あなかしこ 第69号

罪悪深重の凡夫の自覚

本多雅人 (蓮光寺住職 釋徹照 60歳)

まずは、新型コロナウイルスに罹患された全世界のすべての方々に心よりお見舞い申し上げます。

さて、4月16日に全国に緊急事態宣言が発令され、感染の爆発的拡大の危機に加え、医療崩壊、経済崩壊、休校など問題が山積みし、感染の不安は極限にまで達しています。

こういう状態の時、自我分別の世界で生きる人間は、目先の対策対応で必死になるのは当然なことだと思います。しかし、感染症が発生しなくても、人間は必ず死んでいかねばなりませんし、多くの苦悩を抱えて生きざるを得ません。死は「生まれはじめしよりしてさだまれる定業」と『疫癘の御文』で蓮如上人も言われています。

ですから、このような苦悩の状況にあるからこそ、「人間とは何か」「何を大切に生きるのか」といった人間誰もが抱える根本問題に目が開かれなければならないのですが、「念仏どころではない」という感覚になってはいないでしょうか。

先行きの見えない不安の中で、協力し合う人たちの姿に感動を覚える一方、感染した人たちを差別したり、自分や大切な人さえうつらなければよいという気持ちなったり、家庭内暴力がおこったりもしています。そこに縁次第ではどうにでもなってしまう人間の相を見ることができます。

常に「私」から出発して、すべての物事を判断し、他者と比較し分別して生きていているのが私たちですが、感染症の状況に飲み込まれ、ますます生死(苦悩)を超える道が見えなくなっているのです。大切なのは、感染症も私たちを照らし出す本願念仏の教えを聞き開いていく縁として、この身の上に開かれているということです。

元陸軍大将の東条英機をご存知だと思います。敗戦後、自決に失敗し巣鴨プリズンに収容された東条はA級戦犯の判決を受けましたが、処刑に至るまでの約40日間、他の6人のA級戦犯と同様に、教誨師の花山信勝氏(本願寺派)と面接してお念仏の教えを聞き続け、「つくづく自分は凡夫だった、極重の悪人だったということが分かった」と気づきます。そして、「巣鴨プリズンに入ってから初めて人生という問題について静かに考えた」と言い、「人間は生死を超えなければいかんですねえ」とことばにするのです。さらに、彼は自分の孫を「うれしいときも悲しいときも、手を合わせてなま、なま(南無阿弥陀仏)と言うように育ててほしい」と花山氏に頼んだと言います。東条は、処刑という形で「生」を閉ざされる瞬間を、平然と超えてゆく姿を証していったのです。(青木馨編『A級戦犯者の遺言』法蔵館 参照)

東条の回心は、感染症拡大で苦しむ私たちに、自我を超えた無分別の本願念仏の世界から自分を見つめ直し、罪悪深重の凡夫と深く自覚することを通して、堂々と不安に立って事実と真向かいになって生きていく意欲(本願の意欲)をいただく大切さを伝えているように思えてなりません。

どうにもならない時に本願が顔を出すのです。今だからこそ聞法ひとつです。

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