あなかしこ 第68号

宮戸道雄先生を憶う

本多雅人 (蓮光寺住職 釋徹照 59歳)
  • 宮戸道雄先生

2019年11月5日、宮戸道雄先生の還浄の知らせを聞いた。ついにその時が来たかというのが最初の実感であった。その1年前には近田昭夫先生も還浄され、私はこういう仏者にお育てをいただいてきたことをしみじみ感じた。

宮戸先生との出遇いは、今から23年前の1996年に遡る。この年の3月に高校の教師を辞め、4月から、組の同朋の会教導を拝命した。翌年から「推進員養成講座」の準備年度が始まるので、その講師の先生を誰にするか、教導として色々考えていた。その時、私は今まで出遇ったことのない地方の先生にお願いしたいと考えた。そのためには、先生方の本を読まなければならない。何人かの先生の本を読んで、教化委員会で推薦しようと思っていたが、宮戸先生の『仏に遇うということ』を読んで、この先生しかいないと即決した。それは、南無阿弥陀仏の教えを外において語ることがまったくなく、念仏そのものが生活であり、常に自分を問題にして、生死の迷いを超えるはたらきがお念仏の教えだと一点の曇りもなく言い切り、かつ、お念仏をいただくということは、ご門徒との交わりのなかで育まれるものであり、ご自分も門徒のひとりであるという姿勢を崩さなかったからである。知的理解が先行していた私にとって『仏に遇うということ』はまさに衝撃的な一冊であり、ご門徒との会話はまったく遠慮がなく、対等にお念仏の世界に身を置く者同士の会話であった。

電話をしてお願いした後、宮戸先生に緊張しながらお会いした。宮戸先生は「なんでわしを?」と言われたので、「誰かに紹介してもらって講師の先生をお願いするより、自分が聞きたいと思った先生に法話をお願いしたいからです」とお応えした。そうすると先生は大変にこやかになられ、「わしのどこが?」と続けられた。「自分中心に念仏を見ているのではなく、念仏の世界の中に自分を置かれていて、それもご門徒さんたちとのふれあいから先生自身もお育てにあっているところが私には大きな課題です。ご門徒に“おまえ”とか言われる先生もはじめてです。それだけ信頼があるのだと感じます」とお応えした。すっかり先生と気持ちが通じ合い、先生は目を細めて私の顔を見て引き受けていただいたのであった。先生が「推進員養成講座」を提案されたこともその時知ったと記憶している。大変な先生にお願いしてしまったが、全力で先生にぶつかっていこうと意欲が湧いてきたのを今でもはっきり覚えている。それ以降、ご講師の先生をお呼びするときは、推薦されることもあるが、基本的には自分が聞きたい先生をお呼びしている。推進員養成講座後も宮戸先生には、先生のご自坊(慶照寺)、同朋会館や蓮光寺で何度もお話をいただき、蓮光寺門徒のなかも先生を恩師と仰ぐ人たちもたくさん生まれた。

先生に感謝することは多々あるが、はじめての先生にアタックする勇気は宮戸先生によっていただいたものであり、蓮光寺の聞法会の基本精神にもなっている。また門徒さんとの交わりも、本音で語り合うことを大切にしているのも先生からのご教示である。蓮光寺の教化活動は先生の姿勢から生まれたものが多い。そして、先生の「いのち」は今も私を支えてくださっている。

通夜と葬儀は6、7日に勤められたのでお参りに行けず、16日に兵庫県豊岡のお寺の報恩講で法話するので、前日の15日に門徒の日野宮さんと先生のお寺(慶照寺)に伺った。先生のお遺骨を前にしても、先生の念仏生活がこのお寺に息づいていることを感じた。日野宮さんと2人で正信偈・同朋奉讃のお勤めをさせていただいた。

