あなかしこ 第70号

法話

テーマ 本当の幸せとは ─親鸞聖人の救い─(1)
ハダカで生まれてきた意味
講師 伊東恵深先生 三重県・西弘寺住職 43歳

自主聞法会〈真宗入門講座〉
2020年9月12日(土) 於:聞明寺(葛飾区高砂)

はじめに

  • 伊東恵深先生

こんにちは。三重県松阪市から参りました伊東恵深と申します。

今回は「ハダカで生まれてきた意味」というテーマを掲げさせていただきました。昨年10月に第1子になる娘が誕生しまして、改めて気づかされた事柄をテーマにしたのですが、先ほど、ご門徒さんのご挨拶で、「『ハダカで生まれてきた』なんて、当たり前のことだと思うけど…」というご指摘がありました。なるほど、普通に考えれば当たり前のことですが、私にとっては娘を授かって、新しい発見と気づきがありましたので、今回は「ハダカで生まれてきた意味」というテーマを掲げさせていただいた次第です。

私たちは毎日、「幸せだ」とか「不幸せだ」とか、いろいろな感情をいだきながら生活しています。人間だから当たり前ですが、しかし、その感情に〈必要以上に〉振り回されてしまうと、途端に自分自身が見えなくなってしまうのではないでしょうか。私たちは凡夫ですから、毎日いろいろな感情が湧いたり、消えたりします。家庭生活、仕事、子育てや親の介護など、一瞬一瞬気持ちが変化していく毎日を過ごしています。その都度、自分に生じた感情に必要以上に振り回されてしまうことで、自分自身を見失ってしまいます。

京都にある真宗佛光寺派のご本山の掲示板に、「みんなと 同じは 不満 みんなと 違うと 不安 どうなりゃ 満足?」(「佛光寺八行標語」)と書かれていました。高いブランド品を買ったとしても、自分と同じ商品を持った人が大勢いたら、途端にその商品が色あせて不満に感じられてしまいます。だからといって、みんなとまったく違うと、今度は逆に不安になるのです。現在のマスクの状況がそうでしょう。一人だけつけていないと、白い目で見られるかもしれないと不安に思うわけです。

「赤信号 みんなで渡れば 怖くない」という言葉がありましたよね。これは、自分一人だけが赤信号を渡ると、ルール違反で人の目が気になるけれども、みんなが渡っていれば大丈夫だろうという人間の根性をよく表しています。

この掲示板の言葉は、「みんなと同じだと不満だし、みんなと違うと不安だし、いったいどうなったら本当の満足といえるのだろう」という私たち人間の有り様を捉えたものです。つまり、「本当の幸せ」「本当の満足」「本当の安心」ということが分からないから、いつまでも心が落ち着かないのです。この連続講座をとおして、親鸞聖人が明らかにされた「浄土真宗の救い」に、私たちの「本当の幸せ」を尋ねたいと思います。

「幸せ」「満足」「安心」というのは世の中にたくさんありますし、それを感じる物差しも人それぞれ異なります。しかし、「本当の」という言葉をあえてつけています。その意味は何なのか、4回の真宗入門講座をとおして尋ねていきたいと思います。

教えを聞く大切な意味

先ほど申しましたように、昨年の10月に娘が誕生しました。私はいま43歳ですので、普通に考えれば42歳で父親になったということになります。しかし、42歳の父が誕生したわけではありません。父親としては娘と同じ0歳なのですね。これまでの42年間で培ってきた経験や知識は、子育ての現場においてはほとんど役に立っていません。毎日が新しいことだらけですし、失敗や妻との意見の衝突の連続です。

娘は生まれてきたときは、文字通りハダカでした。別に当たり前かもしれませんけれども、私はその姿に多くのことを教えられました。

まず、ハダカの赤子を見たときに感じたのは、何もしなければこの子は死んでしまうだろうということです。この赤ん坊を誰も面倒みなければ、亡くなってしまいます。私も43年間、いろいろな方々のお世話になって、ここまで大きくしていただいたという当たり前のことを、日々の生活の中では忘れてしまっているのです。娘の誕生を通して、まずは、自分自身がいろいろな方のお世話になっているということを、あらためて教えられました。「報恩」といいますけれども、普段は忘恩していることも忘れているような私であるということです。

次に感じたことは、人はハダカで生まれてきたのにも関わらず、なぜいろいろなものを身につけようとするのかということでした。生まれたときも、亡くなっていくときも、ハダカで死んでいかなければならないのに、なぜいろいろなものを身につけようとするのでしょうか。

