あなかしこ 第69号

コロナウイルス禍のなかを安心して生きる

櫻橋淳 (蓮光寺衆徒 釋淳心)

新型コロナウイルス感染症は、2019年11月22日に中華人民共和国湖北省武漢市で「原因不明のウイルス性肺炎」として最初の症例が確認されて以降、武漢市内から中国大陸に拡がり、さらに中国以外の国家、地域に拡大していった。6月12日現在、累計感染者数は世界187カ国・地域で727万人、死者数が41万人を超えた。

このパンデミック(世界的大流行)により、世界経済は生産と消費の両面において、活動の停滞が続いている。過去人類が経験したパンデミック同様、ある程度の集団免疫が形成され、ワクチンや抗ウイルス剤による感染と重症化に対するコントロールができる状況となるまでは、停滞は解消されないであろう。

3月28日に放送されたNHKスペシャルにおいて、経営共創基盤の冨山和彦氏は、「今回の経済収縮の原因と現在の日本と世界の経済構造からみて、危機の深刻化、重篤化は、前回(2008年)のリーマンショックとは違う形で、より広い産業と地域を、より長期にわたって巻き込んでいくリスクがある」と指摘している。

4月7日の政府による緊急事態宣言発令の直後、懇意にしている飲食店経営者から連絡をもらった。都内に複数のビストロを経営し、固定的なファンもいて売上は好調であった。「いつ収束するともしれず、このまま客足が遠のいていくのではと不安で仕方がない。コロナウイルスの感染拡大さえなければ、順調だったのに。」

帝国データバンクによると、今年の企業倒産件数の見通しは1万件超。休廃業は2万5千件に達するという。

一切恐懼 爲作大安
一切の恐懼に、ために大安を作さん。
(真宗聖典、12頁)

『大無量寿経』の「嘆仏偈」にある通り、この世を生きる我々のすがたは、恐れおののくすがたである。「自分が思い描いたような将来は開けていくのであろうか?」特にいまのような状況におかれると不安に苛まれる。

龍樹菩薩は「一切の怖畏は皆我見より生ず」と言っている。思い通りにいかないのは、「あいつが言うことをきかないからだ」「政治に意思決定能力がないからだ」「環境が悪いからだ」などいろいろあげられるが、いつも我々は自分の外に原因を見て、自分の外を変えようとする。

ところが龍樹菩薩は、そうではないと言う。「私の外」に問題があるのではなく、「私」を前提とした生き方に問題があるのであると。

オーストリアの精神科医であるヴィクトール・フランクルは、著書「時代精神の病理学」にこのようなことを書いている。

『私の神経科で働いていた看護師が手術を受けなければならなくなった。胃腫瘍のためだった。その後腫瘍は取り去れないことが判った。絶望した看護師は私に来てもらいたいと言ってきた。話してみると、彼女が絶望しているのは自分のいのちのことではなく、自分が働けなくなったことであることが判った。彼女は自分の仕事を好いている。だがいまとなってはもう働くことができない。私は彼女に、「あなたが一日に何時間働こうとたいしたことではない。誰かがすぐに代わりをやる。けれども、あなたのように働くのを断念しなければならない、それにもかかわらず絶望しない、これこそ誰もおいそれと真似ることのできない行為なのだ。あなたはいままるで病気や病弱で働けない人たちの人生が無意味だとでもいうようだが、それこそ間違いではないだろうか?」』

「私」を前提として生きると、我々は大切なものを見落とす。フランクルは胃腫瘍でいよいよ死ななければならない一人の看護師に対し、人間として生きることの大切な意味を、「絶望しないで、いまの自分自身を受け入れることだ」と話している。

明治時代を生きた清沢満之師は、示寂される1年前に長男を亡くされ、続いて妻も亡くされ、さらに真宗大学の学監も辞任される。それでも

而して今や仏陀は、更に大なる難事を示して、益々佳境に進入せしめたまうが如し。豈に感謝せざるを得んや。
(「当用日記」 『清沢満之全集』第8巻、442頁)

と言われている。ここには、如何ともし難い絶望的な状況にあっても、なお絶望しないで、生きていくことのできる道が示されている。

人生は苦悩に満ちている。昨今のコロナウイルス禍もきっとそのひとつだろう。ここに簡単な解決法はない。どんな悩みの上にも、「こうしたら確実に解決できる」と言えるようなことはなにひとつとしてない。大切なのは、問題を抱えながらちゃんと生きていける、迷ったまま安心して生きていける道があるということなのである。

それ、安心と申すは、もろもろの雑行をすてて、一心に、弥陀如来をたのみ、今度の我等が後生たすけたまえと申すをこそ、安心を決定したる行者とは申し候うなれ。
(「夏御文」 真宗聖典、846頁)
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