あなかしこ 第67号

法話

テーマ 何を大切に生きていますか 
第4回 浄土
講師 藤原正寿先生 大谷大学准教授、石川県・浄秀寺住職、56歳

真宗入門講座 
2019年3月9日(土) 於:蓮光寺

はじめに

  • 藤原正寿先生

皆さんこんにちは。連続4回の「真宗入門講座」のご縁をいただきまして、今回が最終回となりました。この講座全体を通しての講題は「何を大切に生きていますか」という問いかけでありました。これは私一人が問いかけたというよりも、「皆さんは何を大切に日々生活しておられますか」と仏さまの方から問いかけられた大切な言葉であると思っております。このテーマを、親鸞聖人の教えを通しますと、本願・念仏・信心・浄土という4つの言葉が手がかりとなるのだと思われます。

例えば、今ここに、一枚のチラシがあります。これが受け取らなければならない親鸞聖人からの大事なメッセージだとします。それを受け取る際に、一枚の紙には4隅ありますから、どの切り口からこれを受け取っても同じであり、どこからいただいても構わないのです。本願・念仏・信心・浄土と切り口はそれぞれ違いますけれど、取りあげるものは同じものを取りあげようとしているわけですから、どこから受け取ってもらってもいいわけです。ですから、この4つの言葉の違いにあまりこだわらずに、親鸞聖人が出遇って欲しいと願っているもの、親鸞聖人が私たちに届けたいとしているものは一体何なのか。そして、それをいただくと私たちの生活がどう変わっていくか、ということが重要ではないでしょうか。ですから、是非ともこれからも聞法の場に身を運びいただいて、仏さまの教えを聞き続けていただければと思います。

教えに生きた人に出遇う

お話を聞きにきて、聞いたら仏教のことがもう分かってしまったということはないはずです。聞けば聞くほど、ますます混乱して家に帰るだけかもしれません(笑)。スッキリしたと帰っても、後で何にスッキリしたのかが、まるで分からなくなるでしょう。むしろ混乱して帰ってもらった方がよいと思います。何遍聞いても分からないということになりますが、初めから聞いて分かるような話だったら、お寺に来なくてもいいわけでしょう。自分の家で本を読んでいればいいのですから。聞いて頭では理解できないけれども、聞かなくてはならないものだということが身をもって頷ければそれで十分ではないでしょうか。また次回も教えを聞きに行こう、お寺に身を運ぼうという気持ちが皆さんの中に起こってくることが、仏法を聞いていくという歩みなのです。そして、ただ聞いて帰るだけではなく、聞いたことを自分が生きていく上で、自分自身の身の問題として、しっかり聴聞して生活のなかで味わっていく、これが仏法を聞いていくという歩みなのです。

仏教を学ぶのにも2つ学び方があるといわれております。一つは、知識として仏教を学んでいく解学(げがく)の側面です。もう一つは、教えを聞き人生の歩みを通して、それは自分にとってどういうことなのか、受け止めを考え生活を通してそれを味わっていくという行学(ぎょうがく)の側面です。行学の学びには、どうしても欠くことはできない条件があります。それは、すでに仏法の教えに出遇い、仏法の教えに生きている人に出遇い、そしてその方に籍(よ)っていきなさいと親鸞聖人はおっしゃっています。親鸞聖人は「よる」という字を戸籍の「籍」の字を用いておられます。そこにしっかりと籍が入らないと私たちはだめなのです。私たちは、教えを単に聞き学ぶだけではなく、教えに生きた人に出遇い、そしてその人の教えに遇うことを大切にしていかなければなりません。

浄土とは 本当に生きていける居場所

親鸞聖人の代表的な著作に『教行信証』があります。それぞれの巻頭に『顕浄土真実教行証文類』という表題が付けられています。つまり、親鸞聖人のメインの著作である『教行信証』は全体を通して「浄土を顕かにする」ということが大事な課題であるということがここから読み取れます。

浄土の「土」とは、我々が生きている上でなくてはならない足場、立脚地をあらわしています。この真宗入門講座のテーマは「何を大切に生きていますか」ですが、皆さんは一体何を拠り所として生きていますか。皆さんの立つ瀬・立脚地は何ですか。親鸞聖人のいただかれた仏教の救いとは、我々が生きている上でなくてはならない足場、立脚する場所が顕かになったということであります。社会評論家の芹沢俊介先生は「浄土の土とは、居場所である」ということをおっしゃっています。人間は居場所がないと生きていけないのです。それで、いつも居場所を探して生きているわけでしょう。それが自分の健康や財産、そして自分の社会的地位や自分の家族であったりするわけでしょう。ところが私たちがそういった社会的環境を生きていく中で、いつまでも仲よくいられるわけではありません。

