あなかしこ 第73号

門徒随想

いわゆるコロナ禍のもとで発行された『あなかしこ』を振り返り、この2年のうちに2度も「オンライン授業」を話題にしていたことに気が付いた。2020年7月発行の第69号では、《門徒随想》で「善意に彩られた負の連鎖」などということばを用いてオンデマンド授業の準備に追われる日常の辛さを描き、2021年1月発行の第70号では、《巻頭言》で前年の報恩講を振り返る文章の中で、インターネットを通じてリアルタイムにつながる授業のメリットを自覚しつつも以前とは疲れ方が異なるなどと綴っていた。

今年度、感染症の拡大は一応の落ち着きを見せたということなのであろうか、わたしの勤務校でも、4月からの授業は一部の例外を除きすべて対面で行われることが決まった。オンライン授業などという非原則的なものを捨て去り、授業の形態を元に戻すだけなのだから造作もない話である。普通はそう思う。誰でもそう思う。わたし自身もそう思った。しかし、実際には、これがなかなかうまくいくものではなかったのである。

そもそも、2年間にわたり人の前に立つことなく過ごしてきたわたしにとっては、30名もの学生が待つ教室に出向くということ自体が最初の大きな試練なのであった。おまけに、対面授業は実施しても密な状態はつくらないようになどといった無理な注文までつけられていたものだから、授業の定番となっているグループワークも当初は諦めざるを得なかった。

オンライン授業であればマスクをせずに話ができるし、グループワークだってスムーズに実現できた。教材を印刷しなくても済むし、プリントを配る前に手を消毒する必要もない。ああ、あの頃に戻りたい。あれだけ嫌がっていたオンライン授業を懐かしくすら思ってしまうのだから、まことに厄介なものだ。思えば、幼い頃のわたしはアナウンサーに憧れていた。もともとはしかたなく始めたオンライン授業ではあったが、続けていくうちに、研究室のパソコンに向かって話す自分を、スタジオでマイクに向かって話すアナウンサーの姿にでも重ねてしまっていたのだろうか。

蓮如上人は、御文の中で「いたずらにあかし」ということばを5回、「いたずらにくらし」ということばを3回用いていらっしゃる。好んでみたり嫌ってみたり、慣れてみたり忘れてみたり、思い出してみたりやり過ごしてみたり。そんなことを繰り返しながらおろおろと日々を暮らすわたしを、上人のことばは言い当てているようだ。

河村和也 (釋和誠 大学教員、57歳)
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