欠如」「人生とは何か(が分からない)」ということであれば、これは人生の悲劇と言わざるを得ないでしょう。このように、むなしさとは充足していない、生き生きとしていない、空過している状態であると考えが及んだときに、私は源信僧都の言葉を思い出しました。

「宝の山に入りて、手を空(むな)しくして帰ることなかれ。」(『往生要集』)

この「宝の山」とは何でしょうか? もちろん金銀財宝などではありません。私は「宝の山」とは仏教の教えであり、教言であると頂いております。教えの言葉を聞いていながら、本当の意味で出遇わずに、素通りしてしまうことがないように、という意味でしょう。

私は、京都の大谷大学に通っていましたが、大学の近くに相応学舎という学び舎がありました。それを立ち上げられたのは安田理深先生です。その後を受け継がれたのが、東京教区の本多弘之先生です。

安田理深先生の奥様であった梅さんは、本多先生が講義されるときは、いつも相応学舎の講義室の最前列に座っておられました。私は学生の間、事務をやっていたので、梅奥様の隣に座り、たくさんの方から預かったテープレコーダーの録音スイッチを入れる係をしていました。

相応学舎では、毎月の本多先生のご講義以外に、安田先生の祥月法要である無窓忌と報恩講がありました。その報恩講のときに梅奥様がおっしゃった言葉が、今でも忘れられません。

それは、「『人身受け難し、いますでに受く。仏法聞き難し、いますでに聞く。この身今生において度せずんば、さらにいずれの生においてかこの身を度せん』。これこそが仏道を歩む根本でありましょう。つまり今この身において、今この人生において、教えを聞かなかったならば、一体いつ本気になって聞くのですか。『この身今生において度せずんば、さらにいずれの生においてかこの身を度せん』は、今あなたは本気で仏法を聞こうとしていますかという呼びかけであり、これが仏道を歩む上での根本です」と、感話のような形でお話をされました。

もう二十数年前の出来事でありますが、いまだにその風景が忘れられません。これは大学4年生のときでしたが、私はこのとき初めて仏法を聞いていこうと、腹が決まりました。

この三帰依文の言葉と梅奥様の言葉、そして源信僧都の言葉は、何か響き合っている気がします。「宝の山に入りて、手を空しくして帰ることなかれ」。今遇いがたいこの身を頂き、教えを聞く身を頂戴した。そして私の目の前には、あるいは私の背後には、教えを届けてくださった先達や、現に教えがある。では、いつ聞くのですか。今聞かなかったならば、「空しく帰ることになるのではないですか」という呼びかけの言葉です。

私自身に出遇う

そしてさらに、杉山平一さんという方の「生」という詩を思い出しました。これも有名なお言葉で、みなさん、どこかでご覧になったことがあるかもしれません。「身体がさきにこの世へ出てきてしまったのである その用事は何であったか いつの日か思い当たるときのある人は 幸福である。思い出せぬまま 僕はすごすごあの世へもどる」。

「身体がさきにこの世へ出てきてしまった」ということは、気がついたら「おぎゃー」と生まれてしまっていたということです。産んでくれと頼んだわけでもないのに、気がついたらこの世に生まれ出ていた。一体この世に生まれてきた、その用事は何でしょうか。杉山平一さんは、「いつの日か思い当たるときのある人は 幸福である」と言っておられます。これは「いつの日か」どころの問題ではなく、私たちにとって火急の問題ではないでしょうか。でないと、すごすごとあの世へ戻ってしまうことになります。

自分が誕生した人生の目的とは何でしょうか。「人生には必ず出遇わなければならない人がいる。それは私自身だ」という言葉がありますけれども、自分自身は一体何を頂戴して、生きているのかという問いが生まれてきます。

私でしたら、家族を養うとか、寺の住職を務めるとか、大学の教員のときは学生を育てるなどありますが、これらはすべて自分の「生活の問題」です。その生活の問題を通して「人生の問題」に出遇っていくことがなければ、すべてが空過なままに、すごすごとあの世へ戻るということになるのではないでしょうか。