赤ん坊は、生まれてきたときは、まっさらなままです。それを、私たちは教育などによって知識を身につけていきます。それが善いことだと思っているわけです。そういった人間の知恵や知識を身につけていくがゆえに、かえってそれらに縛られていくのです。なぜハダカで生まれてきたのに、人生の途中において、人間の知恵を問い直すことができないのか。なぜ仏智、真宗の教えに尋ねていくことができないのかと思ったのです。

もちろん、まっさらな状態になることは難しいでしょう。しかし、人間の闇を照らし出してくださる真宗の教えを聞いていくことはできるのではないでしょうか。ここに「教えを聞く」ということの大切な意味があると思います。

この真宗入門講座の「入門」とは、「初めて学ぶ人のためのやさしい手引き」という意味で使われていますが、『広辞苑』には「門内に入ること」とあります。「門」とは真宗の教えのことです。教えを聞いていかなければ、入門したとは言えないのです。門(教え)の前でウロウロするのではなく、教えの世界に入っていかなければなりません。

お釈迦様が入滅されるときに、弟子たちに対して、「私が亡くなったら、お前たちは花や香や音楽で私を荘厳するだろう。しかし、一番大切なことは、私が遺した教えにしたがって正しい生活を実践することであって、これこそが本当の意味で供養になるのだ」とおっしゃったそうです。供養というと、仏前を恭(うやうや)しく飾ることだと思いがちですが、本当の供養とは、仏様が遺した教えを聞いていくこと、それを実践していくことです。まさに入門とは、教えをいただいて実践していくことなのです。

「教えを聞く」とは自らの凡夫性に気づかされること

ミラン・クンデラというフランスの作家の言葉に「人間の愚かさとは、決して何も分からないということではない。なにごとに対しても答えを持っていることである」とあります。

勉強して知っていることと、実際に身についていることは、まったく異なります。知っていたとしても、そのように生きることができなければ意味がありません。私たちは、知っているというところに留まってしまって、本当に腑に落ちて実践するというところまでいっていないのではないでしょうか。

ハダカで生まれてきたはずなのに、いろいろなものを身につけて、自分で作り上げた狭い世界だけになってしまい、広大な教えを、かえって聞けていないのではないでしょうか。私たちは聞いているというけれども、それは知識が増えているだけでしょう。

真宗の教えを聞くといっても、なにも立派な人になるという話ではありませんし、自分たちが思っているような幸せになるということでもありません。そういったことを超えたところにある、「本当の」という意味を聞いていくことが、真宗の教えを聞くということでしょう。

一昨年、H-1グランプリという催しがありました。Hというのは「法話」の略で、各宗派のお坊さん7名がそれぞれ法話をして、どのお坊さんのお話が一番分かりやすく心に届いたかを、聴衆の投票で決めようという試みがありました。一番多く得票されたのは曹洞宗のお坊さんで、「笑うみんなが観音様」という講題でした。仏教には「和顔施」という言葉があって、和顔を施す、つまり自分がニコニコすることでそれが奥さんに伝わり、子どもたちに伝わり、おじいちゃん、おばあちゃんにも伝わって、家庭が円満になる。家庭が円満になれば、その地域や集落、そして世界中に笑顔の輪が広がっていく。だから、笑うみんなが観音様のはたらきをするんですよ、というお話でした。

たしかにそうなれば素敵なことですし、分かりやすい教えではありますが、しかし真宗の教えを聞いている私たちは、「そんなに毎日、ニコニコなんかできないよ」と思われるでしょう。やはり私たちは、そのときそのときの感情によって、怒ってみたり、悲しんでみたり、喜んでみたりします。そして、その喜びは本当の喜びではないのです。その瞬間だけの喜びです。一生ニコニコして生きていられれば幸せなのでしょうが、私たちはそんなに単純ではありません。それが今回の主題に、「本当の」とつけてあることの意味です。

真宗の教えを聞いていけば、穏やかでニコニコの人間になるのではありません。むしろ教えを聞けば聞くほど、自らの無明性、凡夫性に気づかされていくのでしょう。これこそが、親鸞聖人が顕かにしてくださった浄土真宗の教えではないでしょうか。そういった私たちだからこそ、一層教えを聞いていかなくてはならないのです。

蓮如上人のお言葉に「そのかごを水につけよ」(『蓮如上人御一代記聞書』)とあります。ザルを水から引き揚げてしまえば、ザルの目から水が全部漏れてしまいます。かごの中に水を満たすためには、ずっと水につけておくしかありません。そうすれば、ずっと水が満ちているでしょう。これは教えを聞き続けることの大切さを表してくださった言葉です。本来はハダカ、無一文であるのに関わらず、さまざまなものを身につけていこうとする。そして、そのことを善しとする私たちだからこそ、自分をひっくり返してくださる教えに、常に出遇い続けなければならないのです。