先日、私の知人の65歳の女性が亡くなりました。交通事故に遭って急に亡くなってしまわれたのです。お宅に伺ったら、家族中が泣いていました。孫が9人もいるのですが、お孫さんたちがおばあちゃんのご遺体の前で、ずっと泣いていました。私たちの大事にしている人間関係、頼りにしている拠り所・居場所というものは、いつ、どういう形で奪われるかもしれない不安定なものなのです。それが奪われた時に私たちは一体どうしていけばよいのか。そこから仏教の問いが始まるのです。そういった時に私たちに本当に生きていける居場所を与えたいというのが、仏さまの願いなのです。おおよそ宗教という限り、どのような宗教も「あなたを助けてあげます」といいます。親鸞聖人の出遇った仏教とその他の宗教の決定的な違いは、私たちにとって本当に安心して足を付けて生きていく「土」(居場所)を私たちに与えられるかどうかです。「土」を与えられて生きていく者になることで、自分の人生を生きていく力を賜っていくということなのです。

『教行信証』真仏土巻には「謹んで真仏土を案ずれば、仏はすなわちこれ不可思議光如来なり、土はまたこれ無量光明土なり。しかればすなわち大悲の誓願に酬報するがゆえに、真の報仏土というなり。すでにして願います、すなはち光明・寿命の願これなり」と記されています。まことの仏土を考えてみると、仏さまとは光であり、土とははかり知れない光明の土なのだと。

親鸞聖人は真仏と真土の2つに分けておられます。浄土というと私たちはどこかに実在する場所だと思いがちです。阿弥陀経には、自分のいる場所から阿弥陀さまがおられる極楽まで、十万億もの仏土を越えたところにある。そして、阿弥陀という仏さまは、今もそこで説法し続けてくださっているのだと書いてあります。まず、私たちが宗教に関心を示すきっかけは、自分の居場所の問題や、今自分が生きていることへの不安感であります。そういった問題を抱えている私たちに対して、何の苦悩もない極楽という世界があると憧れの世界を説いて、そこはよい場所と仏さまは呼びかけるのです。そうすることで、その世間的なものばかりに目先が向いている私たちに、世間的な幸福を追い求めるのではなくて、仏さまの世界に出遇うという大事なきっかけになるから、浄土が美しい場所として書かれているのでしょう。そういう形で呼びかけられる浄土に私たちが関心をもち、そこに惹かれていくという形でしか、私たちは浄土に生まれたいという心は起こって来ないのではないでしょうか。煩悩をもった私たち人間の世界と、迷いが一切ない仏さまの世界では接点が一切ありません。そこで、仏さまの方から私たちの迷いの世界まで降りて来てくださって、「こちらによい場所がありますよ、こちらに来なさい」と呼びかけてくださる。そういった仮の浄土「化身土」というものが仏さまによって用意されるのです。『教行信証』化身土巻というものがなければ親鸞聖人の浄土真宗は完成しないと言っても言い過ぎではありません。