三帰依文には「いずれの生においてかこの身を度せん」とありますが、ここで問題にしている「むなしさ」というのは、生活の中に充足感がないというような娑婆のむなしさではないのです。仏法に照らされたむなしさとは、自分は何者で、なぜ今ここにいるのか、本当の用事が見つからないという問題です。これが、空過ということです。

昨年末に遠縁にあたる方が100歳を超えた年齢で亡くなりました。身の回りのお世話をしてくださっていた方は、私の母とあまり変わらない80歳前後の方でした。母と私でお通夜に伺うことになり、身の回りのお世話をしてくださっていた方と、約20年ぶりに顔を合わせました。

しばらくして、母が「さっき、控え室で会話したあのお婆さん、いったい誰?」と私に聞くのです(笑)。私は、「何を言っているの。お世話してくださっていた〇〇さんだよ」と言ったら、母は「あんなお婆さんだとは思わなかった」と言うのですね。母にとっては、その方の20年前の面影が心に残っているわけですから、歳をとった目前の女性が〇〇さんだと受け止められなかったのです。特に今はマスクもしているから、余計に分かりづらいですしね。私は母に対して、「たぶん〇〇さんも、母親のことを、あのお婆さんは誰?と、きっと思っているよ」と言って、お互いに笑って、この話は終わりました。

しかし、これは単に笑い話で終わらない話です。ブーメランのように自分自身に返ってくるのですね。私たちの目は外向きについていますから、他人の姿はよく見える。しかしながら、自分の姿はよく見えない。このように些細な日常生活の中にも、身の事実を照らし出す出来事があります。

これはただの笑い話でなくて、仏法そのものです。自分の姿が分からないからこそ、仏法という鏡を通して、自分の姿を見せていただくのです。それが教言であり、教えの言葉です。単なる言葉ではないのです。私の見えないものを見せてくださる。見たくないものを見せてくださる。これこそが教えの言葉です。このように聞かなければ、素通りしてしまうただの言葉です。どこにでもあるような言葉と変わりなくなります。自らを照らしてくださる、一刀両断にするような言葉だと受け止められたとき、「言葉は光である」と受け取れるわけです。

「智慧の光明」と言いますが、言葉は光なのです。それは私の闇を照らしてくださるから光なのです。

意味探しを超えて、 独立自尊していく道

清沢満之先生は、「有限ハ独立自尊スル能ハス 蓋シ無限ニヨリテ初メテ成立シ得ルモノナリ 故ニ宗教ト離ルヘカラサルコト明ナリ」(『清沢満之全集』第1巻「宗教哲学初稿」368頁)と言います。

「有限は独立自尊する能わず」、有限とは私たち人間のことです。凡夫と言ってもいいでしょう。私たちは一人で独立自尊し、独立者たることはできません。無限と出遇うことによって初めて、独立自尊が成立するのです。ですから、無限によらなければなりません。この「無限」というのは、私たちが親しんでいる言葉で言えば、仏さまのことです。宗教と言ってもいいでしょう。無限によって初めて独立自尊ということが成立し得るのです。私たち有限な凡夫が、無限なる宗教と離れることができないのは明白です。なぜなら、私たちは宗教によって初めて独立自尊していくことができるからです。

孤独感を超えて、独立者として孤独に立脚していくことができる。人生の意味探しのようなむなしさを、超えていくことができる。それは宗教によらなければならない。教えとは人間の闇を照らし出し、自らの立脚地になるものであり、鏡そのものです。それと出遇わなかったならば、私たちは独立自尊していくことはできない。娑婆で感ずるような孤独感とか、むなしさを超え出ていくことはできないのです。

今回のテーマである「孤独とむなしさの正体」とは、ある種、幽霊みたいなものかもしれません。実体のない影を自分で作り出し、それに怯えている。実体はないのに、なぜかそれに苦しめられ悩んでいる。そういう私たちの姿が、日々の生活で感ずる「孤独とむなしさの正体」ではないでしょうか。

長時間にわたりお聞きくださり、誠にありがとうございました。

Copyright © Renkoji Monto Club.