娘が生まれたのは大きな病院でした。新生児室には赤ちゃんがいつも7、8人並んで寝かされていました。どの親でも最初は、「五体満足で生まれてくれれば、それで十分」と言いますが、赤ちゃんが並んで安置されていると、つい、よその赤ちゃんと、顔つきや背格好を見比べてしまいます。そのうちに、歩きはじめる時期とか、話しはじめる時期とかを比べることでしょう。最初は「生まれてきてくれてありがとう」と思っていた私の心に、そのような比較心が出てきます。娘が「あなたもそのような根性を持っているのです」と教えてくれています。そういう意味で、娘は私にとって善知識ですね。

もし真宗の教えに出遇っていなければ、ただ比較して一喜一憂して終わっていたでしょう。その一喜一憂の背後に、自分のどのような根性が潜んでいるのか、自分の愚かさを知らせ続けてくださるのが、私たちにとって教えを聞くことの大切な意味ではないでしょうか。

一つの完全なる立脚地

「身体がさきにこの世に出てきてしまったのである その用事は何であったか」

これは杉山平一さんという方の詩ですが、身体が先にこの世に誕生してしまった。では、誕生した用事とはいったい何でしょうか。私たちは何を成し遂げていかなければならないのか。何を聞いていかなくてはならないのか。この点をしっかり立ち止まって、教えに聞いていかなければなりません。

『仏説無量寿経』に、「人、世間の愛欲の中にありて、独り生じ独り死し独り去り独り来りて、行き当り苦楽の地に至り趣く。身、自らこれを当くるに、有(たれ)も代わる者なし」というお言葉があります。独りで生まれ、独りで死んでいく身の事実を引き受けなければなりません。いのちの事実を他の人に代わってもらうことはできないのです。

「三帰依文」に「人身受け難し、いますでに受く。…この身今生において度せずんば、さらにいずれの生においてかこの身を度せん」とあります。安田理深先生の奥さまである安田梅さんは、この「三帰依文」の言葉について、「このことが仏道を歩む上での根本であります。人の身というのは、何万回生まれ変わり死に変わりしたとしても授からないほど、かけがえのない身をいただいたのだから、ただいまの人生において生死の問題を解決しなければならない。だから教えを聞かなければならないのです。教えを聞いていくことが仏道の根本です」とおっしゃっていました。これが仏道を歩む上での根本であり、入門であります。

道元禅師にも、「仏道をならうというは、自己をならうなり」(『正法眼蔵』)というお言葉があります。仏道をならうということは、仏教の専門家になるのではなく、自分自身を明らかにしていくということです。

たしかに、仕事の上で幸せな瞬間、嬉しい瞬間がたくさんあります。仕事がうまくいったり、人から評価されたり、いろいろあります。けれども、本当に何が一番幸せか、嬉しいのかというと、この身が明らかになるということが本当に嬉しいのではないでしょうか。

教えを聞いていると、そういうことが身に染みて分かる。けれども、教えに触れていないと目先のことに迷わされていく。目先のことに振り回されている私がいるということにさえ気づけない。目先のことに執着していけば、かえってそれに縛られて、ますます自分というものが分からなくなっていく。これが私たちのあり方ではないでしょうか。だから、本日のテーマを「ハダカで生まれてきた意味」と掲げたのであり、ハダカで生まれた意味を教えに尋ねましょうと申し上げたのです。

大学で教員をしていると、高校生向けに出張授業をすることもあるのですが、あるとき「本当の幸せとは何か」という講題を出したことがあります。ほかにもいろんな大学の先生方が来て、福祉や看護や文学や経済や、いろいろな分野の出張授業を同時刻におこなうのです。その中から生徒が関心のある授業を1つだけ選んで聞くのですね。

私の話には、そんなに多くの生徒は集まらないだろうと思っていたのですが、2番目に多くの生徒が集まってくれたことがあります。若い子たちも、いや、友達や異性や親との関係など、いろんなことで悩んでいる若い子だからこそ、本当の幸せや、本当の心の安らぎというものを、どこかで求めているのでしょう。

清沢満之先生は、「吾人(ごじん)の世に在るや、必ず一つの完全なる立脚地なかるべからず。もし之なくして、世に処し、事を為さむとするは、あたかも浮雲の上に立ちて技芸を演ぜむとするものの如く、その転覆を免るる能わざること言を待たざるなり。然らば、吾人は如何にして処世の完全なる立脚地を獲得すべきや。蓋(けだ)し絶対無限者によるの外ある能(あた)わざるべし」(『精神主義』)と言われました。