浄土は場所ではなく、光のはたらき

私は、今回インドへ行き、お釈迦さまが『大無量寿経』や『観無量寿経』をお説きになった霊鷲山(りょうじゅせん)という場所で、仲間と共に僧衣を着て「正信偈」のお勤めをしました。その前に「ブッダン・サラナン・ガッチャーミ…」というパーリ文の三帰依文のお勤めをしたら、横にいたチベットやタイのお坊さんが一緒になってお勤めしてくださいました。インドの言葉ですから、みんな共通なのですね。一緒にお勤めをして、そこで感動して、「正信偈」のお勤めを始めたら、ちょうど西日が沈んで行くところだったのです。そうしましたら涙が止まらないくらいに感動しました。横を見ましたら、私の横で鏧(きん)を打っていた普段とてもクールな学生も、涙を流してお勤めしていました。その場にお釈迦さまがいらっしゃるわけではないのです。しかし、美しい西日を通して私たちは呼びかけられたように感じられました。「本当に帰るべき場所に帰りなさい、あなたが普段生きている場合はあなたの本当の居場所ではありません。そこではありません」と呼びかけてくださった。そういった説かれ方が、浄土というものの説かれ方なのでありましょう。仏さまは光如来であり、お浄土は無量の光の世界だと親鸞聖人は徹底しておっしゃっています。親鸞聖人の教えを読む限り、親鸞聖人が最終的に言いたかった浄土とは、死んでから往くところを言うのではなく、私たちが今ここにいるということに大切な意味があるのだ、生きてきてよかったと思うことができた、そういったはたらきに出遇った場なのでありましょう。そういった場に、いつ出遇うのかというと、死んでから出遇うのであれば、自分の人生において間に合わなかったのと同じです。そうではなく、今、自分がここにいてもよいのだと自覚できたということは、仏さまの願いに触れたということなのです。それ以外に「浄土に生まれる」ということはないのであります。「浄土に生まれる」というのは、私たちが光によって照らされることなのです。浄土とは阿弥陀の本願がその本質であり、その本質が光としてはたらく、それが実際の浄土というものであり、そこが仏土であるということなのです。

『教行信証』真仏土巻には「願成就の文に言わく、仏阿難に告げたまわく、無量寿仏の威神光明、最尊第一にして、諸仏の光明の及ぶことあたわざるところなり」とあります。仏さまの光はとても尊い光を放っておられ、その光の名は無量光仏、無辺光仏、無碍光仏、無対光仏、炎王光仏、清浄光仏、歓喜光仏、智慧光仏、不断光仏、難思光仏、無称光仏、超日月光仏と十二光で表現されています。『大無量寿経』の中には、私たちを光によって照らし出すことによって、私たちに自覚を促し、救いの世界に導いていく仏さまの願いが、具体的にはたらく姿を十二光として譬えて書かれているのです。そして、「三垢(さんく)消滅し、身意柔軟(にゅうなん)なり。歓喜踊躍(かんぎゆやく)して、善心生ず」│。この光に照らされた者は、3つの垢が消滅するというのです。つまり、人間の一番苦しい、貪欲(とんよく)、瞋恚(しんに)、愚痴という、そういう心から解放されるということです。腹立ちの心や人を妬 (ねた)む心がなくなるわけではありません。自らが起こしたそういう心によって振り回されるような生き方から解放されるということなのです。そして、身も心も柔軟な心になっていくのです。皆さんは洗濯する時に柔軟剤を使いますか。仏さまの光は私たちにとって私たちをフカフカにしてくれる柔軟剤のようなはたらきなのです。私たちは仏さまの光に遇うことがなかったら、ずっとカチカチ・ゴワゴワのままだということです。そして、天に踊り地に踊るほどのことが自分の身に起こって来て、善い心が私たちの中に起こってくるのだと記されています。

無明の闇が破れる

私たちが仏さまの光に遇うというのは、私たちにとって大きな安らぎを得ることなのです。逆に言えば、その光に出遇わなければ、私たちは自分の苦しみから解放されることはないということです。その苦しみの原因は自分の外にあるのではなく、一番の根源は自分の比較心でしょう。その比較心によって私たちは苦しんでいるのです。そのことを、人知の愚かさを知らされることが、無明の闇が破られるということなのです。光に遇う体験以外に、浄土と私たちの関係は成り立ちません。浄土に遇うきっかけは自分の苦しみであり、その苦しみの中でお念仏申せば、ちゃんと阿弥陀さまがお浄土に連れて行ってくださると『阿弥陀経』に記されています。親鸞聖人はこのことを『阿弥陀経』の表の意味であると捉えています。『阿弥陀経』に隠された裏の意味は、阿弥陀さまが私たちにお念仏を称えさせているのであるから、私たちが浄土へ迎えられるのは阿弥陀さまの願いによってなのだということです。救われるのが、死後なのか、それとも今なのかと分別している私たちの思いを超えたところに仏さまの本当の真意があるのでしょう。

「正信偈」には「善導独明仏正意」とあります。善導大師お一人だけが、お釈迦さまのおっしゃる仏教の心を明らかにすることができたというのが、親鸞聖人のいただき方です。善導大師の『観経疏』には「お念仏申すだけでよいのだ」これが『観無量寿経』の要であると押さえておられます。

