あなかしこ 第70号

お寺を遠く離れて

河村和也 (釋和誠 55歳)
わたくし自身、亀有から西へおよそ780キロ、備後門徒の地・広島県庄原市におり、お寺におまいりすることのできぬ現状を嘆き憂う者のひとりでございます。

2020年の蓮光寺報恩講の御満座結願にあたり御礼言上の任にあったわたしは、この段に来ていよいよこみ上げるものを抑えることができなくなってしまった。コロナ禍のもと、今年の報恩講の模様はインターネットを通じて配信され、ご法話もオンラインで頂戴した。わたしも職場である大学の研究室でおまいりし、御礼言上もパソコンの画面に向かって申し上げることとなったのであった。

この半年あまり、ずっとこのパソコンの前にいたような気がする。すべての授業をオンラインで実施することが4月に決められ、前期末の8月中旬までは無我夢中で資料や動画を作り続けた。9月末には後期が始まったが、前期と同様の準備に加え、授業時間にはリアルタイムで学生たちに呼びかけることを始めた。さらに、今年度から新規に開講される科目が2つ増え、しごとの質が大きく変わってしまった。慣れだけではこなすことができなくなってしまったのである。

実験や実習など、対面でなければ成立しない授業もあるが、わたしの担当する科目についてはすべてオンラインで実施できると判断した。オンラインにもよい点はある。語学の授業では、まわりの学生に聞かれないようにして一対一で発音の指導ができるし、学生がスライドを表示しプレゼンテーションをすることもできる。また、論文の指導では、提出されたものを画面上で共有しながら個別にコメントを加えることが可能だ。140名におよぶ履修者を抱える授業では、3つのキャンパスに分散した学生がインターネットを通じてグループ討議を展開することができる。

授業はそこそこにうまくいっているのであろう。学生から感想をもらえば、やりがいのあるしごとだとは思うし、このしごとが楽しくないと言えば嘘になる。しかし、どうにも疲れ方が以前とは違うように思われてならない。

そんな疲れを抱えながら、東京に帰れぬままの一年であった。疲れだけではなく、感染して職場に戻るようなことがあれば何を言われるかわからないという恐怖に似た不安もあった。真宗門徒の名告りを上げてから一度も欠かしたことのない蓮光寺の報恩講へのおまいりだったが、今年は早々に諦めることにした。

その報恩講がインターネットで配信されるとの知らせはまさに朗報であった。しかし、正直なことを言えば、大逮夜の法要では最後まで覗き見をしているような思いから離れることができなかった。晨朝のお勤めの際に本堂のみなさんと話をする機会を得て、ようやく一体感を覚えた気がする。満日中の法要では、ご法話をオンラインで頂戴したことが功を奏したのであろう。遠く離れながらも、報恩講におまいりしているという実感を抱くことができたのである。

今年の御礼言上で、わたしは次のようにも申し上げた。

今年の報恩講は、ご法話をインターネットを通じて頂戴し、門徒もパソコンやスマートフォンの画面越しに参詣できることとなりました。このことは、わたくしのように遠く離れて暮らす者ばかりではなく、お歳をお召しの方、あるいは病の床に伏していらっしゃる方にも、一筋の光を射し得たものと思います。

わたしがどうしてもこだわりたかったのは、インターネットを通じて「参詣できる」という一点である。テレビや映画を見るように眺めているのではない。さまざまな事情を抱えながらも、報恩の思いのもとに門徒は集うのである。その積極性を受け入れ、おまいりのできる環境を整えることこそがお寺に求められている。

これも御礼言上で申し上げたことだが、「真宗中興の祖」とされる蓮如上人が布教・教化のために御文という画期的な手段を生み出したことは周知の通りである。もとより、ともどもにお寺に集い聴聞することが叶えば、これに勝るものはない。しかし、コロナ禍と呼ばれる状況はいつ終止符を打つのかわからない。この不安の中にあって、わたしたちもまたさまざまの方法を模索していく必要がある。それは、み教えを伝え広めるためのお寺の大きな責務である。

Copyright © Renkoji Monto Club.