その後、坊守さんと2時間半にわたって色々と話をさせていただいた。先生の法名は「同朋院釋道雄」であった。「同朋」という言葉は先生が一番大切にしているから、ご自分で「同朋院」とつけられたと坊守さんから伺った。坊守さんから大切なことをたくさんお聞きしたが、特に耳の底に残ったことは、「住職は最近の同朋会、推進養成講座はなっていない。本気で語り合うことしか仏法は聞こえてこないとよく歎いていました。同朋会でまじめに話しているようでも、同朋会が終わるとふつうの付き合いにもどる。同朋会は同朋会で、それ以外はまったくちがった会話をしているようでは、仏法の中の生活は成り立たない。生活そのものが同朋会じゃないのか、そう言っていました。また時間があれば本ばかりを読んでいました」。やはり生活そのものがすべて念仏のなかの出来事であったのだと改めて痛感させられた。門徒さんをお客さんにしての同朋会では、何も生まれない。よく先生は「門徒と天気の話しかできんのか」と言われていたが、天気の話すらもできなくなっているのが現状かもしれない。先生は「一番聞法しないのは、住職と坊守だ」とも言われていた。同朋会はまず住職、坊守が聞きたいということがなければどうにもならないことは確かである。同朋会運動の真っただ中で、純粋な信仰運動を続けてきた先生には頭が下がる。

「訓覇先生の言葉の悪さまで、夫は似ているような気がします。ずいぶん夫に怒られ、しゅんとした人もいるでしょう」と坊守さんが言われたが、もちろんしゅんとしたことに対しての気持ちがあるが、それだけ夫である先生を真剣な人だったと受け止めていらっしゃるのだと感じた。本音も言えず、ちょっときついことを言われると、傷ついたということを言う人が増えている昨今、その言葉を言う背景とか文脈を読めない時代になっているのだろう。先生の願いがわからず、言葉だけ聞けば文句も言いたい人もいるだろう。しかし、先生はそこで妥協せず貫いてこられた。

亡くなる少し前、先生は坊守さんに「色々ありがとうな」と言葉を吐いたそうだ。それを聞いた婦人会の人たちが「私たちにも言ってほしい」と異口同音に言われたらしいが、そのことこそ念仏が介在する信頼というものであろう。先生とご門徒の生活の一コマを見た気がした。

先生は、この2週間あまり衰弱をして静かに息を引き取られたそうだ。90歳になって、5月ごろ、警察から「年配者の事故が増えているので、車は控えてください」と言われ、先生は「何を言っとる? わしは安全運転に徹している」と逆に警察官を説教したようだ。しかし、それは先生の傲慢ではなく、一番大切にしている「同朋」との交わりがだんだんできなくなっていく先生の悲しみであったのだろう。坊守さんは、「車に乗ることが少なくなり、本人も精いっぱいやってきて、ここまでと思ったのでしょう」と言われた。ここに凡夫・宮戸道雄の姿を見た。だんだん衰弱が進み、浄土に還られた。見事な一生であった。

先生のことだから大騒ぎして亡くなっていくようにみえるが、坊守さんによれば静かに息を引き取ったとのことだった。完全燃焼した人間の相(すがた)なのだろうと思えてならなかった。その時、『大無量寿経』の一節が頭に浮かんできた。法蔵菩薩が二百一十億の浄土を都見して、「無上殊勝の願」を起した。起こしたというより、法蔵の上に起こっただろう。苦悩せざるを得ない衆生の根底に深い祈りがあり、法蔵菩薩は衆生の願いを見出した時、どの衆生も状況を超え、誰もが良し悪しを超えて尊いことを感じられた時、法蔵に深い静けさが感じられた。それは、常に、迷い深い愚かな自己を照らす念仏生活を同朋とともに求め続けてきた宮戸道雄先生の静かな死と同質のように感じた。完全燃焼した凡夫・宮戸道雄の静かな死であった。しかし、先生の「いのち」は私に生き続けている。しつこいほど、私のそばにいる。先生、これからも、どうぞよろしくお願いいたします。

南無阿弥陀仏。

  • 2016年11月23日 蓮光寺旅行会 慶照寺での宮戸先生の法話
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