「正信偈」には親鸞聖人が仏法に出遇われた感動の言葉が記されて、親鸞聖人にとっての浄土とは、私たちが仏さまの願いに触れる、光に出遇い、光によって照らされた自分自身が見えてくる仏土であるということなのです。「無明の闇が破れた」ことが、光に出遇ったという体験そのものであります。光に遇うとは、光そのものが見えたのではなく、自分自身が見えてきたことなのです。光に遇うまでは、自分自身が暗闇にいたことさえ気づきません。

私たちは、日常、楽しい暮らしをしていますから、自分の人生全体、自分の思いが闇であるとは到底思えないものなのです。文明という字は「明るい」という字を使います。私たちは、人間の知恵が進んで、昔より今の方がずっと明るいと思っているわけです。確かに都会は電気によって明るくなっているけれども、果たしてそこは本当に明るいと言えるのでしょうか。現代は私たち人間にとって大事なものが失われてしまって、便利であるけれども、必ずしもそこは豊かであるとは感じられないのです。孤独死、無縁死などが今でもなくならないではありませんか。

私は縁あって神奈川県の児童相談所の顧問をしています。児童相談所というところは、親子関係に問題があって子供を親元に置いておけないときに、子供を預かることができる保護所というものが併設されているのです。本当は子供に問題があるのではなくて、親の方に問題があるわけでしょう。なぜかしら、親自身が隔離されるのではなく、子供の方が身の安全を守るために社会から隔離されてしまうのです。その子供は学校の友達とも遊べずに、保護所という限られた空間に閉じ込められることになります。学校に行くと、そこでまた親が捕まえてしまって子供が親に連れ戻され、家庭内で再び暴力を受けてしまうから、学校にも行くこともできないのです。二度と手をあげないと親の方は約束をするけれども、子供たちは再びアザだらけになって保護所に戻ってきます。子供たちの腕にはタバコによるヤケドの跡があったり、5歳の女の子は熱湯ばかりかけられていたので頭皮がただれてしまって、毛が生えなくなっていたという子供もいるのです。ある4歳の男の子は目の周りにまっ黒のアザがあります。顔の形が変わるくらい殴り続けられたのでアザが消えなくなってしまったのです。なんで、こんなことになってしまうのでしょうか。怒りがこみ上げてきますね。私たちは進んだ文明社会を生きているといっているけれども、内実はそれぞれがどこかで満足できない心をもっているのでしょう。本当に「ここ」という居場所が喜べない、自分が生きているいのちそのものが喜べなくなっている私たちの姿なのです。他との比較でしか、幸せを感じられないのでしょう。虐待をする大人たちが「お前なんか、生まれなければよかったのに」と子供たちに言うものだから、子供たちは「どうせ、僕らは生きている価値はない」と思い込み、自分がここにいていいのだという安心感・自己肯定感がなかなか育たないのです。本来、子供は親に愛され、安心感と肯定感を得ながら成長していかなければなりません。そして、大人になって社会に一人の人間として適応していかなければならないのです。これらは、生んだ側・育てた側の大人の側の問題でしょう。これらの背景には、私たち大人の方が自分自身の存在に満たされていないという問題があるのです。人間の知恵によって文明は発達したものの、今の自分に満足できない。そういった私たちに対して、そこにいのちあることが大切な居場所であると知らせる力が仏さまの本願なのです。

善導大師の書かれた『法事讃』には「魔郷には停(とど)まるべからず」とあります。この世は私たちにとって居心地のよい空間ですが、仏さまの眼からすればそれは魔郷なのです。いつまでも自分の欲しい幸せばかりにしがみつくような今のあり方は魔郷であるから、それを捨てなさい。自分が今頼りにしているものは、私たちを最後まで支えてくれるようなものではありませんよ。むしろ、私たちを迷わせるものです。だから、今いる場所は本当の場所ではない魔郷です。そこを去り、浄土へ向かいなさいと善導大師は教えてくださいます。浄土が別のどこかにあるのではなく、今いる場所を魔郷にしているのは自分自身なのだと気づかせるのが、仏さまのはたらきであり、浄土という仏土なのです。他郷や魔郷という表現は、本来自分の故郷にならない場所を私たちは故郷にしているあり様を知らせてくれているのです。そこを離れて浄土へ向かいましょうと呼びかけて、今いる場所は本当でないと知らせる。そのはたらきを親鸞聖人は光と捉えているのだと思います。