私たちが生きていく上で、必ず一つの完全な立脚地がなければならない。それがなければ、空に浮かんでいる雲の上で技芸をするようなもので、いずれ転覆をしてしまう。では、私たちはどうやって世を生き切っていく完全な立脚地を得ることができるかというと、清沢先生は「絶対無限者によらなければならない」とおしゃっています。「絶対無限者」とは阿弥陀様のことであり、阿弥陀様の教えによるということです。

世間一般の立脚地といわれるものは、不完全であったり、一つではなく複数あったりして、本当の立脚地にはなり得ません。このことを清沢先生は「客観主義」と「主観主義」という言葉でも教えてくださっています。客観主義とは、世の中の常識や分別によって善悪の判断をくだすということです。しかし、判断基準は状況によって刻刻と変化しますし、それに執着するところに迷妄が生じてきます。

しかし、私自身、つまり主観においては、絶対無限の智慧を開発していくことこそが絶対の善だということです。世間的に見れば悪い状況であったとしても、宗教という眼で見ていくならば、私の心が明らかになっていくこと、阿弥陀様の智慧を頂戴していくことが〈本当の〉幸せであり、このように人生を受け取っていくことを、清沢先生は主観主義とおっしゃっているのです。

このことは、私たちは常に気をつけなければならないと思います。私たちは仏法を聞いていながらも、執着や分別、自分の物差しをしっかりと持ったまま聞いているのではないでしょうか。むしろ、そういったものを、より強固にするために仏法を聞いているということがあるのではないでしょうか。もしそうならば、それは身につける仏教であり、ハダカになる仏教とは正反対になってしまっているのでしょう。

雑行を棄てて本願に帰す

覚如聖人の『口伝鈔』に、法然上人のもとに修行に来られたお坊さんが、地元に帰っていかれるときに、法然上人から「あなたは三つの髻(もとどり)、髪の毛の束を残して帰っていくんですね」と言われたという有名なエピソードがあります。三つの髻というのは「勝他」「利養」「名聞」(みょうもん)のことです。つまり、他人に勝ちたいとか、お金儲けをしたいとか、名声欲とか、そういったものが人間には根深くあるということです。本来、そういうものから離れていく修行をしているはずの僧侶が、かえってそれらに執われてしまっているということですね。

かつて、安田理深先生の講義をまとめた冊子を、お弟子さんたちが『如来に背くもの』という講題をつけて出版されました。それが絶版になり、再度出版したいということで、お弟子さんたちが安田先生のもとへ再版の許可をもらいに行かれた。すると安田先生は、「『如来に背くもの』というタイトルでは許可しない。『自己に背くもの』ならいい」とおっしゃったと聞いたことがあります。

そのお心は、私たちは「如来に背く」と軽々しく言うけれども、本当は如来に背くなんてことは出来ない。むしろ本当は、自分自身に背いて生きているのではないか。そういう問いかけです。この問いかけを逆に考えてみれば、本当は、自分自身が明らかになっていく、自分の中の言いようのない苦しみが開かれていくことこそが、実は私たち一人一人が本当に願っていることではないか、それを本当の幸せというのではないか、ということです。自分が開かれていくということは、自分自身が根底に持っている本当の願いが明らかになっていく、ということではないでしょうか。

「雑行を棄てて本願に帰す」(『教行信証』後序)という親鸞聖人の有名なお言葉があります。この「棄てる」という字は、あれかこれかを選んで、つまり取捨選択して「捨てる」という意味ではありません。この「棄」という字は「廃棄」というように、完全に棄て去るという意味です。本当に棄てていく、人生の決断をしていく。それが「一つの完全なる立脚地」ということでしょう。あれかこれかではなくて、これしかないという肚のすわりです。

私たちは、真宗の教えに出遇いながらも、人生の立脚地が定まるという聞き方を本当にしているでしょうか。そのことを改めて教えてくれたのが、私にとっては娘の誕生でした。「ハダカで生まれてきた」という事柄には、物理的にハダカだということではなくて、そういった深い意味があるのではないのかということを教えてもらいました。ですので、今回のテーマとして掲げさせていただいた次第であります。

今回は「親鸞聖人の救い」というところまで十分にお話を展開できませんでしたが、連続講座の初回ということで、普段私たちはどういう姿勢で聞法しているのかということを、まずは尋ねてみたことです。お時間がきましたので、私のお話はこれまでとさせていただきます。ありがとうございました。

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