あなかしこ 第67号

如来の大悲のなかに受け入れられる私

阿部美次郎 (釋美聞 75歳)

30代の中頃、神田の本屋で彌生書房出版『歎異抄講座』という本を、何気なく、偶然に手にとって、ちょっと目を通した。それが親鸞聖人の教えとの最初出遇いでした。その時、どう感じていたのか定かではありませんが、何か気にかかって、とにかく全4巻すべて買って帰りました。

もっとも内容を理解するには、独学では限界があり、ちょっと読んではやめ、暫くおいてまた読む、というようなことを繰り返しておりました。ただ、そのなかで、曽我量深先生、金子大栄先生、さらには、両先生が言及しておられた清沢満之先生方のご言葉には、惹かれるものがありました。

転機になったのは、平成21年、同居していた義父の逝去でした。誰でも感じることと思いますが、生死の不安、それを根底とする人生をどう捉えるかという課題が現実の問題として突きつけられたのです。

この課題の解決には、『歎異抄』の基にある親鸞聖人の教えをいただく以外ないのではないか、という想いから、真宗会館が主催し、本龍寺の本多弘之先生が講義をされている「本郷親鸞講座」に参加しました。

本多弘之先生のご講義をお聞きするうちに、「これは真の教えを聞き続ける他に道はない、更に進んで真宗門徒として聞法していく他に道はない」という想いに駆られ、2016年蓮光寺の本多雅人ご住職による帰敬式を受式させていただき、法名を名告り、蓮光寺門徒となって、蓮光寺での聞法も始まりました。

その後、不思議なことですが、2年間のうちに、義弟の死、長男の急逝、妻の死と、たて続け様に、まさに生死不安の只中に放り投げられるような状況が続きました。自分の悲しみを、悲しんでいる自分が消すことはできません。自分の悲しみが阿弥陀如来の大いなる悲しみ(大悲)の中に受け入れられ、阿弥陀如来の大悲心によって救われる他ないのではないかとうなずかされたのです。南無阿弥陀仏とはそういう「はたらき」ではないでしょうか。

そして、40年来の、特にこの10年来の聞法生活は、将来そのような悲しみが待っていることを見通し、「真宗に触れなさい、そうする他に道はない」という如来の私に対する「はたらきかけ」、もっと言えば、「如来の激励」だったのではないかと感じるのです。

『歎異抄』にふれる第1期、本多弘之先生の親鸞講座に参加する第2期、2016年帰敬式を受け、蓮光寺門徒となって、蓮光寺での聞法が始まった第3期と、如来は周到に準備していたようにも思えてならないのです。

今なら、清沢満之先生の「如来は、私に対する、無限の慈悲であり、無限の知恵であり、無限の能力である」から、如来を信じるという信念が,少しはうなずけるような気がします。これからも、如来を信じるべく、聞法生活をしていこうと決意を新たにしています。

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