浄土に生まれる

浄土に向かうとは、今いる場所から移動することではなく、今、自分に与えられている人生の中で仏さまの本願・光に遇うことで、この苦しみの世界を安心して生きていける力をいただいて生きていくことができる。それが浄土に生まれることの内実であり、お念仏の世界なのです。娑婆は人間の煩悩で作り上げられた世界ですから、いつも争いごとをするのです。そういった中から、浄土の光に触れると、自分の本当の願いが何であったのかが知らされ、その願いが満足されていくものなのでしょう。

天親菩薩の『浄土論』には「観彼世界相(かんぴせかいそう) 勝過三界道(しょうがさんがいどう) 究竟如虚空(くきょうにょこくう) 広大無辺際(こうだいむへんざい)」という文があります。訳しますと「浄土とはどういったところなのかを観察してみると、迷いの世界を超えていて、ここが迷いの世界であることを私たちに知らせ、自らの価値観が迷いであると知らせるはたらきである。そこは終わりがないほど広い世界なので、何人入っても大丈夫であり、誰もが無条件に入れる世界なのです」と記されています。

この文を宮城顗先生は「広大無辺際とは、どこにいても、真ん中だということです」とおっしゃいました。この世界は有辺の世界で、上下関係、比較の世界です。仏さまの世界とは、それを超えている世界だということです。人間の分別に一切左右されない世界を浄土というのです。そして、浄土からのはたらきが光なのです。この苦しみの世界から逃げだすことなく、私たちの世界とは全く違ったはたらきをもった浄土という世界に触れなさい。そして浄土へ行きっぱなしになるのではなくで、この迷いの世界に還って来て、そして堂々とこの世を生きていきなさい。これが仏さまの本願の声なのです。浄土に生まれたら、この迷いの世界の中で仏さまの願いを自分の大切な拠り所として、生きていく人生をいただいていく。お念仏の人生を生きていくことが、親鸞聖人が出遇った世界なのでしょう。

『浄土論』の終わりに「不虚作住持功徳」という言葉が出てまいります。これは仏さまの本願力に出遇ったものは、空しく過ぎることのない人生を確実にいただくのだという仏さまの力の真実性をあらわしている言葉です。

私たちが仏法に出遇ったら、自分の人生が空しく過ぎなくなるということが、今回インドを旅行して気づいたことです。インドの人々は貧しいながらも、日本人よりもずっと生き生きとしていました。子供たちもたくさん外で遊んでいました。今の日本では、子供たちは外で遊んでいませんよね。私たちは未来の不安ばかりで、今の自分を生き生きと生きてはいないのではありませんか。そういった私たちに今生きることの大切さを教え、空しく過ぎることのない人生を私たちに与える。これが仏法に出遇ったという証なのでしょう。今、日本の私たちは過去や未来のことばかりで、今を生きることを忘れていて、人生がむなしくなっているのではないですか。時が無意味に過ぎるというだけでなく、自らを損(そこ)ね、他を損ねるという自損損他(じそんそんた)のあり方、そして人と人との関わりを失っているあり方が空過であるのだと親鸞聖人は押さえておられます。つまり、空過とは、関係性を失ったということなのです。私たちは人と人の関わりの中に生きながら、それを見失っています。一緒にいて仲よくしたいと思っているのに、傷つけ合ってしまったり、その人とのつながりを自らが切ってしまったりしています。様々な関係性の中にいながらいつも孤独とむなしさを感じている。それがむなしく過ぎているという私たちの内実です。仏に遇えば、そういうむなしい人生を超えることができるのです。他者との関係性を回復し、自分自身が生きていることに意味を感じることができる。むなしく過ぎることのない人生を今ここにいただくことができるということが、親鸞聖人が『真仏土巻』でおっしゃっている内容でしょう。

浄土は極楽というよい場所ですと説いて、そちらへ私たちがいこうとしてみたら、本当に浄土にいくとは仏さまの本願に出遇うことなのだと出遇いによって気づかせる。その出遇うというのは、私たち人間の闇が破られていくことであります。闇が破られると、自分はあれも欲しいこれも欲しいと思っていたけれど、本当に自分が欲しかったものはこの一つだった。自分が今生きているうえで真の拠り所が欲しかったのだ、みんなと心から出遇いたかったのだ、それができていないからイライラしたり、寂しかったりしていたのだ。こういった仏さまの世界に触れながら生きていく、その歩みを親鸞聖人は「浄土に生まれる」とおっしゃっているのです。

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